見出し画像

雨が住む

著:水瀬 文祐 文字数約5,000字


 雨の中には、雨旅(うりょ)がいるという。
 都心から車で五時間はかかる田舎に住む祖母は、僕によくそう言った。
 祖母の住む田舎に行くのは好きではなかった。道のりは、住宅もまばらな鄙びた道をある程度過ぎると山間部に入る。そこからはコンビニすら姿を消す。その上道がぐねぐねと迷子の蛇みたいにうねるものだから、乗り物に弱い僕はすぐ車酔いになってしまう。
 でも、行きたくない理由はそれだけじゃなかった。正直に言えば怖かったのだ。その雨旅が。
 雨旅は見る人によって姿が違うという。祖母の祖母は、幼い少女だったと語ったらしい。この辺で見られなくなって久しいけどねえ、と懐かしむように祖母は言うが、必ず付け加えて僕を脅すのだ。
「あんたが来ると雨が降るからね。雨旅が来ているのかもしれないねえ」
 雨旅は雨が大地に染み込むように、気に入った相手の頭の中に染み込む。そして頭の中で声を発し続ける。そうなると入り込まれた人間は発狂するしかない。やがてその狂気も収まるが、その人物はまるで別人になったかのように人が変わる。これは雨旅に頭の中を破壊され、乗っ取られたからだと考えられていた。
 だから僕は今回も行きたくなかった。でも、祖母が庭で転んで骨折し、介護の認定やケアマネジャー、介護事業所が決まるまでの面倒を見なくちゃならないということで、折角の夏休みなのにこうして車に揺られてやってきた。

 僕はできるだけ祖母の家から出るつもりはなかった。だが、母から醤油が切れているから買ってきてと頼まれて、断り続けたが母の怒りが目の中に顕在化してきたので、渋々引き受けた。
 醤油を買った帰り道、自転車が古かったのがいけないのか、畦道がでこぼこして悪路だったのがいけないのか、チェーンが絡まって僕の力ではちょっと修復できない困った事態になった。
 どうしようか、と迷っていると、前方から夏なのに真っ黒なロングコートに身を包んだ男が、柄や骨組みまで真っ黒な傘を提げてやってきた。
 男の纏う異様な雰囲気に、わき目もふらず逃げ出したかった。でも、周囲は田んぼで見晴らしがよく、隠れる場所はない。目を伏せてしゃがみこんで、自転車をいじっているふりをした。
 男は僕の隣を何事もなく通り過ぎて行った。安心してため息を吐くと、「故障か」と頭上から若い男の声が降ってくる。
 顔を上げると、すぐそばにコートの男が立っていて、左手をポケットに突っ込んだまま僕を覗き込んでいた。
「う、うん」と仕方なく頷いた。
「どれ、見してみな」
 男は僕の隣に屈むと、チェーンの油で手が汚れるのも厭わず、かちゃかちゃといじって、捻じれて絡んでいた部分を解いた。黒い袖とのコントラストのせいか、男の手は白く細く滑らかで、美しかった。僕の父さんのような、節くれだってひびだらけでごつごつした無骨な手とはまるで違う。髪の毛は伸ばしっぱなしでぼさぼさで、口の周りには無精ひげが目立つのに、手だけは綺麗だった。
 その綺麗なものを、僕の自転車のために汚させたことは、罪悪感となって僕の心に棘として引っかかった。
 男はペダルを押して車輪を回し、チェーンが問題なく回ることを確認すると、「まあ、これでいいだろう」と納得して頷き、立ち上がった。
「雨が降るぞ。急いで帰れよ」
 男がそう言うので僕は怪訝に思って空を見上げた。雲なんて一つもない。油絵の具に水をたっぷりと溶いて、平筆で速い筆致で塗りたくったような、ウルトラマリンの空だった。
「おじさん、ひょっとして雨旅なの」
 思わず口をついて出た。根拠も確信もあったわけじゃないけれど、そうじゃないかな、と直感的に思ったのだ。
 男は片方の口角だけ吊り上げて笑った。ぎこちない、不自然な笑みだった。
 男の目の色は青とも灰色ともつかない、深くくすんだ色をしていた。雨の色だ、と思った。
「まあ、そうだな。だが、まだ『半分』だ」
「半分?」
 男は吊り上がった口角を指で無理矢理下げ、元の無表情になる。
「そうだ。半分は『俺』という人間で、もう半分が『雨旅』だ」
「今はどっち?」
 男はゆっくりと首を横に振った。
「お前はカフェオレを飲むとき、どこからがコーヒーでどこからがミルクか考えるのか?」
 カフェオレなら僕でも飲めるから、時々飲む。カフェオレはカフェオレとして受け入れる。男の言うとおりだった。
「じゃあ、いつかは完全に雨旅になるの」
 ああ、と男は頷いて空を見上げる。いつしか北の空に重苦しい雲が迫り始めていた。
「俺はその日を待っているんだ。雨旅になり、俺じゃなくなる日を」
 自分が自分じゃなくなる、それは怖いことじゃないのか。僕は男が言っていることが理解できなかった。その当惑を見抜いて、男はふっと自然な笑みをこぼす。
「お前の戸惑いは分かる。われ思うゆえにわれあり。お前はまだ知らない言葉かもしれないが、直感的に分かるだろう。自分という意識が消えること。それはすなわち自分の死、消滅を意味すると」
 僕は頷く。でも、心の中では早く自転車に跨り、帰れ、と警鐘を鳴らしている自分がいて、だけどどういうわけか足は動かない。僕は、この男の話を聞かなければならない。そう押し留める自分もいるのだった。
「俺は『俺』であるとき、くだらない人間だった。働くこともせず、毎日妻の稼いだ金を使って遊び歩いた。妻が抗議すると殴りもした。子どもが怯えて泣いていれば、怒鳴りつけた。それでも金が足りなければ空き巣に入ることを繰り返した。金はいくらあっても、いくら使っても、俺の心を慰め、癒してくれることはなかった」
 俺は、と言って、男はポケットから左手を抜いた。さっきチェーンを直していたとき白く美しかった手は、真紅に染まっていた。赤い液体が滴るように地面に零れ、溜まりを作る。
「ある日脅すつもりで手にした包丁で、妻を刺し殺しちまった。この左手で、だ。そしてこの村まで逃げてきて、森の奥に身を潜めているうちに、廃屋を見つけた。その廃屋で罪に震えていると、急に土砂降りの雨が降ってきて、入り口に俺が立っていた。正確には俺の姿をした何か、だ」
 男がポケットに手を突っ込むと、赤い血だまりは蜃気楼のように跡形もなく消えた。
「そいつが俺に言った。『雨ならば、お前の罪を洗い流してやれる。ただし、雨は洗い流すものを選べない。お前の自我も根こそぎ流していくことになるが』と。それでよかった。消し去れない罪を抱えて生きていくくらいなら、死んだ方がましだ。だが、自殺するほどの勇気も俺にはなかったのさ」
 男はくくっと卑屈そうに笑って、傘を持った右手で顎の無精ひげをざりざりと撫でた。
「そういうわけだから、『雨旅』はお前には渡せん。残念だがな」
「どういうこと」と僕は目を細めて睨むように男を見上げた。
「こいつが目をつけていたのはお前だったのさ。雨旅は罪ある人間にしか興味を抱かない。この村はお人好しが多いからな。罪を隠した人間というのは珍しい。だが、俺が現れちまった。より大きな罪を犯した俺がな」
 解いたロープ、鳴り響いたクラクション、衝突音、水風船を叩きつけて割ったような耳障りな音。そして美央ちゃんの絶叫とも言える悲鳴。
 僕は美央ちゃんの飼い犬のエリスを殺した。
 実際に僕がしたことは、本屋の店先にある街灯に括りつけられたエリスのロープを解いただけだ。でも、それをすれば、高い可能性でエリスが車に轢かれることを、僕は分かっていた。道路を挟んで向かい側に、エリスがご執心だったメスのレトリーバーがいたからだ。
 それで僕は、美央ちゃんが雑誌に夢中になっている隙にロープを解き、エリスを放った。エリスはまっしぐらに道路に駆け出し、運の悪いことにそこに大型のトラックが突っ込んできた。ブレーキなど当然間に合わず、エリスは大きなタイヤの下敷きになり、死骸は原型すら留めていなかった。
 僕は必死に言い聞かせた。エリスが、美央ちゃんが悪いのだと。僕が大事にしていた戦闘機のプラモデルを玩具にして壊して、一言も謝らないどころか悪びれないあいつらが。あいつらが悪いのだと。
 でも、その日の夜、法学部の大学に進んだ兄さんと父さんが、「未必の故意」について話しているのを聞いて、僕がやったことはこの「未必の故意」に当たると知った。ロープを離せば死ぬことが分かっていながらそれをしたなら、殺したも同然であると。
「俺は半分『雨旅』だ。お前の罪を流してやることができる」
「でも、僕の頭の中も乗っ取るんだろう?」と敵意に満ちた眼差しを向けた。
 男は涼しい顔でその敵意をいなし、微笑んだ。
「『雨旅』は一人の中にしか入れない。『雨旅』にも個体という概念があり、一つの個体が分裂することはない。そして一度入ったならその肉体は雨旅にとって檻となり、出ることはできない。だが、雨で罪を洗い流す力は残る。ただし、洗い流す代わり、お前の罪に関する記憶は一緒に流れることになる」
「忘れるってこと」
 そうだ、と男は頷いた。
「この『雨旅』、俺はずっとお前を待っていた。罪を犯す人間は特有の臭いがする。雨の臭いだ。お前からは濃厚な雨の臭いがした。だから、お前が罪を犯すまで待っていた。だが、この男、俺が現れてしまった」
 男は肩を揺すって声を押し殺しながら笑った。
「俺は都に行く。そこなら悪意が五月雨のように降るだろう。『雨旅』は体に困らなくなる。人間は『雨旅』と違い有限の存在だからな。肉体はいつか滅びる。俺が前にとりついた女が、この村にやってきてしまったのは誤算だった。悪意がこんなにも薄いなんてな。だが、その長い雌伏の時ももう終わる」
 さあ、と男は両手を広げた。「お前にとっては最初で最後の機会だ。お前の犯した罪から逃れられる」
 僕は俯いて考えた。男の言葉に従えば、僕は楽になれる。あれは事故だったんだと無理矢理自分に言い聞かせる必要もなくなる。
「お前は自由だ。忘れて生きることも、罪を抱えて窮屈に生きることも」、男の言葉が悩む僕の頭の上に降ってくる。
「いや、やっぱりいい」と僕は顔を上げた。
「なぜだ」と問いながら、男の顔は笑みで輝いて見えた。
「僕が忘れても、エリスを僕が殺した事実は消えない。もし美央ちゃんがそれに気づいたとき、僕が忘れていたら? 美央ちゃんは僕をどうしようもないほど憎むよ。そして僕は自分のしてしまったことを償う機会を永遠に失うんだ」
「綺麗ごとだ」と男は顔を顰めてつまらなさそうに吐き捨てると、うってかわって穏やかな笑みを浮かべ、「お前は強いな」と嘆息した。
「お前の言う通りなのだろう。俺は妻を、大事だったはずなのにな……。その妻を殺した罪を償う機会を永遠に失うのさ。もうすぐ俺は俺でなくなり、『雨旅』という妖の存在になる。あの世で妻に会って謝ることもできないのだろうな。それから娘の成長を見守ることもできない。ああ、ちくしょう。俺はいつだってこうだ。選んだ選択肢が馬鹿なものだって、後から気づいて後悔する」
 男は泣きそうにくしゃっと顔を歪めたかと思うと、にやりと笑った。
「その愚かさゆえに、人のルールを踏み外し、人外の領域まで落ちることになるわけだ」
 男はにやにやして言ったが、やがて拒絶するように首を振り、「お前はこうはなるな」と叫んだ。
 僕ははっとして自転車に跨り、懸命にペダルを漕いだ。砂利にタイヤがとられて、ハンドルが右に左に振られそうになる。
「いつでもお前を見ているぞ。世界に雨が降る限り、俺はお前のそばにいる!」
 男は叫び、甲高い笑い声を上げた。
 必死に駆け抜け、祖母の家に帰り着くころには、重い雨雲が空に立ち込め、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
 帰って来た僕を、縁側に腰かけていた祖母が「雨旅には会わなかったかい」と悪戯っぽく訊ねた。
 僕は引きつった笑みを浮かべながら、「うん、まあね」と虚勢を張って答えてみせた。
 茶の間に入り、台所の引き戸に手をかけたところで、鍋が煮えることことという音を聞き、僕は醤油を忘れてきてしまったことに気づいた。
 母にどう言い訳しようかと思案していると、窓が一人でに開いて、そこから醤油のボトルが飛び込んできた。
 窓に飛びついて外を覗き込んだが、誰もいなかった。首を傾げながら、醤油のボトルを手に取る。
 ボトルは通り雨にでも遭ったようにびっしょりと濡れていた。転がった衝撃か、醤油は泡だっていた。
 僕はその泡が弾けて醤油に溶けていくのをぼんやりと眺めながら、「雨が来る」と呟いた。

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?