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春、醒める【シロクマ文芸部】

 布団から春が顔を出していた。
 僕は開けかけた襖を一度閉め、目をよく擦った後でもう一度開けた。
 やはり春は布団から顔を出していた。血色のいい腕を、何かを掴むように枕を跨いで差し出し、頭は枕からずり落ちて、ただでさえ癖っ毛の桃色の髪が寝ぐせで、満開の桜の樹のように咲いていた。
 まだ二月の頭だというのに、春が目を覚ますなんてことは、過去の管理人の記録をどこまで遡ってもないことだろう。もしこのまま彼女が目覚めることを許せば、僕は政府からどんな難癖をつけられるか分かったものじゃない。
 この館には「四季」が住んでいる。
 癖の強い桃色の髪と、黒いフレームの眼鏡がトレードマークの「春」。起きているときは小説ばかり書いていて、出来上がったものを僕に読ませるのだが、彼女のドリームワールドというべき異次元の頭脳から生み出された文章、物語は凡庸な人間である僕には到底理解できなかった。だが、感想を言わないと怒るので、「人智を超えている」と言うようにしている。嘘ではないから。
 端正な顔立ちと、細身ながら引き締まった肉体を誇る「夏」は、暇さえあればやれサッカーだ、やれ野球だ剣道だとスポーツに明け暮れている。それに僕が付き合わされ、夏の間は筋肉痛に苛まれることは言うまでもない。
 栗色のボブカットの髪型が特徴的で小柄な「秋」は中性的な男の子だ。スポーツも得意だし、料理も得意。絵画も得意、だが、やはりその芸術は前衛的過ぎて、僕の理解の範疇を超えていた。彼の作るお菓子が絶品なので、ついつい食べ過ぎて体重が増えてしまうことが悩みの種だ。
 長い黒髪に、白い着物と、日本人の連想する雪女のような出で立ちなのが「冬」だ。本当は洋装が好みなのだが、日本人の期待に合わせてくれているらしい。この冬、大人しそうな凛とした風情の女性に見えるが、一度口を開けば吹雪のように言葉が飛んできて叩きつけられ、言葉の嵐の中で溺れそうになるほど、お喋りなのだ。他に趣味もないから、冬の間中僕はそのお喋りに付き合わされることになる。
 彼ら「四季」の日頃の世話をしつつ、「入眠」と「覚醒」の手助けをするのが管理人である僕の仕事だ。
 就活に失敗した僕に、楽で稼ぎがいい仕事がある、と甘い言葉で誘い、しかも国家公務員待遇、といううますぎる餌でまんまと釣ったのは祖母だ。先代管理人が亡くなって、後任探しが急務となったが見つからず、政府の役人が祖母に泣きついたというから、さて祖母は何者なのだろうかと孫の僕でも訝らないわけにはいかない。
 だが、今はそれどころじゃない。
 春が目覚めて、冬と鉢合わせるようなことになれば。
 考えてみるみる血の気が引いていくのが自分でも分かった。恐らく世界的に天文学的な被害が出る。そうなったときに、責任を負えと言われても、昔風に言うならば、僕の首一つ差し出しても片が付きはしないだろうということだ。
 僕はそっと春の頭を押し、布団を引き上げる。だが、春の頭はびくともしなかった。布団を引き上げると、今度は春の足が覗いた。ううん、と春は身もだえして、頭が完全に枕から落ちて片腕だけだったのが、両腕が布団の外に出た。
 悪化したか、と舌打ちし、何とか腕だけでも布団の中に押し込もうとするが、何だか電柱を押して動かそうとするような無謀な行為に思えて、諦めて立ち尽くした。
 腕を組んで考え、やむをえない、と自分に言い聞かせ、部屋を出て階下に降りた。
 リビングでは冬が冷やし焼き芋をスプーンで突きながら、冷たい緑茶を啜っていた。
「どうかしたの?」、察しの良い冬は僕の青ざめた顔を見て即座に何事か起こったと理解したらしい。芋のついたスプーンを舐めとると立ち上がった。
「春が起きそうだ。でも僕じゃどうにもならない」
 くすくすと冬は笑った。
「そりゃあ人間じゃあねえ。大丈夫よ。こんなこと初めてだけど、わたしがどうにかするわ」
 頼むよ、と頭を下げて二人で二階の春の部屋に上がる。
 部屋に入ったとき、春は起きて布団の上に座り込み、眠そうにしきりに目を擦っていた。僕は危うく悲鳴をあげかけた。
 覚醒した「四季」同士を会わせてはならない。
 この館の鉄の掟だ。未だかつて歴史上これを破った管理人はいない。春と冬が世界に同時に訪れる、そんな事態が起これば、世界は混沌に包まれ、破滅の一途を辿るだろう。脅しのように政府の役人に繰り返し言われたことだ。
 それを図らずも僕は破るような形に持っていこうとしている。冬を呼んでしまったのは大失敗だ。取り返しのつかない致命傷。
 そんな悲壮感に包まれた僕とは裏腹に、冬は呑気な様子で子どもに話しかけるように春に話しかける。
「ねえ春。わたしまだちいっとも眠くないのよ。もうちょっとだけ眠っていてくれないかしら」
「んー、でもお、夢の中でいいネタが浮かんだんですよお。それを書きたいなあと思ってて」
 まだ覚醒しきらないのか、春は寝言のようにぶつぶつと呟く。
「あら。でも今起きるなら、まだわたしの時間だから、お喋りに付き合ってもらうわよ。そうしたら思いついたネタなんて忘れちゃうわ。それより、もう一度眠ってもっといいネタ探してらっしゃいよ」
 春は一度かっと目を見開いて、「それだけは嫌です」とはっきりした口調で断った後でまた夢見心地のような、ふわふわとした口調に戻り、「もう少し眠るのも、悪くないかもお」と呟いて、洞穴のようにぽっかり開いた布団の穴の中に飛び込んで、暖かな布団にくるまれてぐうぐうと寝息をたて始めた。
「これで心配ないわね」と冬は思わず見とれてしまうほど艶然として美しい笑みを浮かべた。
「助かったよ。物理的に僕の首が飛ぶかもしれないところだった」
 大げさねえ、と冬はころころと可笑しそうに笑うが、決して笑い事ではないことを僕は知っている。
 外出も外部との接触も制限されている生活だが、時間は割とあるので、過去の管理人の記録を辿って読み進めている。そして江戸時代の管理人の中に、冬を起こすのが五日早い、と時の将軍に難癖をつけられ、斬首された者がいるのだ。
 今は首を斬られるようなことはないかもしれないが、政府が何を考えてどう行動に移すかなんて、凡人かつ一般庶民な僕に分かろうはずもない。
「それはそうと」と冬はにっこりと白く美しい歯を覗かせて笑んで言う。
「貴方のお仕事を手伝ったんだから、今日はいつも以上にお喋りに付き合ってもらわなくちゃねえ」
 甘えるような猫なで声は上質なアルトの歌声のようだが、僕にとっては処刑台のギロチンの刃のような、冷徹で無機質なものにしか思えないのだった。
「布団から春」、春の声がして振り向くと、寝言だった。彼女は夢の中で幸福なのか、ふふふと春の日向のような笑い声を零していた。

〈了〉

 #布団から #シロクマ文芸部  

シロクマ文芸部様の「布団から」のお題に参加させていただきます。初めての参加となりますので、どうかお手柔らかにお願いします。


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