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バンド・デシネ『年上のひと』と映画『ファルコン・レイク』の感想・ネタバレ考察

2023年8月25日、映画『ファルコン・レイク』が日本公開された。

いやぁぁぁ~~~待ってました!!
そういえば、今からちょうど1年くらい前に動画も作ってたわ。
そのときは2022年12月にフランスで公開っていうお知らせをしてました。
(このときの本題はバスティアン・ヴィヴェス作画の«La Grande Odalisque»の映画化のはなしでしたね…)

はい、いわずもがな、バスティアン・ヴィヴェス『年上のひと』原作の映画です!
で、公開してすぐの休みの日に観にいってきました~~~!!!!

これがね、ほんとね。よかった……。

っていうか、かなり驚いた……!!

原作の要素をけっこう忠実に再現しながらも。

観終わった後の印象が原作と180度違う……!!!!

かなり衝撃的。
原作を読んだ方には映画も観てほしいし、映画を観た方には原作も読んでほしい。
もちろんまだどっちも観てない・読んでないって人にはぜひ観てもらいたい・読んでもらいたい……ってことで。

今回は原作と映画のネタバレあり感想を記事にします!


思春期の少年少女のひと夏の思い出、原作バンド・デシネ『年上のひと』

まずは原作バンド・デシネを紹介します。

というか、ウェブ上で4分の3が試し読みできます!
もう試し読みという領域を超えた大盤振る舞いなボリューム。
紹介記事なんていいから、とにかく作品が読みたいという方はぜひこちらをどうぞ。

バンド・デシネ、フランス語圏マンガです。
バンド・デシネといえばフルカラーのイメージがありますが、本作はモノトーン。
作者は日本にも根強いファンの多いバスティアン・ヴィヴェスですね。

13歳の少年アントワーヌは、両親と3歳半年下の弟ティティとともにフランス西部の海辺にある別荘に夏のバカンスにやってきた。
そこで合流することになった親の友人とその娘の16歳の少女エレーヌ。

ひとつ屋根の下で過ごすことになった少年少女の
たった1週間の夏の思い出。

フランスの開放的な明るい海辺。
性への知識はあるけれど経験のない、だからこそ性への好奇心旺盛な思春期の男女。
年上のエレーヌに導かれるように、ただただ翻弄されるアントワーヌ。

本作、身もふたもない言い方をすると……。
ちょっとエッチな年上のお姉さんにイタズラされちゃう少年。
という思春期男子の夢とか願望とか欲望とか妄想とかが盛りだくさんに詰まった作品と言えなくはない…! だが、単なるエロマンガにならないところがバスティアン・ヴィヴェス!(笑)

なんといってもふたりの微妙で絶妙な関係がとても良い。

アントワーヌの母親は彼が生まれる前に流産していた。
エレーヌの母もこの夏、流産していた。
アントワーヌにいたかもしれない姉。
エレーヌにいたかもしれない弟。

ふたりは姉弟のようでもあり、もちろんそうではなく。
恋人のように触れ合うけれど、明確な恋愛感情があるわけでもなく。
もちろん友人というには会ったばかりで。しかも友人以上の濃密な距離感。
マンガの帯には「姉で、友達で、恋人で」とあるけど、そのどれでもあるし、そのどれでもない。

そしてエレーヌの危うさがすごく良い!

身体は十分に大人になっていて、煙草を吸ったりワインをあおったり、アントワーヌに対しては大人ぶっている。しかし、ふと見せる表情があどけなかったり、当たり前だけど年相応の少女の初心さが垣間見れたり……。

そのアンバランスさがなんとも言えないのです。

とくに、アントワーヌが初めてエレーヌに出会った朝。
真っ直ぐに上を見ているような自信を持った大人の女性とは正反対に。
うつむき加減に、肩をすくめて、スマホの小さな画面・小さな世界に見入っているエレーヌの無防備な素顔。

その対比となるような、彼女のラストの姿が……っとラストのはなしは下の【ネタバレあり】のコーナーで語ります……!!!!!

原作を忠実に再現しながらも全く印象の異なる映画『ファルコン・レイク』

さて映画『ファルコン・レイク』。
とりあえず予告編でも見てください。

基本的には原作『年上のひと』のストーリーを忠実になぞっています。
もうすぐ14歳になる少年バスティアン(原作者へのオマージュでしょうか)は、両親と弟とともに夏のバカンスにやってくる。
同じ別荘で過ごすことになる16歳の少女クロエ。
人生にたった一度だけ、二度と繰り返すことのないふたりの夏。

いくつか原作と違うところがあります。
ひとつめは、物語の舞台。

監督はシャルロット・ル・ボン。カナダ出身で女優として活躍されてきた方。
原作ではフランスの海辺だった舞台は、監督の馴染みのあるカナダ・ケベック州にあるファルコン・レイクという湖に変わっています。

この舞台が大変にすばらしい。
原作の開放的な明るい海辺と違って、鬱蒼とした森に囲まれた湖。

閉塞感が半端ない……!

そして少年少女をこの湖周辺へと閉じ込め、外に抜け出すことを拒否するかのように、暗く底の見えない湖面にも、鬱蒼と茂った木立の間にも、何かが潜んでいるような気配がそこはかとなく漂う。

そして原作にはなかった要素としてもうひとつ。

湖に現れるという幽霊の噂。
湖で溺れ死んだ人がいるという話。
湖で泳いでいる途中で誰かに足を掴まれたという言葉。

クロエはバスティアンに目に見えない何かの存在をほのめかす。
それはとても「死」に近く。
この映画に通奏低音にように不気味さが付け加わる。

そんななかで、クロエとバスティアンのふたりが重ねる行為は、原作を読んで感じた単なる性への好奇心という言葉を越えた意味を持つ。

ということで以下【ネタバレあり】パートに突入します……!!

↓↓ スクロールしてね ↓↓
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【ネタバレあり】原作バンド・デシネと映画を好き勝手に比較考察!

原作バンド・デシネと映画、冒頭にも述べたが第一の感想は

観終わった後の印象が原作と180度違う……!!!!

原作は前述したように少年の願望が大いに表れているように感じた。
とくに体験が少ないにもかかわらず積極的にアントワーヌに迫るエレーヌには、ややもすると男性にとって都合の良いフィクション味を感じてしまう部分もあった。

しかし映画では、まったく逆の印象を抱いた。
どちらかというと少女クロエのほうが身勝手で、それにふりまわされ犠牲になる無垢な少年バスティアンという印象を受けたのだ。

原作のアントワーヌにとって、小悪魔的であったり魅惑的であったり、ミステリアスでありながら眩しく憧憬の存在だった少女エレーヌ。
しかし映画の少女クロエには、湖面や湖を取り囲む木立のように暗い、思春期の少女特有の闇の部分が色濃く描写される。

幽霊や溺死体の噂も、クロエの捏造のように思えるシーンが何度か出てきた。
それは彼女が抱える闇の部分のひとつだ。

映画の序盤、別荘でみんなで日本のアニメを見るシーンがある。
『L'attaque des Titans』やん……!(いちおうフランス語圏映画なのでフランス語で書いておく)
某マンガ原作アニメであることは一目瞭然で、ちょっとそのあとの集中力をそいでしまう感もあって困ってしまったのだが、このアニメがその後のストーリー展開の重要なキーになっている。
エ〇ンが巨人になるために自らの手に噛みつき血を流すシーン。
本当に人は血が出るまで自らを傷つけることは可能なのか。
クロエはバスティアンを促しながらアニメと同じように自らの手に噛みつく。
それは思春期にありがちと言ってもいいのかもしれないが、自傷行為のひとつ。
クロエは自分のなかでそういう衝動を抱える人物として描かれる。

加えて初めてのセックスに対して「血が出る」という発言がある。
(決して必ず血が出るわけでないのだがな)

この発言の有無によって、クロエがバスティアンを促しておこなう性的な接触の意味が、原作と映画ではまるで異なってくる。
つまりクロエにとってバスティアンとの行為は、単なる性への好奇心だけでなく、自傷行為に近いものなのだ。

***

原作のアントワーヌと映画のバスティアンの描き方もかなり印象が変わって感じた。

アントワーヌは飛び級していてクラスメイトが年上のこともあって、13歳という年齢の割りに性への知識だけは豊富に持っていて、エレーヌをドン引きさせるシーンがある。
一方、バスティアンはそういった描写はなく、無垢な子どもとして描かれる。
アントワーヌのエレーヌに対する気持ちが知識を持っているがゆえの性への好奇心が主に感じるのに対して、バスティアンはクロエに翻弄されることで湧き上がる彼女への恋愛感情のように強く感じる。

それはクロエに対して抱く独占欲、年上の青年たちへの自己顕示欲や虚勢に表れている。

バスティアンは年上の青年たちから「クロエとセックスしたのか」と質問されて「ヤッた」と嘘をつく。
それは無垢な子どもから、クロエを傷つける大人の男性への変化でもある。

***

原作、映画をとおしてこの物語に共通する大きなテーマは

「大人になりたくない」

という願望だと思う。

それはラストシーンで少年が海(湖)を泳いで渡る、というシーンに凝縮されている。
「泳いで渡る」ことはすなわち「大人になること」。

原作バンド・デシネでは、アントワーヌはエレーヌに「お願いだから行かないで」と止められる。
アントワーヌは始終、受動的な人物として描かれる。
なのでこのエレーヌの発言もエレーヌ自身の望みというより少年自身の「大人になりたくない」「それを誰かに止めてほしい」という願望に思える。
皮肉なのは、海を泳いだ17歳の少年たちが渡り切ることができずに命を落とし、「永遠の子ども」でありたいという願望をかなえてしまうことだ。

そして、エレーヌ自身も「大人になりたくない」という思いを抱えている。
彼女が義父の家に「行きたくない」と漏らすシーンがある。
義父の家に行くということは、子どもたちだけの部屋を抜け出して、外に出ること、すなわち大人になること。
義父の家に行くために船で海を渡るというのがとても象徴的だ。

ラストでアントワーヌは、海を泳ぎ切って大人になることもなく、かといって永遠の子どもでもいられずに、出発するエレーヌを見送る。
彼よりも一足先に大人になってしまうエレーヌを。
ラストのエレーヌの表情に、冒頭で初めて会った朝のあどけなさはない。
大人になることを受け入れた、受け入れざるを得ない諦めもありながらも、前を向いて進んでいく、ほろ苦さを感じさせる表情が印象に強く残る。

映画ではどうだろうか。

バスティアンはクロエへの想いを自覚して、一足先に大人への階に足を踏み入れてしまった。
クロエは、泳げないにもかかわらず湖を渡ろうとするバスティアンを止めることはしない。
そしてそれがゆえにバスティアンは溺れ死に、大人になることが叶わなくなる。

なぜ映画のクロエはバスティアンを止めなかったのだろう。

クロエのバスティアンへの感情にはさまざまな矛盾するものがせめぎ合っているように思う。
無垢な子どもであるバスティアンへの憧憬や羨望、大人へと変化してしまったバスティアンへの怒りや憎悪、復讐心。

「大人になりたくない」という願望を抱えたクロエは「死」によってそれが実現することを知っていた。
しかし自ら自分を傷つけることに限界も感じていた。
だからバスティアンが湖を泳ぐことを止めずに溺死させることで「大人になりたくない」という自身の身勝手な願望を彼に押し付け、閉じ込めた。
そして自分もそこから足を踏み出すこともできずに閉塞的な湖とただ向かい合う。
彼女はこれからどうなるのだろう……?
この烙印を抱えて生きていくのだろうか……? それとも……?
なんとも苦く悲しいラストシーンだ。

***

さてこれはあくまで私の個人的な感想・考察です……!
原作バンド・デシネ、映画ともに思春期の繊細な心情をくみ取った傑作であることは間違いありません!
ぜひどちらも読んで・観て、どのような感想を抱かれたか教えてください!


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