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とりとめのない話

ここ最近感想や本に関する記事が減ってしまっているのに、それをアップせずにまたもや雑記というか雑感のようなことを書くのもどうかなあ、と思ったのですが、ちょっと考えを整理したくて書いてみています。
先日、小学生2人の読書感想文を手伝ったわけですが、その後合間合間で私が本を読んでいるところを見て、甥っ子・姪っ子が、「虫ちゃんはいっつも本読んでるけど、なんでそんなに読むん?」と改めて訊いてきました。「そら面白いからや」と答えましたが、「何が?」という問いかけが。
どうやら妹が、虫おばちゃんは子供の頃から本ばっかり読んでた、お兄ちゃんぐらいの時にはもうほとんど大人向けみたいな本読んでたわ、と2人に話ていたようです。だから読書感想文とか作文が得意なんやで、と。
今回2人が読んだ本も、私が子供の頃に読んだ本で、内容も覚えていたので宿題も出せたわけですが、2人にとっては虫おばちゃんはなんでそんな昔に読んだ本も覚えてるのか、いっつも本を読んでるんだから忘れちゃわないのかとか色々不思議なことがあったようです。
そんなこんなで、私が本を読む姿が気になったようです。
さて。
ところでなぜ本を読むんでしょうか。
それはもう私は娯楽で読んでいるので、面白いから、楽しいから以上の理由はないのですが、なぜ面白いのか、楽しいのか、というところになるとどう答えましょうか。
知らない世界、普通の生活では経験できないことを知ることができるから?人の心の機微を感じられるから?
笑えたり、ほっこりしたりする作品よりもがつんと重たい作品に偏りがちな私ですが、読んでいて悲しくなったり怖くなったり辛くなったりと、楽しいというには遠い感覚になるようなこともしばしばですが、それもまた読書の楽しみです。
物語を楽しむというのはどういうことなんでしょう?
子供の質問に答えるというのは難しいですね。
うまく言語化できる自信はないんですが、月並みな言葉で言うと、自分の世界を広げることができる、というところでしょうか。
書かれた時代、社会背景で描かれる物語というのは変わっていきますが、来し方というのはもう今を生きているかぎり経験することは不可能です。でも本で読むことで、その時代を想像し、登場人物の心を感じることで、経験はできなくても思い描くことはできます。ファンタジーの世界も、ここにはない世界なんだけど、魔法や妖精や幻獣たちを思い描き、登場人物と旅をすることができます。
この想像力の広がりが楽しいんだけど、物語の中に入っていけないと、難しかったりもします。
ああ、本当に言語化するのって難しい。
例えばですけど、全然共感できなくてもなぜか面白いって本もありますよね。だから共感できるかどうかが読書の楽しみというわけでもないし、だったら何を求めて私は本を読むんだろう。
話が飛ぶように思われるかもしれませんが、私は人間が好きです。狡かったり醜かったり弱かったり恐ろしかったり、その一方で優しかったり美しかったり強かったり。相反するものを誰もが持ち、そしてそのアンビバレントなものの葛藤を誰しもが持っている。そういうもだもだしたものを感じるのが好きなんだと思います。
そしてその葛藤は誰にでもあるんですが、表出の仕方はそれぞれ違うし、時代や社会背景によっても違う。時代のセクションごとに作家を見ていくと、共有されているものがあったりしますが、それもまた作家作家によって描き方、捉え方が違う。人の数だけ何通りもある、このバラエティが人というものの面白さのような気がして、読んでみたい、触れてみたいと思うのかもしれません。
あんまり役にたつとか教養を付けたいとか思っては読んでいませんが、結果本で読んで知ったことがそこにつながることはあります。でも私は、読書の1番の効能は、想像力だと思っています。
人の数だけ、作品の数だけ、感じ方や考え方や捉え方がある。そして文化や政治、社会背景によっても変わってくる。
これって当たり前のことなんですけど、読書といいう経験を通して、なるほど、こんな風に考える人・感じる人がいるのか、この時代・国ではこれが常識だったのか、などということを実際感じていると、こういう事を言うのって相手はどう感じるかな?これってちょっと偏ってるかな?とか考えて言葉を発することができます。相手の言うことも、なるほど、そういう考え方をするのか、と飲み込むこともできます。
最近論破というのが流行りではありますが、決めつけの狭量さというのは人と関わることにおいては良いことではないですよね。相手を言い負かせて黙らせると言うのは自分の優越性を感じられて気持ちいいかもしれませんが、思考の広がりを得られるものではありませんし。
人に対して好き嫌いがあるのは仕方ないし、それは生きていれば誰だってあります。でも嫌いと否定は違うものです。肯定でもなく否定でもなく、ああ、そういうこともあるのね、と受け止める力というのを私は読書からもらったんじゃないかなあと思ったりします。
子供の間は、知らないことの方が多いから、想像力も自由度が高いし、世の中のことや人間関係のことも受け止め方と言うのは様々にあったと思います。けれど知っていくにつれて、予想できることの方が増えていくと、想像力の広がりというのは狭められていきます。自分の知っている世界で生きていくようになってしまう。
そこをぐりぐりと広げてくれるから本が好きなのかもしれません。私の知ってることなんて、ほんと小指の先程度のちっぽけな世界だと教えてくれます。
私はこのnoteを書く時、一応自分なりのルールを決めていて、どの記事も※個人の感想です、と受け止めてもらえるようにしようと思って書いています。全部私が私個人として考える、感じたことです。断定はなるべくしない、ネガティブよりの意見であればあるほど、私個人の感情によるものとはっきりわかるように書くようにしています。勝手に書き散らしていますので、もしかしたら不快に思われる方もおられるかもしれない、それもまた私の所にちゃんと帰ってくるように書くことで、かえって自由に記事を書けている気がしています。
学生の時にある教授が講義でおっしゃった、レポートについての言葉が私の心にずっと残っていて、それが原点なのかもしれないです。
「知っているというのとわかっているということは異なるものだし、わかっていることを誰かに向けて表現するということもまた異なるものです。これを一直線にするために、たくさん考えて学んで、苦労してレポートを書いてください。私も講義をする時はいつも苦労して皆さんにお話ししています。」
この言葉は本当に忘れられなくて、何かを話したり書いたりする時はいつも心の中にあります。これもまた、どうすれば相手に伝わるように言葉を選べるか?自分は本当にその事柄をわかっているか?という思考と受け手に対する想像力を持つということなのかな、と思ったりしています。
もちろん、想像力というものは本からしか得られないものではありませんけれど。アニメ、漫画、映画、音楽、いろんなものから得られるものです。でもコスパやタイパに囚われず、自分の心ゆくまで向き合った方が培われるだろうと思うので、子供達には存分に役に立たないことに時間を使ってほしいなと思ったり。
なんだかまとまりがなくなってきました💦
子供達の質問にうまく答えられなかった私ですが、みなさんでしたらどうお答えになるでしょうか?

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