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あおとのはなし

月末の締め切りをなんとか乗り越え、もう8月かそりゃあ暑いわけだ…とぼんやりと考えながら、いつも通りの時刻に本屋を締めた。日用品の在庫も少ないし、今日は少し遠いスーパーにでも寄って帰ろうと思いつき、夕暮れの中、私は自転車を漕いでいた。

買い物を済ませた帰り道。みゃーお!みゃーお!と、子猫の鳴き声が聴こえた気がした。「自分はここにいるんだ」と強い意志を持ったように鳴く、そんな子猫の鳴き声を。姿が見当たらないので、近くを探してみると、駐車場に止まった白い車の下で、ぼんやり白い色をした子猫が鳴いていた。トイレットペーパーに洗剤、そして数日分の食料品を載せた、今にも倒れそうな自転車をとめ、恐る恐る「大丈夫?」と子猫に声を掛けてみる。

しかし、そんな心配はノーセンキューとばかりに、まだ生後半年にも満たないであろう,小さな子猫は、みゃーお!みゃーお!とさっきよりもさらに大きな声で鳴いた。

子猫と出会った駐車場は、大通りから一本奥に入った道にあり、交通量は少ないながらも、勝手のいい裏道としてスピードを出して走る車の多い場所だった。「ここは危ないから出ておいでよ。危なくないところに連れて行ってあげる」と声を掛けてはみたものの、頭の中では家の棚にそっとしまった猫缶と玄関に置いてある猫じゃらし、そして捕獲用の洗濯ネットの場所を確認していた。

そして、しばらく見守るも頑なに出てこようとしない子猫に「すぐ戻ってくるからここにいてね!」と声をかけると自転車に飛び乗り、家を目指して全力でペダルを漕いだ。駆け込むように家に入ると、買ってきた食料品もそのまま、事前に予習した通り、戸棚から猫缶を取り出し、洗濯機置き場から洗濯ネットを掴んで、最後に玄関に立ててあった猫じゃらしを大きな鞄に押し込んだ。そして、そのまま鍵もかけずに停めていた自転車に勢いよくまたがると、なんとも言えない高揚感のまま、子猫が待つ場所まで駆け出した。

まだいるかな、大丈夫かな、さっきまで夕飯の献立でいっぱいだった頭の中は、すべてあの子猫に置き換わっていた。もと居た駐車場に急いで戻ると、数分前と何も変わらず、みゃーお!みゃーお!と子猫は鳴いていた。自転車を停め、汗を拭うとさっそく猫缶を開け、子猫の近くに置いた。さっきまでの強い意志はどこへやら、子猫はすぐに猫缶に近づくとくんくんと鼻を鳴らし、美味しいそうにごはんを食べた。今だ!とばかりに手を伸ばす私を一瞥し、通り向かいの車に駆け出すと、また車の下でみゃーお!みゃーお!と鳴き始める。

交通量が少ないと思っていた駐車場に面するその道も、帰宅時間となるとどうもそうではないらしい。先ほどまでとは打って変わって、たくさんの車が行き交う様子をみると、なおさらこのままでは帰れないと強く思った。しかし、だからと言って、言葉が通じない子猫になすすべもなく、ただただ真夏の日差しを溜め込んだコンクリートに額を擦りつけたまま時間だけが経っていった。

「猫ちゃんまだいます?」と、突然頭上から女性の声が聴こえた気がして、這いつくばったまま目線を上げてみると、そこには美しい女性が自転車を停めて立っていた。「子猫の鳴き声が気になって。私の家にも猫がいるので、もしよかったら猫グッズ、持ってきてもいいですか?」真夏の路地裏に現れた天使はそう声をかけると、ただただうなづく私を置いて、自転車を漕いで去っていった。

もし私が男性だったら、子猫を保護しようとしたところに舞い降りた、美しい女性に恋をしてしまっていたかもしれない。そんなことを考えながら、子猫が道路に出てしまわないように、牽制しながら様子を見ていた。女性がIEKAの青い袋を持って戻ってくると、袋の中から、私が持ってきたチープな猫じゃらしよりも、もっと猫が好きそうな派手な猫じゃらしと、これまた猫が愛して止まないチュールを取り出し、子猫に優しく声を掛けた。

「親猫もいないみたいですし、鳴き方も激しいから、保護して病院に連れて行ってあげたほうがいいと思います。」猫慣れしていない私にそう伝えると、夏らしいボーダーのワンピースが汚れることも厭わず、私と同じようにアスファルトにひれ伏した。子猫には、人間をいとも簡単に平伏させる圧倒的な力があるらしい。

かれこれ30分は鳴き続ける猫を2人で見守り、隙を見つけては車の下に手を伸ばしたが、子猫は捕まるのはごめん!とばかりに小さな身体をくねらせてひらりと軽やかに身を翻す。

あとはもう、子猫かヒトのどちらかが白旗を振るのを根気強く待つだけだった。

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あおと出会ってすぐに忘れないように書きとめていた文章がでてきたのでここに。
この日から私にとって幸せなあおとの暮らしが始まっていく。

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