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掌握小説 惣菜

惣菜コーナーのアルバイトが休みの日だった。アルバイトは多分十五年ぶりだろう。大学を出て、総合職として大手精密機器メーカーに就職し、結婚、出産、産後うつを辿って、結局、退職した。

久しぶりの休みだが、いつもと変わらず、よく眠れなかった。浅い眠りの中、閉鎖病棟の思い出を知人の編集者に話すという妄想をしていた。

入院中、色んな友人たちが死んだのよ、それでいつも次は私の番だって思って過ごしてたの。ボーイフレンドかやさしい旦那さんが見舞いに来ることを考えながら。そうなんですね、大変でしたね、でもよく頑張ってこられましたね。ううん、そうじゃなくて、じぶんの中心をずうっと見てたの、そしたら突き抜けちゃって、外を見るようになって。

一人二役で独り言が加速していく──同じ病棟の知人がトイレで死んだという主人公。その彼女の対面にいる相手に(編集者)延々と思春期特有の病気を話すという設定だった。親はどこかの王室の末裔という設定付きだ。

うつらうつらしながら、ベッドの中で妄想していると、それは夢へとかわり、風景は、あの家の中へと変わっていた。夫が、憎しみではなく、昔のように家族としての目で私を見て、「本当は帰りたいんだろ? なら、帰っておいでよ」と言う。私は瞼の奥の光景も、その声も偽りだと知っていた。私は私なりにしか、頑張れなかった。だから、今、ここに居るのだ。誰かに、よく頑張ってきたね、と言われたかった。そんな資格ないかもしれない。それでも私なりにあれが精一杯だったのだ。誰かに、心から嘘偽りなく、私の存在を認めて欲しかった日々だ。誰かが声高に叫ぶ──過去どう生きたかではなく今どう生きているかなんです、と。パレスチナではすでに二万人を超える死者たち、私が代わってあげられるのなら代わってあげたいほどだ。私だって生きたい、愛されて生きたい、と叫びたい。だけど、もうそんな時期はとっくに通過した。今、どう生きているか?──今は久しぶりの休日で、ベッドから抜け出せず、感傷的な妄想とそうはならなかった過去の夢を見ている。

哀れな幻想を断ち切るかのようにチャイムが鳴り、父が出た。フレイル気味の父の首は四十度ほどの傾斜をなし、スリッパをすりっすりっと鳴らした。それで父がソファからやっとの思いで玄関に出て行こうとしているのを私は、眠りの中、悟る。

「山中美和さん、いらっしゃいますか?」
と声が聞こえ、続けざまに、父が「美和、サイン必要みたいだ」と言う。
私は何度も、何日も、何ヶ月も、何年も繰り返してきた妄想をやめて、速達にサインした。

配達員がバイクに乗り、すぐとなりの家に立ち寄る音がした。ようやく差出人を確認する。

森山悟弁護士事務所

と書いてあった。

中は見なくても察しがついた。私は足の先の力が抜けていくのがわかった。
四年別居した夫からの離婚調停に関する内容証明だ。
インターネットで駅近くの弁護士事務所を見つけ、電話をし、予約を取った。

「別居中の離婚調停の内容証明が届いたんです。それでご相談したくて」

内容を話すと電話先で弁護士が、

「ああ、それなら法的強制力なくあなたにプレッシャーかけたいだけだから、まだ先方の事務所に連絡しなくていいです。それより、いま別居中なんですよね?」と聞いてきた。

「そうです」

「生活費は入れてもらってますか?あとお子さんとか、配偶者の年収は?」

何かを絞り出すかのように尋ねてきた。

「えっと、生活費は毎月別居後も〇〇円入れてくれてます、子どもは成人してます。年収は多分〇〇円だと思います……」

私は夫の年収を詳しく知らないまま二十年以上経つ。毎月決まった額が私の銀行口座に夫から振り込まれ、それでやりくりしてきた──誰のおかげでこんな生活できてると思ってるんだ?と事あるごとに言われ、萎縮し、他人と暮らす。

「それならもうちょっと貰うべきですよ、まずは妥当な額の婚姻費用の請求をすぐにでもしないと。○曜日にこちらに来てもらえますか?」

離婚までの婚姻費用の妥当性、年金分割、不動産の財産分与の請求などこれから真剣に考えないといけない……。ずっと戻りたいと思っていた追放された場所。私が離脱しないといけない場所。あんなに《ここではない何処かへいきたい》と願いながら過ごした場所だ。あの家で私が心から配偶者と笑えた日なんてあっただろうか。ずっと昔、あったかもしれない。

八十歳になる父に話すと、美和が決めることだ、と言いながらコーヒーを淹れてくれた。

「ありがとう。私さ、昔だったら、多分、死にたいって思ったかも。でも、今はお金いくらちゃんと請求できるんだろうとか、これまでの二十年何だったんだろうだとか、考えはするけど、死にたいって思えない。出戻ってここで死んだように生きてるけど。何だったんだろう」

「じぶんの軸をしっかりとさせておかないとダメだぞ。その為に、あそこを出て、ここに来たんだろ? じぶんの良くなかったこともひっくるめて客観的に見て反駁しないとだめだ。相手に愛情がなかったのは確かだし、そういう奴に丸め込まれて相手の都合の良い条件なんかを鵜呑みにしちゃだめだ。頑張りなさい。親は先に死ぬんだから。これ、美和の店の? 美味いなぁ。また閣議決定ってふざけてやがる」

父は私が持ち帰ってきた賞味期限切れの惣菜を口に運びながら、そう言って、テレビのニュースに憤る。

「今日、寒いね。昨日は春かと思うくらいに暖かかったのにさ。だから、昨日、お父さんに散歩行った方がいいよって言ったんだよ」

「尿酸値が高いからね。よっこらしょ、ちょっと行ってくるかな、美和も行くか?」

「私はいいよ。尿酸値高いのは動かないからだよ。携帯持ってね、あんまり無理しないで、でも、しっかり腕振って足あげて」

時間をかけて立ち上がった父の背中に言いながら、私は、そうか、もう二月なんだ、と心の中で呟いた。庭の梅が咲いている。明日のシフトの時間を確認した。



久しぶりの創作。
追放と離脱、ひとそれぞれの人生、季節はめぐり時は過ぎ去る。

*この物語はフィクションです。

縦書き版

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