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戯曲 悪魔と神

はじめに

短編小説『壁』や中編小説『嘔吐』、長編小説『自由への道』

哲学書『想像力の問題』『存在と無』『実存主義とはなにか』『弁証法的理性批判』

などを残した20世紀の行動する思想家サルトル。

彼は、哲学書や小説のみならず、書評や戯曲も多く残した。

僕はサルトルの書いたカミュ、ジュネやフローベール書評も戯曲も大好きだ。

散文家としてのサルトル

壁や嘔吐時代

壁や嘔吐を書き上げたとき、サルトルは激動する社会情勢の中、反ファシズムではあれど、これといった政治的行動には出ていなかった。
そして、彼の冷めた鋭い洞察力による人間観から描かれた、壁や嘔吐は、人間の行動の虚無感、むなしさが漂っている。

戯曲 バリオナ

しかし、第二次世界大戦で召集され、兵役につき、おまけに捕虜にまでなった体験が、おそらくサルトルを大きく方向転換させたのだろう。

彼は、捕虜収容所の中で戯曲『バリオナ』を書いた。
それは、ドイツへの抵抗運動を呼び掛ける内容であり、人間の行動を重視する考えへとサルトルが転換したのを見て取れる。

戯曲 悪魔と神

戦後の1951年に刊行された悪魔と神。
彼の戯曲の中で最も好きな戯曲だ。

あらすじ

舞台は16世紀ドイツで農民戦争が背景となっている。
主人公ゲッツは初め悪の中の悪を追求するような人物だった。
当然社会から締め出されていると彼は感じており、司祭にあざ笑われたことから今度は善の中の善を追求する。
純粋な善を追求することで絶対的存在者となろうとしたゲッツは、平和のユートピア「太陽の街」を建設した。
ところが、無抵抗主義の住民たちが裏目に出て、太陽の街はあっさり滅ぼされてしまう。絶対的な善の追求が大きな悪を住民たちに与えたということである。
こうしてゲッツは、絶対的な悪や善の追求が抽象的で空疎なものであり、具体的な人間たちの現実との関わりを希薄なものとしてしまうことに気づく。
自分の行動と、具体的な社会や歴史との関わりに無関心であるゲッツを農民運動の指導者ナスチが厳しく非難する。
最終的に、ゲッツはナスチに協力的になり、絶対的な善悪の追求をやめて、農民運動革命に参加する。

綺麗なゲロ

戯曲『悪魔と神』は、サルトルの思想や首尾一貫した発言と行動に裏打ちされた彼の生きざまを象徴している。
能動的に具体的な社会や歴史と積極的に関わっていこうとする彼そのものの姿である。関わらない為に無難な支援のみに留めておいたり、声を上げなかったり。今の世界情勢しかり、日本しかり。

今の時代、声を上げ行動する人々は、窮地に追い込まれた人々の中にしか見いだしにくい。

社会の中の集団でも個人間でもそれは言える。
何かに迎合したり、当たり障りないものには簡単に耳や目を開くが、耳障りなものには目を背け耳を塞ぐ。
ややもすれば、否定的意見を言うこと=空気が読めない、とされて、表面上綺麗でい続けることばかりが良しとされがちだ。しかしその「綺麗」は無責任な個人の自由と孤絶と欲望まみれだったりもする。その上厄介なことに他人の痛みには無関心で自身の痛みには過敏だったりする。

「綺麗」でないものには、「自分とは関係ない」「面倒」で片づけて、大事な何かを訴えていようとも耳を傾けない。あるいは、まどろっこしい比喩でごまかすか、揶揄する。あるいは、無関心を装う、何も言わない。綺麗なものは空疎で、汚く目を背けたくなるものに真実があるかもしれない、のにだ。目を背けたくなるなるものに目を向け続けることはバタイユ氏がやり遂げた。

不当な状況下で中立を選ぶ事は抑圧者を支持したことでもある

世界では今1940年代に逆行したようなことが、起こっている。この危機は今に始まったわけではない。2000年のチェチェン紛争、2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命やクリミア危機、東部ウクライナ紛争を通して、ロシア側は準備していたのだろう。アメリカ、つまり民主主義と歩み寄ったかのように見えたプーチン大統領の初期の頃から、2011年の再選で西側諸国に歩み寄りすぎたとの彼なりの反省からきているのかもしれない。その方針転換を支えるかのようなもののひとつに、ルスキーミールがあるのだろう。1990年代エリツィン大統領が主張し始めたロシア語話者の統一概念、ルスキーミール=ロシア世界、もっと言うとロシア帝国へのノスタルジーのような思想が受け継がれているようだ。


しかし、今必要とされているのは、何なのか?人道的支援はもちろんのこと、今すぐ気違いじみた誰かの帝国ノスタルジーの為の演劇を止めさせることだ。考えなくてもわかる。病院へのあからさまな空爆を実行したり、どうやったらできるんだ?ひとりの独裁者によって思考を停止させられた、というのは言い訳でしかなく、思考停止するのは自分自身の意志だ。ジェノサイドに関わる人々もそれを知りながら傍観する人々も声を上げなければ、皆エルサレムのアイヒマンと変わらない。
また、デズモンド・ツツ(1984年ノーベル平和賞受賞者)の言う通り、抑圧された人たちに中立であるとは、抑圧する側と何ら変わりない。

If you are neutral in situations of injustice, you have chosen the side of the oppressor. If an elephant has its foot on the tail of a mouse and you say that you are neutral, the mouse will not appreciate your neutrality.

Desmond Tutu

自分の意見を述べて「社会に関わる行動」を躊躇する、あるいは、無関心というのもそれと同じだろう。

サルトルのような行動する思想家や文学者は皆無に思える。また、今の日本の教育方針や風潮は─サルトルらの時代とは真逆に─「社会に積極的に参加し声を上げる人間をできるだけ育てないようにする」ように見えてならない。

おわりに

今回、悪魔と神を久しぶりに再読しているあいだじゅう、現在の時事問題やそれにともなう各国の対応や、それだけにとどまらず、国内のずっと言われ続けている問題が脳裏にかけめぐっていた。

一番立場の弱い人々が戦下では真っ先に被害者となってしまう。被害者はウクライナの人々だけではなく、侵略する側の抑圧された一般市民の方々にもいえることである。
また、2011年3月11日に日本では東日本大震災があり、福島原発事故もあった。
ウクライナの原発がロシア軍によって攻撃され、万が一のことがあれば、メルトダウンに繋がり、その影響はウクライナのみならずロシア含め近隣諸国にまで深刻な被害に波及するのは想像に難くない。

今の時代では、当たり前のこととして受け入れられている「自由」やその「自由」の中での善悪倫理というのは一筋縄ではいかない。国家ともなれば、なおさらであり、だからこそ、国のリーダーにはイデオロギーの有無と質が問われるのではないだろうか?イデオロギーと帝国ノスタルジーは別物である。

ウクライナの現実は遠い国のことではなく、ユートピア「太陽の町」の住民のように無抵抗主義な体質の我々も真摯に受け止めて向き合うべき問題だ。国際社会がウクライナや他の紛争地域やウイグル、ロヒンギャの問題を見逃したり、見捨てたりしてはならない。

サルトルが亡くなって40年以上が経つが、彼の本は常に色々と思索させられる。

哲学と文学は大きな隔たりがあり、かつ、その境界は曖昧だけれど、サルトルは両者を同時に成り立たせようともした。そして彼は歴史に身を投企し行動した。今そのような思想家や文学者は日本にいるのだろうか。非常に稀有に思う。聴こえの良い現代フランス思想や自分の痛みばかりをドラマ仕立てにするか傍観者的な思想なき現代文学に僕は吐き気がして8年越しのサルトルをずっと追いかける。

サルトルは21世紀においても偉大な思想家であり散文家である。

俺は人間たちの中のひとりの人間になりたい

悪魔と神 J.P.サルトル 人文書院

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