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均一化への反抗と崇高な個

最近ずっと崇高な孤独と個についてヘッセが書いた本たちを読み返している。

僕は孤独とは崇高な個そのものであると考える。

日本では軽視されがちに思うときのある「個」の尊重と共存。
ジェンダー平等や夫婦別姓が叫ばれる一方で難民や移民たちを受け入れず、狭く冷たい空間に押し込めて、送り返す。
送り返されたら死が待つとしてもだ。

金子みすゞの有名な詩からの一文「みんなちがってみんないい」について触れていた方々が何人かいらして、さまざまなことを考える。

僕は詩そのものが好きで一文を抜き出すこと自体に抵抗感がある。

『私と小鳥と鈴と』
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

『私と小鳥と鈴と』
金子みすゞ

仮に、一文だけを取り出したら、僕は「みんなちがってみんないい」の「いい」の基準や何を対象としているのか疑問に思う。けれども、この詩が訴えていることはもっと根源的なものであり、もっと自然界と近いものでもあるように思う。

僕ならば、「みんな違うことが前提で各々誇りを持ち適度な距離感で共存する」を念頭に置く。
しかしながら、それは、2023年に生きる僕だから持てる概念であり、作者の生きた時代は男尊女卑やさまざまな差別が残る時代だろう。問題のすり替えに、明治〜昭和の差別の激しい時代を生きた詩人の結晶化された言葉を用いるのはおかしい。

金子みすゞ さんの生き抜いた明治〜昭和初期。
彼女の時代、個性が抜きん出るのは女性としてはしたないとまでされて存在を無きが如しにされかねない。

僕が仮にこの一文のみを引用して「「みんないい」というのはおかしい」、と言うこと自体は僕の自由だが、見方によっては、「僕が背景を無視し、言葉を自分に都合よく切り取ることは愚かしく、冒涜であり、言葉をあまりに軽視したことになる」。
言葉は──特に詩人の──背景とともに大事にしないといけない。

詩人の言葉は時代と空間と土地をしっかりと結びつけるものでもある。

言葉の消耗も近年加速化されている。
特に何度も出す事だけれど、「刺さる」については厳しい目で見てしまう。
言葉のもつ意味が時代とともに変化するのは仕方がないことだが、簡略化、均一化までに至っているようにおもう。
そしてその変化のスピードが日本語はとても速い。

「みんな違うことが前提で各々誇りを持ち適度な距離感で共存する」に戻ると、個の尊重と共存の在り方になる。
金子みすゞさんの時代に日本でどの程度真剣に考えたひとたちがいただろうか。あるいは、考えることが許されたのであろうか。しかもほんの少し前まで鎖国をしていた国だ。共存というよりも排他的な社会であろう。

産業革命以来、資本家たちによる資本主義が欲望のままに野放しとされ、消耗のための生産とその生産スピードだけが重視される風潮が近年特化しているように思う。
それに付随されるかのように、「感傷」を揺さぶる「共感」に価値があるとされ、共感できないものについては「理解できない」「異質なもの」「排除」され、「理解は面倒、時間がない、難しい」で片付けられていく。
のっぺりとした集団の中の個。

ローマ帝国衰亡前後から血みどろの争いをしてキリスト教義論争の末に生まれた「個の中の個」。

日本ではあまりに軽視される「個」の尊重。

個の尊重は当たり前ではなく、長い時代をまたにかけて勝ち取った概念であることをあまりにも軽視しているのは、全体主義的あるいは排他主義的な風潮がいまだに根付く教育のせいなのだろうか。

暴力的であれ平和的であれ差異は当然であり弱肉強食であるのが自然界では掟であろう。
暴力的な概念そのものを博愛的快楽へ転換し、欲望をそこに蕩尽し、いまと自分と他者の存在を認知し、共犯者となれぬものたちと共存共生のための適度な距離を置くことが非動物的な文明のなしうること。

いまの時代では当たり前のようにある個の尊重、尊厳という概念。これは、全体主義的あるいは排他主義的な風潮に対抗するための、社会的な価値観として大切である。
歴史上、ファシストたちが陳腐な虚構を作り、そこに群衆を情熱のままに引きずり込むために、群衆の感傷を巧みにコントロールし、群衆を扇動したのは周知の通りである。

感傷的な共感よりも共存と共生を真摯に考える───それは崇高な孤独、「個のなかの個」を大事にするということだと僕は考える。

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