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『土神と狐』 宮沢賢治

はじめに

 僕の拙い文章を、いつも読んでくださるSさんに、『土神と狐』宮沢賢治 著 をおしえていただいた。

宮沢賢治が亡くなった翌年(一九三四年)に発表された作品。
美しい樺の木に恋する狐と土神。
樺に、良かれと思って、嘘をついてしまう狐。
そして、狐への嫉妬に、もがく土神。
彼らの悲しい結末を迎えるまでが描かれた作品。

内容

美しい樺に恋する狐と土神。
狐は上品で身なりも小奇麗だが、土神は神であるにもかかわらず、粗野で、あまり見なりに気を使っていない。

樺の木はどちらかと云いへば狐の方がすきでした。なぜなら土神の方は神といふ名こそついてはゐましたがごく乱暴で髪もぼろぼろの木綿糸の束のやう眼も赤くきものだってまるでわかめに似、いつもはだしで爪も黒く長いのでした。ところが狐の方は大へんに上品な風で滅多に人を怒らせたり気にさはるやうなことをしなかったのです。
 たゞもしよくよくこの二人をくらべて見たら土神の方は正直で狐は少し不正直だったかも知れません。

『土神と狐』宮沢賢治

物腰柔らかで上品〈そう〉な人は、ひとあたりもよく、他の人々に嫌われる要素も──うわべだけの付き合いならば──あまりないであろう。

樺が土神よりも、狐の方を好いていたのも、頷ける。
なぜならば、樺は、狐のことも、そして、土神のことも、うわべだけを見ていたように、僕は、例示した前述の冒頭と、後述の太字箇所から思えたからである。

狐の虚栄心

 その下を狐が詩集をもって遊びに行ったのでした。仕立おろしの紺の背広を着、赤革の靴くつもキッキッと鳴ったのです。
「実にしづかな晩ですねえ。」
「えゝ。」樺の木はそっと返事をしました。
さそりぼしが向ふをってゐますね。あの赤い大きなやつを昔は支那では火くゎと云ったんですよ。」
「火星とはちがふんでせうか。」
「火星とはちがひますよ。火星は惑星ですね、ところがあいつは立派な恒星なんです。」
「惑星、恒星ってどういふんですの。」
「惑星といふのはですね、自分で光らないやつです。つまりほかから光を受けてやっと光るやうに見えるんです。恒星の方は自分で光るやつなんです。お日さまなんかは勿論もちろん恒星ですね。あんなに大きくてまぶしいんですがもし途方もない遠くから見たらやっぱり小さな星に見えるんでせうね。」
「まあ、お日さまも星のうちだったんですわね。さうして見ると空にはずゐぶん沢山のお日さまが、あら、お星さまが、あらやっぱり変だわ、お日さまがあるんですね。」

中略

「見せてあげませう。僕実は望遠鏡を独乙ドイツのツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげませう。」狐は思はずう云ってしまひました。そしてすぐ考へたのです。あゝ僕はたった一人のお友達にまたついうそを云ってしまった。あゝ僕はほんたうにだめなやつだ。けれども決して悪い気で云ったんぢゃない。よろこばせやうと思って云ったんだ。あとですっかり本当のことを云ってしまはう、狐はしばらくしんとしながら斯う考へてゐたのでした。かばの木はそんなことも知らないでよろこんで言ひました。
「まあうれしい。あなた本当にいつでも親切だわ。」

『土神と狐』宮沢賢治
太字は僕

ファースト・インプレッションや、ひとあたりの良さというのはとても大事である。謙虚さを忘れないことと、身だしなみをきちんとしてさえいればよい。知性あるおとなは、顔の造形のバランスだの身長だの髪型や肌の色などで、そうそう露骨にイヤな顔をする、ということはないだろう。

はじめてのひとと逢うとき、僕はそのひとの、口元、横顔、眼の輝き、しわ、手、匂いなどに注意していることがある。手や目元の深く刻まれた生の軌跡のようなしわが僕はとても好きだ。

また、口元を、僕は、注意深く見る習性がある。
歯並びと歯の白さ。歯並びフェチの僕にとっては重要なポイントである。
どの程度しっかりと手入れしているのか──歯並びとその白さは、ときどき、そのひとの育ち方を見せる時がある。
歯並びがガタガタでも、歯がしっかりと白ければ、それでも良いけれども、
歯並びで、口元は変わり、笑顔のときの表情も変わってくる。

そこに、ひけらかさない知性が、重なると、より一層、好印象を与えるものだ。

うわべだけでの付き合いならば、それでも別に被害を被るわけでなければ、良いかもしれない。

けれども、狐は、樺に恋をしており、幾つかの、ちいさな嘘を彼女に付く。

嫌われたくない、あるいは、気に入ってほしい、仲良くしていてほしい、という気持ちから、嘘を重ねたのだろう──この一連の行為が虚栄心の助長へ繋がった、といっても過言ではないかもしれない。

そんな嘘に、樺は気づいていたのか、いなかったのか、賢治はそこまで書いてはいない。樺が気づいていたとしたら、彼女の狐を思い遣ってのことかもしれない。けれども、はっきりと冒頭で賢治は書いてもいる──樺は狐の方が好きだったと。

傍観する樺と感傷

傍観者──美しいものだけ目を向けて、耳を傾ける、樺の木。
彼女の傍観もその後の悲劇に加担したと言えるだろうか、僕は、少し彼女も責任があるように思えるのだが……。少しどころではなく、もしかしたら、傍観が最も冷酷で残酷な行為かもしれない。そして、美しく、感情を揺さぶるような言葉に、感傷的になっているようにも見えた。

「さうだ。まあさう云へばさうだがそれでもやっぱりわからんな。たとへば秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」
「狐さんにでも聞いて見ましたらいかゞでございませう。」
 樺の木はうっとり昨夜ゆふべの星のはなしをおもってゐましたのでついう云ってしまひました。
 このことばを聞いて土神はにはかに顔いろを変へました。そしてこぶしを握りました。
「何だ。狐? 狐が何を云ひ居をった。」
 樺の木はおろおろ声になりました。
「何もっしゃったんではございませんがちょっとしたらご存知かと思ひましたので。」
狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだ。えい。」
 樺の木はもうすっかり恐こはくなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛かみながら高く腕を組んでそこらをあるきまはりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐れて顫ふるへたのです。
狐のごときは実に世の害悪だ。たゞ一言もまことはなく卑怯ひけふ臆病おくびゃうでそれに非常にねたみ深いのだ。うぬ、畜生の分際として。

『土神と狐』宮沢賢治
太字は僕

嫉妬に狂う土神

粗野な神、土神は、樺が狐のことを話題に出したことによって、狐に嫉妬する。そして、その嫉妬を隠そうともしない。

嫉妬は、おそらく、動物ならば、みなが持つ感情であろう。
僕の家では犬を何匹かずっと飼ってもいるのだが、彼らは嫉妬を隠すことをしない。暴力的にそれを表現せず、じぶんをアピールしてくる。

にんげんの嫉妬は、それに比べて、いやらしいときが往々にしてあるかもしれない。嫉妬心から、憎しみへと感情が変わっていったり、ただしく評価しなかったり。

ごく稀に、おとなの嫉妬心を目の当たりにすることがある。

彼らに共通していたのは、嫉妬する相手を、できるだけ見下し、事実と異なることを、歪曲して、強い語彙で他者に、「このひとよりじぶんの方が優れている」というのを暗に感情的に、感傷を引き出すかのようにして訴える点であった──簡単にいうと、〈マウンティング〉かもしれない。

嫉妬するのは、ごくごく自然なことであるが、それを表立ってマウンティングという形で見せたり、負の表現で見せたりするのは、エレガントでは、ない。フランソワーズ・サガンも似たようなことを言っていた気がする。

ちいさなプライド

嫉妬を負の方向に向けることに発破をかけるものとして、ちいさなプライドもあるかもしれない。僕はそれほどプライド高くはないが、勝手に「プライドが高そう」とレッテルを貼られて、あゝと思う時がある。プライドを高くするくらいならば、品を高くすれば良いのではないだろうか。
品のあるひとは概して、プライドは内に秘めているであろうし、嫉妬を負の方向へ持って行ったり、マウンティングすることはほとんどないのではなかろうか。

ごくごく当たり前のことでもあるのかもしれない。

土神は、粗野で正直であったが故に、ちいさなプライドにしがみつき、嫉妬を暴力へと変えた。

けれども、このちいさなプライドにしがみついていたのは、土神だけではない。狐もそうだったように見える。

虚栄心、嫉妬というのは、結局のところ、暴力的なものを誘引するのかもしれない。

おわりに

美しい抒情を湛える文章と、ともに、示唆に富んだ内容であった。

宮沢賢治さんの作品は、『銀河鉄道の夜』、『注文の多い料理店』、『よだかの星』などしか読んだことがなかった。どれもとても好きだけれど、他の作品を読もうとしなかった。

嫉妬、傍観、傲慢、感傷──僕にはとてもよく響いた。

僕も、そうしたところがきっとあるだろう……。
気をつけないと、いつまで経っても、エレガンスが育まれない。
心はいつも熱く、柔らかに──頭と目と耳は水平かつシャープに。
意識して、やさしくありたい。

傍観と嫉妬が生んだ暴力とその悲劇と横たわる切なさ──これらは暴力を助長したりすることもある。これらに感傷がつきまとうと、扇動されやすく、じぶんの内から湧き出る正義を誰かから与えられた正義にすり替えられてしまうこともある。そうすると、より一層、暴力が加速しかねない。
戦争や紛争がその例であろう。


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