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『カンガルー・ノート』 安部公房

ひとり安部公房祭 第八回『カンガルー・ノート 』
1991年作

人間は色々なしがらみを作りながら、そしてそれらを間引きながら、老いて死ぬ。

そのしがらみをある程度生きてから振り返ると、もしかしたら安部公房の最後の完成長編、『カンガルー・ノート』で登場する主人公のように身体に密生したかいわれ大根みたいなものなのかもしれない。

自分のかいた汗でつまみ食いするかのように振り返ると、醤油で味付けするよりは、あっさりしていて、まあまあ旨く、他人の汗でそれらを味付けしようなんて考えただけで吐いてしまうもの。

それがどうしようもないバカバカしいことだったりとてつもなく貴重なものだったり、とにかく、思い出、回想、というのはそうした類いのものだろう。
感傷に浸るのは、自分の味を美化するようなものなのかもしれない。

《書く》ということに生きたい、生き続けたい、ジャンプしてしっかりと自分の足で歩いて書き続けたい、死にたくない、死が怖い。

『カンガルー・ノート』は、晩年、癌と闘ってもいた安部公房のそんな心の内の叫びが聞こえてくるようだった。

自分の心の中だけでなく、闘病のなかであっても、自分が対峙している死について考えるとき、ひとの尊厳死や安楽死問題に目を向けていたようだ。

安楽死
人為的に患者を死なせる積極的安楽死。

尊厳死
人為的に死なせることはないものの、積極的な治療を行わず、十分な緩和ケアを行い最終的に患者が死を迎える消極的安楽死
安楽死と尊厳死の違い
※間違えていたらすみません

いずれにせよ日本においては法案が成立していない。しかし、2007年には厚生労働省が国として初めての「終末期医療の決定プロセスに関する指針」を作成していたりもする。

ノート、ワープロでもなんでも良いのだが、を携えて自分の足でインタビューに向かいたい、そんなことを感じた。

イカ爆弾は著者の前立腺癌での睾丸摘出手術を彷彿させて、不謹慎極まりなく申し訳ないけれど、シュールな笑いに変えるのポジティブだなぁと思えた。

持っている力すべてを投じて自身の現状を笑いに変えた、そんな感触を覚えた。 発表が91年であることから鑑みて、著者が自身の死について考えない日はなかったのではなかろうか。 
そうした中での彼の提示した夢を見せられている気分になった。

「まだ死にたくない」、そんな単純明解な著者の死への畏怖が著者らしいシュールな表現で伝わってきた。 

山口果林氏の『安部公房とわたし』 によると87年11月に検査入院して前立腺がんが判明。頭蓋骨や大腿骨にも転移していたようだ。

ところで、安部公房って緑色と植物と昆虫好きだよなぁ。

社会に最後までメスを入れてシュールでアイロニカルな世界観で描いた《笑い》。

《笑い》というのはやっぱり世界の深淵を覗かせる契機だと思う。

ところで安部公房はこの作品でも父親描写がある。
彼の作品をエディプスコンプレックス的に読むのも面白いかもしれない。

緑色と植物や昆虫や看護婦好きの安部公房。

有機体となって天国から舞い戻ったら現代にどんなメスを入れるだろうか。

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