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とりとめのないこと2023/05/20 マルテの固有の死とヤスパース

昨日、久方ぶりにヤスパースの『歴史の起源と目標』を読んでいた。

産業革命以降、利便性の一方で、ひとびとの主体的判断が鈍化し受動的で個性のない均一化が進みもした。

リルケが『マルテの手記』でマルテの死を《固有の死》とし、近代文明批判したことを辻邦生が『リルケ論』で述べてもいる。

僕は、ヤスパースを、科学テクノロジーでは人間の行動や根源的な事柄を解明することに限界があり、データにはあらわれにくい、下意識(教育)や無意識(宗教や家族や心≒個)について考える必要性を感じ、キルケゴールから出発して人間の実存を哲学したひと、だと思っている。

ヤスパースの哲学を簡易的に書くと、

実存に目覚めた人間は孤独だが、他者との対話、ぶつかり合いからの愛の闘争と挫折と孤独の繰り返しで超越者を感じ乗り越えようとすることで自己を確立していく。

愛のために闘った思想家ともいえるだろう。

闘争とは暴力ではなく、文明の進んだ現代では、イデオロギーによらぬ対話でないか?

交わり、対話───語り合い。

現代ではテクノロジーが進み、予測精度が重視され、それによってあらゆることが予測可能になってきている。嘘発見機の精度〜AIによる予測とデータ補完がいい例でもある。

現代の人間の下意識(教育)がサイエンスやテクノロジーといったデータに左右され、無意識(長期習慣性に基づくもの、家族や宗教)はノイズとして邪魔になり、除外され何もかもが記録され、記憶して語り継ぐような隙がない。

テクノロジーの主権がユーザサイドではなく、完全にデータ保持者になってもいる。

つまり、記憶はいくらでも保持できるため価値がなく、記録することそのものに価値がある。

GAFAらビッグデータ企業にとって、僕のこの投稿も記録という労働力を無償で提供していることになる。

日々、記録する。
記憶ではなく、記録が先である。

記録媒体や文字そのものが発達する以前、歴史そのものは記憶され語り継がれていた。

テクノロジーが発展した現代では、何もかもが記録され、記憶して語り継ぐような隙がない。

<バイタリティの欠如や無関心>と<自己中心性の特化>は相反するようでいて常に表裏一体で相乗効果のようにして指数関数的に上昇しているかもしれない。

自己中心性は動物的でヒューマニズム(傲慢な人間中心とも言える)から退行する性質とも捉えられるかどうか?

愛など語れば嘲笑され、哲学、宗教などはとっくに廃れてしまった。

そのようなことを鑑みると、《マルテの固有の死》というのはもはや塵にも等しいのかもしれない。

個の死、それは個の生でもあるが、を軽視する風潮は今後も目をつぶられるのだろうか。

死生観の希薄さは「上部だけの平和」=幻想でしかない人間の傲慢な文明の功罪のように思う。

培ってきたものを無碍に踏み潰す社会。
格差の狭間でもがいたり、再起しようとするひとたちに冷たい社会。
追放や離脱から立ちあがろうと、小さな希望を持ち新たな土地に根を張ることを許さぬ社会。

なぜ愛する力を思い出さないのか。

培ってきた歴史、空間を愛することも宗教によらず、信仰といえるのではないだろうか。

いま、というのは過去の結晶であり、それが小さくとも歴史に繋がっている。消耗的記録ばかりに固執し無償で一部の権力者たちに記録を提供し、経済至上主義に乗っかり、語り合わない、対話しない、語り継がない、対話の時間を持たせない、考えさせない風潮では、データ化されない生も死も無価値に等しく扱われるのだろうか。

死生観なきところに本当に生と死を讃歌できる余白はあるのだろうか。

現代では、よほどのことに直面するか、死と生に直面しない限り、なかなか無意識下に埋もれた死生観について考える契機はないかもしれない。

対話、他者を通しての自己実現を説く、愛のために戦うひとヤスパースが僕は好きだったことを読んでいて思い出した。

たとえどんなに強く変容されるものにしても、 全体的歴史像としての知は究極的な知ではない、ということが決定的に重大なのである。要は時間の中での永遠としての現前性に深く触れるものがあるか否かである。歴史はより広汎は地平に包まれているが、その地平の中では現前性は、場所、確証、決意、充実とみなされる。永遠なるものは、時間の中での決意として出現する。実存の超越する意識にとっ て、歴史は永遠の現在において消滅しているのである。

しかし歴史そのものの中では、予想される未来の展望はどこまでも残る。それはおそらく、今後長い、それもきわめて長い人類の歴史が、今や一体化された地球上で営まれるであろうという見通しである。このような未来が見込まれるものとすれば、この際どの人にとっても、「彼が未来においてどんな状態にありたいのか、何のために力を尽くそうとするの か」という、自己の意欲の自覚と決意の選択の問題が、ひしと迫るのもまぬかれがたい。

『歴史の起源と目標』
カール・ヤスパース
河出書房 

愛を語れば笑われ、幼稚と言われてしまうかもしれない。

それでも、他者(僕の定義ではヒトのみならず、有機体、空間すべて)との交わり、対話、体験でひとはじぶんを《認識》できる。
孤絶を孤高と履き違え、自然への畏怖を忘れて傲慢になり、じぶんさえ良ければいい、という自己中心性を盾にして、弱きものを踏みつけたり排除する、破壊行動や対話の諦め、共存の拒絶は文明人とは言えぬのではなかろうか?

他者との交わりの原点は、愛だ。
愛する力が培ってきた文明の成果だと信じたい。

愛する力を忘れることは傲慢さの表れなのだろうか。

こうして僕もまたデータに記録している馬鹿馬鹿しさ。

僕には余力が足らず、両手は差し出せないのが現状だが、一生懸命に踏ん張るひとに片手をどうにか差し出してあげたい。

愛すること。誰だってしっかり向き合ってほしいし優しくしてほしいし愛してほしいでしょう。

どうして傷つけたり排除したりするの?
理解できなくても、共存しようと対話し続ける力こそ愛じゃないか?
他者との交わり、他者との関係で、《私》という《固有の魂》のかけがえのなさに気付き、それぞれの個を真に大事に思えるのではなかろうか。

死生観とは僕にとっては、「愛する力を忘れることなく生き抜くこと」かもしれない。
愛する他者がいるのは当たり前なんかではない。
だから大事したい。
他者とはヒトに限らない。空間、時そのものかもしれない。
だから、僕は死生観をふと意識すると、じぶんとその周縁、ひいては脈々と続く「時」や「空間」との因果関係を探りたくなる。
いまは、〇〇観ということについてあまり真剣に考えられないのかもしれないし、時代遅れなのかもしれないけれど。

こんなこと、書くまでもなく、稚拙なのだろうか。

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