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レティシア書房店長日誌

最相葉月著「中井久夫 人と仕事」

 「『中井久夫はウルトラマンである』 と思う。超人とかスーパーマンとかの意ではない。光の国からぼくらのために、ぼくらの世界に来てくれた、超常的現象なのではないかと空想してしまう。目前にしてさえ信じられないほどの知性と感性の冴えは、どのような文化領域にも光をもたらしうるほどのものである。それなのに、法律の世界でもなく微生物研究の世界でもなく、ぼくらのこの領域に来て留まってもらえたのは、ぼくらの世界が格別に暗かったからであろう。その暗さの程度は、中井先生によって光を当てられることで、はじめて暗かったことに気づくといった、ほとんど知の光と無縁の闇であったような気さえする。そして、その闇が中井先生という現象を誘発し、ウルトラマンをぼくらの身近に呼んだのであるなら、ぼくは闇に対する感謝で一杯になる。」
 長々と引用しましたが、これは中井と同時期に精神科医として活躍した神田橋絛治が「中井久夫著作集 第二期 精神医学の経験」のパンフレットに寄せたものです。
 優れたノンフィクション作家の最相葉月が、精神科医として様々な治療を試み、震災現場で人々のケアに従事した中井久夫の生涯とその人物像を描いたのが今回ご紹介する「中井秀夫 人と仕事」(新刊/みすず書房2860円)です。

 手強い一冊でした。全てが理解できたとは思っていません。中井の治療論や考え方は、専門書ではないにせよ、何度も読み返すことが必要かもしれません。それでも、一気にこの魅力的な人物の全体像を伝えてくれたのは、著者の冷静で、かつ具体的な描写があったおかげだと思います。
 1934年奈良県天理市に生まれた中井は、京都大学医学部を経て精神科医として活躍します。彼の統合失調症に関する論文は非常に高い評価を得ています。また、阪神・淡路大震災では、被災者の心のケアに尽力し、近年ではPTSD(心的外傷後ストレス障害)の研究、紹介を積極的に行って来ました。また、精神科に関わる看護師の教育にも関わってきました。その一方で、ラテン語やギリシア語に通じた語学力で、詩の翻訳やエッセイを発表して文学者としての顔も持っています。
 著者は中井の研究者の功績を追いかけながら、人としての彼の魅力をどんどん紹介していきます。
「フリーダ・フロム=ライヒマンという精神科医が警告していることなのですが、大事なのは、治療の成否に自尊心やプライドを置かないということでしょう。自分のプライドを高めるために他人を利用していることですから、私は実感を持って、これを肯定しますね。フリーダは、ほかのなんでもいいからプライドの置き場所を見つけるべきだといっていますが、私の文学的な仕事は結果的にその役に立っているのかもしれません。やまいだれの字ばかり書いているのに倦んだのでしょう。山とか海とか、花という字も書きたいということでしょうか。」これは著者が、以前、医業の傍ら詩の翻訳に取り組むようになったのはなぜかと尋ねたときの答えです。
 あとがきで著者はこう書いています。
「小学生の頃に『なぜ男の子が級長で、女の子は副級長なの』と訊ねた同級生のN子に始まり、中井が同時代を生きる女性たちの悩み苦しみ、生きづらさを受け止め、問うてきたのは確かであり、それが父権主義の根強く残る医学界にあって、その多くを女性が占める看護の分野に向ける素地であったことは間違いないだろう。」

2022年8月8日、中井は88歳の生涯を閉じました。

●レティシア書房ギャラリー案内
11/29(水)〜 12/10(日)「中村ちとせ銅版画展」
12/13(水)〜 24(日)「加藤ますみZUS作品展」(フェルト)
12/26(火)〜 1/7(日)「平山奈美作品展」(木版画)

●年始年末営業案内
年内は28日(木)まで *なお26日(火)は営業いたします。
年始は1月5日(金)より通常営業いたします

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