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無垢なるものの存在の意味と、生きづらさと -day3/100日投稿シリーズ②-

タイトル画像は渋谷のスクランブル交差点を上から観れる展望台から^_^
昨日はテキサス生まれの友人ができました^_^

昨日、いろんな場面で仲間たちといろんな話をして、感じた雑感メモ。

昨日のnoteで「この宇宙の片隅に」について書きましたが、まだ途中だけどこの本のおかげでこの宇宙≒自然についての理解が少し変化したので、その影響からいろんなものがつながって見えて来るのでした。

この正月くらいに、飛行機を待ってる時に、お母さんに抱っこされてる赤ちゃんを遠くから、いないいないバーしてあやしてた時

無垢なるものはなぜ存在するのか?

という問いが降ってきました。

この問いと、以下がつながったような気がしたのです。

宇宙は私たちのことを気にかけていないが、私たちは宇宙のことを気にかける。

あの本の一節で、刺さった言葉の一つですが、
日常に接する無垢なるもの、も宇宙や自然を"体現"しているのかもなあ、と。

例えば犬とか猫とか赤ん坊とか比較的幼少の子どもとか。大人でも病的な状態の人や認知症の人も、この宇宙的、自然的な存在の比率が高まった状態のようにも思えてきます。

そんな存在に対して、向こうはそれほどor完全にこちらのことを気にしていない。と認めることから始まる意味や価値があるのだなあと。

つまりこちら側がどうしたいかどうありたいか、その無垢なる存在とどのような関係を持ちたいのか持ちたくないのか、大切なのはそこだけなのだなあ、と。

世の中のいろんなうまくいかないことは、この相手や目の前の存在の「無垢なる部分=宇宙を体現している部分」の特性を間違えて理解し、こちらの気持ちをわかってほしい、こちらの都合を考えて欲しい、わかるのが当然だ、忖度するのがあるべき姿だ、というような前提を置くことから、発生しているのではないか、なんて思ったりするわけです。

完全に無垢なる存在、というものが日常に存在するのか知りませんが、無垢なる比率の高い存在は、こどもとか赤ちゃんとか犬猫ペットなど、わかりやすく日常に点在してます。

そういう存在に相対する時に、宇宙の存在を体感するような気が、これからはするのでした。

そして人生の物語の中では、この無垢なるものに導かれたり気付かされたりして、人が変容する瞬間があるような気がするのでした。


もひとつまったく別の場面で、良い物語を創りたい仲間たちと「生きづらさ」について話し合う場面がありました。一晩たって心理カウンセラーの妻と話していて教えてもらったのは、生きづらさの改善に必要なプロセスは、自己理解と自己受容、とのこと。なるほど。

自己を理解するときに、いろんな体験や似たような他者の言動や存在から、自分自身への理解が進むこともあれば、まったくの無垢な存在に相対したときの反応やこちらのあり方で、自分を知ることもあるように思うわけです。

山に登ると気付くこと、犬と戯れているときにわかること、赤ちゃんを抱っこするときに感じること。

それらを体感して言語化できたときに、自分に対して理解が進み、そんな自分を受け入れることができる準備がひとつ進むのかもしれません。

ちょっと何言ってるかわかんないっす^_^

でも多分なんだか、ちょっと新しい発見です。

そして探求はつづく。

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我が家の無垢なる存在といえば、彼。昨年5月に田植えで寺田本家さんの田んぼにさとがえりちゅのおちょこです^_^

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