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仏教は死の恐怖に効くのか?

養老孟司さんが「“死”は怖くないですか?」というインタビューに答えておられました。

「死」ということ以外にもいろいろ書いておられましたが、僧侶として気になったのは、やはり養老さんが「死」をどのように受け止めておられるか、ということ。記事の最後に「僕は死を怖いと思ったことはないのでよくわからないですね。そんなことは考えても仕方がないです。」と締めくくられていました。

なるほど、確かにおっしゃる通りです。考えてもわからないことを考えて不安になっても仕方ない、というのはわかります。それでも、私自身は「死」について考えても仕方ない、というようには思えません。どうしても考えてしまう私がいるのです。

そこで、今、私が「死」をどのように受け止めているのか、そして仏教は「死の恐怖」に効く教えなのか、ということについて考えていることを書き留めておきたいと思います。

「死の恐怖」を切り分ける

仏教を聞いている(実践する)と死が怖くなくなるんですか?という問いは、私のみならず多くのお坊さんが持ったことがあったり、あるいは人から尋ねられたりしたことがあるのではないかと思います。そんな時、どのように考えていけばいいのでしょうか。

まず私が思うのは、「死の恐怖」と一言で言っても、実はそれはいくつかのレイヤーによって作られているものだと思います。例えば「自己存在がなくなる(どうなっていくかわからない)恐怖」とか、「死に向かう上での身体的苦痛」とか、「いつ死が訪れるかわからない恐怖」とか、「家族を残していくことへの不安」とか、そういういくつかの要素が重なって出来上がっているものではないでしょうか。

ですから、〈「死の恐怖」に仏教は効くのか?〉と考える前に、そもそも私にとっての「死の恐怖」というものは、どういうものなのか?ということを考えて、切り分けていくという作業が必要になります。そして、その切り分けられたものの中には、仏教によって解決されていくものもあれば、解決が難しいもの、仏教とは別の領域にあるもの、というものがあると考えられます。

例えば、「死に向かう上での身体的苦痛」に仏教が効くかと問われたならば、私はあまり効果はないと答えるでしょう。身体的・肉体的な苦痛というものに対して宗教的なアプローチをしても、実際にその痛みが軽減されるということはあまり期待できないからです。

もちろん、瞑想の達人のような人であれば、瞑想のテクニックによってそれを克服することも可能なのかもしれません。しかし、多くの人にとってはそれを実現することは難しく、現実的ではありません。

それよりもむしろ、現代には痛みを取り除く治療というものも発達していますから、医療の領域、お医者さんに任せたほうが良いものと考えられます。

また、「家族を残していくことへの不安」というのも、私はなかなか仏教的アプローチで解決するのが難しいことだと感じています。もちろん、仏教は「執着」を離れていく教えですから、「家族は私と別人格であり、私の死と無関係である」というように見つめ抜き、執着を離れていくことによって克服することは不可能ではないのかもしれません。

しかし、その徹底というものも、私はとても難しいことだと感じています。「執着」から離れられれば、そのような不安は無くなるということは頭では理解できても、実践はとても難しい。つまり、仏教は効果があるかもしれないが実践は難しい、ということになるでしょうか。

また、「家族を残していくことへの不安」については、お金のことや、相続のことがつきまといます。そのような分野は仏教でどうにかなるものでもありませんし、お坊さんが解決できるということでもありません。その種の専門家の方に相談するのが、一番いいでしょう。

仏教はなにに効くのか?

では、「死の恐怖」のどのレイヤーであれば、仏教が効くのか。そのことを考える上で、今の自分にとってどういう「死の恐怖」のどのレイヤーが恐ろしいのか、ということを整理してみました。

すると、一番怖いと感じることは、「家族を残していくことへの不安」であると気づきました。これは、私には息子が二人いるのですが、まだその子どもが小さいというのが大きな理由です。この子たちを置いて、死ねない、死にたくない、という気持ちが、自分の死を想う時に、一番大きなウェイトを占めています。ただ、これはおそらく、子どもがある程度成長し、自立していく中で、ある程度は解消されていくことでしょう。もちろんそれは、それまで私が生きていれば、の話ですが。

そしてその次に怖いなと感じるのが、「死に向かう上での身体的苦痛」です。幸い私は今健康ですが、病になり、肉体的な苦痛を得ていかなければならないということは、本当に恐ろしいことです。そしてその病が治る見込みがないというような絶望ということは、肉体的な苦痛だけでなく、おそらく精神的にも大きなストレスとなるはずです。そのような苦痛を体験しながら死に向かっていくということは、やはり恐ろしいと言わざるをえません。

ただ、それは「死ぬ」という現象への恐怖というよりも、その過程への恐怖です。では、「死ぬ」という現象への恐怖、つまり「自己存在がなくなる(どうなっていくかわからない)恐怖」についてはどうでしょうか?

実は、このことともう一つ、「いつ死が訪れるかわからない恐怖」ということは、現在の私にとっては、それほど大きな不安とはなっていません。

こんなことを言うと、「ホンマかいな?強がりちゃうん?」と思われる方もおられるかもしれません。確かに、以前の私にとってはこの2つは大きな恐怖でした。それは、まだ妻子がいなかったから、ということもありますし、やはりこの部分を、仏教がある程度解決してくれたんだろうなと、自分では感じています。

むしろ子供や妻が先に亡くなることのほうが怖いかもしれません。でも、妻を先に見送りたいという気持ちもあったりします。もちろん今スグは嫌ですけど。

話が少し逸れましたが、ではどうして、今の私にとって、「自己存在がなくなる(どうなっていくかわからない)」ことや、「いつ死が訪れるかわからない」ことの恐怖の度合いが、かつてよりも低くなっているのでしょうか。それは本当に仏教の効果なんでしょうか。

そのことを説明するのは、なかなか難しいものです。自分でもどうして今そのように思えるのかは、はっきりとわかっていません。しかし一つだけ言えるのは、やはりこれは仏教を聞き続けてきたことと無関係ではないということです。

私は浄土真宗の僧侶ですから、主に聞いているのは浄土真宗の教えになりますが、その教えを聞き、味わう中に、ふっと「あ、なんかわからんけどいつ死んでも大丈夫なのかもしれんな」という感覚になることがあります。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人の作られた和讃と呼ばれるものの中には、「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」という言葉があります。阿弥陀如来という仏さまの願いの力(はたらき)に出会ったならば、空しくそのいのちを過ごす人はいない、という意味です。つまり、このいのちが空しいものとして終わっていくことがない、そういう教えに、今、私が出会っているということです。もちろん「ホンマかいな」と思う自分もいます。しかし、このことを腹の底から受け止められた時、きっと「自己存在がなくなる(どうなっていくかわからない)」ことや、「いつ死が訪れるかわからない」という恐怖は、解決されていくのだろうなという感触があることも事実です。だからこそ、今の私にとって、これらの恐怖というのは、それほど大きなものとはなっていないのだと思います。

そういう風に考えていきますと、「死の恐怖」というものは、仏教によってゼロになったわけではない。でも、仏教によって軽くなる部分もある。そういうことは言えるんじゃないでしょうか。

仏教に問い尋ねる

ただし、これは仏教、あるいは浄土真宗の教えを聞いた人、誰もがこのようになっていけることなのか?と問われると、はっきりそうだとは言い切れません。今回書いたことは、あくまで私が私を基準にして考えたことでしかありません。また、ひょっとしたら、縁によってはまた考えが変わることすらあるかもしれません。

ですから、「死の恐怖」の切り分け方から、私とは違うという人もいるでしょうし、恐怖の度合いが、私と異なるという人もいることでしょう。個人差があるのは当然のことです。私とは違って、仏教に出会って、教えを聞いても、自己存在の喪失が怖いという人もいれば、死がいつやってくるかわからないことを怖いと感じる人もいるでしょう。しかしそれは、聞き方が悪いとか、足りないとか、そういうことではなくて、人それぞれ、怖いと感じる度合いに違いがあったり、私と置かれた状況や出会ってきた縁がことなる、ということに起因しているのだと思います。

そして、仏教に出会ったからと言って、怖いと感じるものは、怖いと感じることはいけないことなんだと否定する必要もありません。その怖さというものを誤魔化さず、キチンと受け止めていくということもきっと大切なことだと思います。

もちろん、養老さんのように「よくわからないですね。そんなことは考えても仕方がないです」というように思えたならばいいのかもしれません。ですが、考えてしまう人は考えてしまいます。私もその一人です。ですから、私はこれからも、仏教の教えに自分自身の「死」ということを、問い尋ねていくのだと思います。

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この投稿は、2020年9月10日のツイートを元にして書いたものです。
https://twitter.com/kenyou1979/status/1303950414937616384



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