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①/2 - 今日の予定

なんとなく思いついたので書いてみます。


9:00 -- 事務所へいく いくつかの図面とパースを作る
18:00 -- 事務所を出て家へ帰る
20:00 -- 晩ご飯を食べる お風呂に入ったりする
~23:00 -- 今月のポップアップの詳細を詰める他


現在 8:23ーAM。
書いていて少し不思議に思ったのですが、
まだ始まってもいない一日の内容がもう決まっている、
自分の過ごす一日に既に筋書きが用意されていて今日のおれはそれをただなぞるように過ごしてまた明日を迎える。
変だな。わけわからん。

こうなっていることには色々な要因があると思いますがそれにしても変です
まるで外からの力で未来が決定されていくような、
自分が自分の(大きく言うと)人生を生きていないような感覚がします。
あまり月曜日の朝に考えることではないかもしれませんが、
これはおかしいことなのです。

一日が始まるのは新しいページをめくって真っ白なノートに何を書こうか、
いくらでも可能性がそこにあって自分で選ぶことで歩を進めていく、
進んでいくことによっていろいろな偶然が集まって次へ展開する
みたいなのが一日を過ごすということだと思うのですが、
実際に生活しているとほとんどの日が全く違った方法で時間を規定されています。

googleカレンダーが30分前には次の予定を告げ、
しかしそれに必ずしも従う(従うと書くとそうしないことも当たり前に感じます)必要はないはずなのです。ただ、それに乗っかっているだけ。

やりたいこと、やりたくないこと、好きなこと、人、空間や感情が
いーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっぱい
あるけどその内のどれかがたった一つさえ見つけられない一日がよくある。

どう思う?
偏った意見ではあるしそれも分かっていますが、、、

例えば
同じことをしていても場所を変えられる可能性のある場面は沢山あります。
デスクワークに必要なものはその資料と、机と椅子(机と椅子さえいらないかも) たったそれだけです。
少し離れたどこかで吹く気持ちのいい風にあたっていたいし、
穏やかな昼間は木立のなかで木漏れ日を眺めながらやらないといけないことをしたい。用意された場所ではなく、その場所自体を探しながら、自分自身で見つけ、選ぶことができるとずっといいのに。

いつもの椅子が座り心地の悪いものなら毎日はその不快感の掛け算になります。そこへ少しでも自分の気分の良くなるものでーある人はたばこやお酒だったり、なんでもー少し心が安らいでも根本的な解決にはならないし、
意図したことを表現するためにことばを探すなら終末期医療みたいなもんでしょう。
まあ言い過ぎか。
少なくとも穴の開いた船に乗って浸水してくる海水をバケツで海へ流すような状況に思えるのです。

学生の時、遠いヨーロッパの国で1週間過ごしました。
そこでは当たり前ですが自分のことを知っている人は誰もいなくて、
おれが何をしていても誰も気にしませんでした。
まるで幽霊になったような感覚さえしました。
人間よりもヒトに近いというか、石ころの一つ一つに名前がそんざいしないように、動物や自然に近いような。
いつも歌いながら町を歩いていましたが
今では(ここでは)できません。
場所を変えるとできないことができるようになることもあるっていう気がします。その逆もあるのでしょうが。

服を着替えるようにいろいろな場所を行き来して、
自分が感じたことで自己を彫刻していければ。

もう仕事なのでそれでは

P>S>たった今、飾ってたお花が茎から落ちました。
飾っていたしばらくの間、とても楽しめました ありがとう!


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