ラッセル「記述理論」の評価

最近野矢茂樹さんの新刊『言語哲学がはじまる』を読んだ。非常に良い本で、フレーゲ・ラッセル・前期ウィトゲンシュタインの重要性および価値と、その反面にある問題点について、改めて理解し整理することができた。

1.『言語哲学がはじまる』の概要と感想

自分がこの本から得た理解を以下に書く。
フレーゲとウィトゲンシュタインに共通でかつ革新的だったのは、言語の意味に関して文を中心とする考え方であり、言い替えると語の意味を中心とする要素主義の否定である。これを明確に示したのがフレーゲの文脈原理および合成原理である。この2つの原理は、文と語とどちらが基本的かという問題に関して一見反対方向に見えるにも関わらず、実は一体である。というのは、文脈原理とは結局「語の意味は、それを含む文の意味を合成的に求めるために必要な情報を含むような形で定式化されねばならない」ということだからである。また、ラッセルは、多くの面で要素主義的だが、彼による量化表現の分析は結果的に反要素主義の業績である(ちなみに飯田隆さんは「フレーゲ量化理論の再発見」と評価している)。このような文中心・反要素主義の主張はよく理解できたし、自分も完全に正しいと思う。

問題は、意味に関する上記の文中心主義の適用としての、真理条件中心主義にある。つまり、文の真偽あるいは真理条件を中心として言語の意味を理解しようという考え方である。言語分析への論理学の適用はその具体的かつ強力な手法として位置づけられる。自然言語の文の表層構造で不明確になっている真理条件を論理学的表現への翻訳によって明確にし、さらには命題間の推論関係を明確にする、というのがその目的だからである。そしてフレーゲの文脈原理でも、語の意義は文の真理条件への寄与とされ、ウィトゲンシュタインに関しても「ひとことで言えば、『論考』において文の意味とはその真理条件なのです」(p215)と書かれている。

もちろん、真理条件が文の意味の全てだなどとは誰も言っていないし、またこれが言語的意味理解の核心にあることも間違いない。問題は真理条件中心意味論の行き過ぎた適用、つまり本来の担当範囲外への適用である。そしてその行き過ぎの代表例が、ラッセルの記述理論だと思う。

2.ラッセル記述理論の主張

記述理論の主張内容は野矢さんの本に丁寧に説明されているが、念のため以下に引用する。

記述理論 確定記述を用いた文は、命題関数を用いて、その命題関数に当てはまるものがただ一つ存在することを主張する文に読み替えることができる

(p133)

確定記述とは、ある対象をそれが持つ性質の記述などを利用して指し示す表現のことで、英語で「the」で始まる句に相当し、具体例は「日本の初代首相」「その男」(the man)などである。後者の例では記述が明示されていないが、文脈が暗黙の記述として働き対象を特定している。記述理論は、おおざっぱに言うとこのような記述を、記述が当てはまるものが存在しかつ唯一であるという主張に還元する。例えば「日本の初代首相は男である」を「日本の初代首相に当てはまるものが唯一存在しそれは男である」に還元する。

この理論のポイントは、確定記述が対象指示表現であることを否定することである。ラッセルの問題意識では、もしも確定記述が指示表現なら、指示対象のない確定記述は、何もないところを指す「これ」同様無意味になってしまう。例えば「日本の初代大統領など存在しない」という非存在文は無意味になる。記述理論以前のラッセルは「日本の初代大統領も思考対象としては存在するから有意味」という方向性だった。そして記述理論では、確定記述を指示表現という意味的まとまりから解体することにより問題を解消した。それにより「日本の初代大統領など存在しない」は普通に真な文、「日本の初代大統領は男である」は単に偽の文、という形で、有意味な文として理解可能になる。

ラッセルの記述理論は、飯田さんの『言語哲学大全』によると「哲学的分析のパラダイム」と呼ばれたそうで、日本語のほとんどの分析哲学の入門書で、論理学の適用により文の論理構造を明確化する手法として高く評価されている(※青山さん、八木沢さん、和泉さんなどの本です)。記述理論の紹介の後は、野矢さんの本も含め、「対象非存在に関して確定記述はいいとしても固有名はどう対応するのか?」というように話が進められているが、記述理論自体に対する否定的コメントはあまり見当たらない。しかし記述理論は、指示表現への真理条件中心意味論の無理矢理な適用という点で、致命的に間違っている。

3.サールによる的確な批判

記述理論批判に関して最も重要な文献は、サールの『言語行為』である。
この本での批判は他の日本語の本で言及されているのを見たことがないが、簡明かつ根本的である。一言でいえば、言語的指示は、何かを真であると言うこととは次元の異なる行為であり、その意味で相対的に独立した行為の単位である。
確定記述は、平叙文に限らず疑問文や命令文にも全く同じ形で現れる。(今の日本という文脈を限定して)「首相は男である」という平叙文なら、ラッセルのように「唯一存在主張プラス男であるという主張」と解釈できなくもない。しかし「首相は男か?」という質問は、唯一存在主張プラス質問ではなく、端的に質問である。同様に「首相に会わせろ」という要求は、唯一存在主張プラス要求ではなく、端的に要求である。(後者が、唯一存在要求プラス面会要求でないことはもちろんである。)
また、確定記述の該当する対象が存在しない場合、それを含む主張や質問や要求は偽になるのではない。これらの言語行為を行う前段階、つまり指示行為のレベルで失敗する、というのが正しい理解である。
結局記述理論の誤りは、(1)指示行為(2)命題行為(真理条件の表現)(3)発語内行為(主張など)、という3つのレベルの区別ができていないということに尽きる。ラッセルの記述理論が日本で今でも高く評価されているとすれば、このサールの批判があまり読まれていないということも含め、言語行為論が十分理解されていないからだと思う。

4.真理条件中心意味論の問題

話を真理条件中心主義に戻す。
既に書いたように、真偽および真理条件の理解は言語理解にとって本質的であり、この点は平叙文に限らず命令文や疑問文などでも同様である。真理条件が理解できないと、どうすれば命令に従ったことになるのか分からないし、質問を聞いてもどういう答えが期待されているのか分からないからである。

しかし同時に、真理条件が言語で伝えたい内容の全てでないのも当然である。例えば「1万円もくれた」と「1万円しかくれなかった」とでは、真理条件は全く同じだが、言いたいことは正反対である。また、「トムは2位だ」と「トムが2位だ」も、真理条件は同じだが、伝えたい内容は前者は「トムが何位か」後者は「誰が2位か」であり、伝達主題が全く異なる。
真理条件の担当外の意味分野であることが、このように分かりやすい場合は問題ない。しかし指示表現についてはそれほど分かりやすくない。

例えば、確定記述(the句)ではなく不確定記述(a句)は指示表現か?「首相は男だ」における「a man」は、対象同定を含まない純粋な述語であり、指示表現ではない。しかし「ある男に昨日会った」における「a man」は指示表現である。なぜなら、男なら誰でもいいわけでなく、昨日現に会った誰かを念頭に置きそれだけを意味しているからである。確定記述との違いは、聞き手に対象同定を要求せず、話し手だけが同定し聞き手がそれを信頼するという点である。
一方確定記述においても、「日本で最も身長が高い人」のようないくつかの最上級記述は、記述以外に対象にアクセスする情報経路が皆無なので、典型的な指示表現とは言えない。
このように、指示表現と述語の区別は時に不明確である。

しかしそれでも、固有名も含め指示表現使用は、文による真理条件伝達が成り立つ前段階として別レベルで理解すべき言語行為であり、それ単体で成功失敗を語りうる単位である。そして対象が無い(=失敗した)指示表現を含む平叙文あるいは主張は、偽なのではなく、そもそも真理条件を持つための前提条件が満たされていないのである。

5.いわゆる「意味の指示対象説」

率直に言って、確定記述や固有名に関する「意味の指示対象説」はそれほど間違っていない。ただしこれらを普通に指示表現として使う言語行為以外に、表現としての用法を調整するような、いわば高次の言語行為がある。つまり言葉によって言葉の使い方を導くという行為である。フレーゲやラッセルが課題とした非存在文や同一性主張文は実はこれに該当する。

これらの引き起こした問題は野矢さんの本に詳しいが、以下におおざっぱに書く。もしも確定記述や固有名の意味が指示対象なら、「日本の初代大統領はいない」や「バルカンは存在しない」という非存在文は無意味になるのではないか?(※「バルカン」は野矢さんの本の事例で、かつて水星より内側の軌道にあるとされた惑星)。また、指示表現の意味が指示対象に尽きるなら、「フォスフォラスとへスぺラスは同じものである」(どちらも金星)という同一性主張文は、同語反復と同様で情報量ゼロの無内容な文になるのではないか?これらの疑問は、多くの言語哲学入門書で、「意味の指示対象説」の問題点として挙げられている。

しかし非存在文は、その確定記述や固有名は公式の指示表現としては使えない、ということを伝える言語行為であり、当然有意味である。また誰かが「カナダの大統領」(※実際は首相しかいない)とうっかり言ったとすればその指示表現は失敗だが、カナダの政治トップを指示しようとした意図は理解可能なので、無意味などと言う必要はない。
同一性文も、指示表現としての使用に注意を与えることを目的とする文である。上の例でいえば「フォスフォラス」や「へスぺラス」は、天文学的発見の結果として、「火星」や「木星」のような、天体と1対1で対応する公式名としては使えなくなり、金星のニックネーム的別名に格下げされた。そのような名前としての性格を踏まえるよう使用を導いている。逆に言えば性格を踏まえていれば「フォスフォラスよりへスぺラスが好きだ」のように使い分けても問題ない。結局同一性文に関しては、野矢さんの本にあるウィトゲンシュタインによる解決でほぼ正しい。

6.指示表現の本質と存在論

改めて言うと、確定記述や固有名は通常指示表現として使われるし、その使用が成功しているなら指示対象は存在する。重要なのは、この「存在」という言葉から「本当の意味で存在するもの」のような、おかしな哲学的思い入れを排除することである。言語的指示とは、言葉を既知の(=認知的に追跡されている)対象に結びつける行為であり、指示表現の機能は、話題の追跡および共有である。そして「存在」の正統的な意味は、話題の種類ごとの対象領域に含まれるということである(量化の変域に含まれる、といっても良い)。言語の働きを理解したいのであれば、指示対象=存在者は認知的課題として平等に扱うべきであり、存在論的身分差別を導入すべきではない。物理的対象、人工的道具的存在、国家や貨幣のような制度的存在、架空キャラクター等は全て同じ意味で指示対象である。家族、勤務先、商店街、Webサイトから「私の腕時計の価値」(チョムスキーのお気に入りの例)にいたるまで、認知的追跡課題という点で平等であり、知覚や長期記憶などの認知システムおよび言語システムは連携してそれらを扱うよう設計されている。(遺伝子選択から文化に至る様々なレベルの選択プロセスによって設計されている。)

ラッセルは大変な才能と技術力の持ち主だし、量化の分析含む論理学的貢献は第一級の仕事だが、記述理論による「見かけだけの指示の排除」はその論理学の不適切な応用である。繰り返しになるが、真理条件中心意味論の本来の担当範囲を越えた適用である。


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