戸田山和久『知識の哲学』出版20年後の見直し

戸田山和久さんの『知識の哲学』という本は、2002年に出版された本で、認識論の入門書として長く読まれてきているようである。
著者はこの本に書かれたような主張を20年後の現在でも保持しているのか?あるいは部分的に考えを変更または修正した点があるのか。

これについて本人のコメントがどこかにあるのかどうか知らないが、推測も含め、著者の現在の考え方も応用してこの本を読み直したいと思う。

戸田山さんは、2014年に『哲学入門』という本を書いている。
この本も、必ずしも入門書としてではないが、多くの人に読まれ評価されているようである。
重要なのは、この本で軸になっている、進化論的枠組みを基盤とする「目的論的意味論」について、2002年時点の著者は全く知らなかったと推測されることである。例えばミリカンについても多分まだ読んだことがなかったと思われる。
従って、彼が目的論的意味論を知ったことで2002年までの主張に大きな修正が生じることは不思議でないし、必然性のある正しい修正になると考える。それを示すことがこの文章の主題である。
以下で、『知識の哲学』の3つの中心的主張を挙げて順にコメントする。

1.認識論の自然化

具体的には、哲学としての認識論は科学と連続的であり積極的連携が必要であるという主張である。
これについては戸田山さんは20年間全くブレがない。
伝統的な「概念分析」という方法への批判も共通している。

2.認識論の社会化

「信念」を対象とする伝統的認識論の個人主義的バイアスに対する批判、および知識の社会性という主張については著者に基本的に変化はない。

懐疑論に抵抗して知識の基礎づけをめざすには、他人から教わるのは知識のまともな獲得方法ではないことになってしまった。

知識の哲学 p219

新しい認識論は社会化された認識論である
科学を典型とするわれわれの意味ある知識生産活動は、ほとんどの場合、認知作業の社会的分業を通して行われている。この事実を新しい認識論は無視してはならない。

知識の哲学 p245

このような歴史的反省と方向性は非常に共感できる。
人間の知識あるいは情報資産は、教科書とか論文とかPCファイル内のドキュメント、より間接的には様々な人工物(=知識の成果)に埋め込まれた形で
社会的に共有・継承・蓄積されている。
ただし、同時に以下のような記述があることにも注意が必要である。

もちろん動物は…求められても知識の正当化を行うことはできない。
私はこうした動物に対しても、「知識」という概念は文字通りに適用できるものでなくてはならないと思っている。

知識の哲学 p71

動物はもちろん、一部の例外を除き文化としての社会的共有知識を持たない。社会の中に存在する知識を利用する能力を人間だけが持っている。
従って人間個体の、社会的知識を取り込み利用する能力の構造であるとか、あるいはその能力の進化史における獲得形成の経緯であるとか、そういう個体能力に注目する科学的/自然主義的研究が重要な点に変わりはない。

『哲学入門』では、個人の信念や社会に存在する知識や動物の知識、そういったものを包括的に捉える概念として「表象」を提示し、一般的かつ強力な自然主義的説明を与えている。

3.認識論で「真理」は中心的概念ではない、という主張

実はこの主張が、後の『哲学入門』では否定されることになる。
本人がどう思っているかに関わらず、両立しないことは確かで、実際この主張は間違いである、と言いたい。

『哲学入門』の中心概念の一つである「表象」は、より詳しく言えば、目的論的意味論によって定義された「志向的記号」であり、「間違い可能性」によって特徴付けられている。
間違い可能というのは、真偽値を持つあるいは真偽評価可能ということであり、ここで「真理」概念が本質的であることは明らかである。

そうすると、この件に関する『知識の哲学』の主張はどうなるのか。
以下に念のため中心的な関連文章を引用しておく。

真なる信念の形成が生存戦略として必ずしも適切とはかぎらないのだとするなら、「真理への到達」は認識論的規範が従う上位目標、つまり上位の認識論上の価値という地位から滑り落ちてしまうかもしれない。

知識の哲学 p191

本章(10章)では、真理は認識論で重きを置かれるべき概念ではないという、『理性の断片化』という本でスティッチが主張した考えを再構成しながら、真理と信念という概念と認識論の関係を反省し、真理や信念を主人公としない認識論が可能だとしたらどのようなものになるかを考えてみることにしよう。

知識の哲学 p195

(知識の正当化要件以前に)そもそも真なる信念が内在的価値を持つということ、さらには道具的価値を持つということさえ疑わしい

知識の哲学 p203

認識論は…真理に内在的価値を置くような生き方の勧めでもあった

知識の哲学 p213

クワインはあくまでも認識を真理獲得のための技術だと考えていた。しかし、この(認識を技術とする)喩えを徹底するならば、認識という技術を評価する際に訴えるべき目的や価値は一つではないことがわかる。健康だったり、幸せだったり、生存だったり、自然のコントロールだったり、予測だったり、ものすごくいろいろあるはずだ。

知識の哲学 p214

新しい認識論は「真理」を中心概念としなくなる(かもしれない)

知識の哲学 p250

これらの主張およびそれに伴う、(多くの人が説得的と思ったであろう)論証はどこが間違っているのか?戸田山さん本人がこの件でどう言うかは分からないが、以下で私が代わりに間違っている理由を説明する。

信念は、他の信念に影響を与えることも含め様々な形で利用され、最終的には行為を導く。信念を生産・利用する認知システムは、それを所有する動物の複製最大化に貢献することで選択される。
その貢献を果たすために、信念は世界のどんな側面でもとにかく正しく?表象すれば良いわけではなく、動物にとって重要な側面をその重要性に見合うコストをかけて表象せねばならず、それにより認知/信念システムの選択が左右される。
繰り返しになるが、信念は不特定多数の様々な使い道、従って機能を持つ。しかしどんな使い方であっても、その機能は、システムの設計によって与えられた写像規則に基づき真である場合にのみ果たされる、という点がポイントである。
「毒物を避けるための神経質な信念形成戦略」事例(p190)のように、信念が真になって機能を果たす機会が結果的に少ないことはありうる。しかし、仮に頻度が小さいとしても機能が果たされるのはあくまでも真である場合のみである。

このあたり勘違いが生じやすいようなので、話の構造が共通の事例を挙げて説明したい。

信念における真理の価値とは、野球における勝利の価値のようなものである。それは、野球自体の価値とは異なるという点がポイントである。
野球自体の価値は、もちろんプレーや観戦を通じて楽しめることであり、そうでなければ何の意味もない。実際、楽しくなかったらとっくに滅びている。
しかし、だからといって野球における勝利が「派生的な道具的価値」というわけではない。「勝利」は野球というゲームの定義に組み込まれゲームを方向づける点で本質的である。ホームランなどの価値も、勝利への貢献として派生的に与えられる。

もちろん練習試合や親善試合のように勝ち負けが重要でない野球ゲームもあるが、それはやはり派生形式であり、野球を利用した訓練あるいは社交に過ぎず、野球自体は「勝利を目指す」という形で本質的に構成されている。

野球は、規則が本質的という点で分かりやすい事例として使ったが、もちろん表象ではないので、別の事例として「時計」を挙げたい。

時計は、人間に現在時刻を知らせることが本質的機能である。
一方で時計の価値、従って商品として消費者に選択されることは、表示する時刻の正確さ以外の要因によって左右される。例えば生産コスト(従って価格)や、アクセサリとしてのデザインや、重さや丈夫さや文字盤の見やすさなどである。

しかし時計の価値がどうであれ、時計としての機能が、表示時刻が(許容誤差範囲内という意味で)真である場合のみ果たされることに変わりはない。たとえロレックスであっても、「正しい時刻を表示する」という要求仕様に基づいて製造されているのでなければ、それは時計ではない。

以下話を認知および信念に戻す。
知識/認知/信念と真理との関係を集中的に論じているのが10章だが、この章で援用されている、「信念に真理条件を与える解釈関数は恣意的」というスティッチの主張や、「認知システムは文のような構造を持たない分散表象を使用している」というチャーチランドの主張は、認知において真理概念が本質的であることへの反論にはならない。

例えば「札幌は北海道にある」という信念の真理条件は、札幌が北海道にあることだが、このように信念が真理条件によって個別化・特定して扱われる限りでは、解釈関数や実装構造のようなものを問題にする必要はない。
英語や日本語などの自然言語では、文の要素がまず音韻単位として個別化・特定され、それを元に文を構成する。つまり音を意味構造に写像する統語論が必要になる。
しかし認知システムとしての心では「音」に対応するものはなく、逆に意味あるいは内容によって要素が機能的に個別化・特定されるのであり、それが思考の言語仮説が不適切な理由でもある。
コンピュータの場合、プログラマやエンドユーザは実装を気にしないとしても最終的にはメモリセルなどの物理的単位を意図的に操作することが不可欠であり、それらと入出力の橋渡しとして解釈関数のようなものが考えられるかもしれないが、人間の場合は神経細胞を個別に操作して利用するわけではない。内部的に分散表象を利用しているかどうかという実装はここでは問題にならない。今問題としているのは認知システムであり、かつ表象を利用するという上位レベルの側面である。

認知システムの中にも感情や気分のように表象と直接関係ない要素ももちろんあるが、「信念」と呼ばれるものを代表として、本質的に真偽評価可能な内容を持つ表象が認知で重要な役割を持っていることは明らかである。つまり信念は、どう使うにしても、真である場合のみシステム設計通りの仕方で機能する。
戸田山さんは「信念は世界を映し出す鏡であり、ありのままに映し出されることが真理ということだ」という哲学的メタファーが伝統的認識論の背景にあると書いている。しかし表象は、信念だろうが鏡像だろうが、対象の全面的写しではありえず、必ずある側面のみの写像規則に基づく写しである。ありのままに映すなどという古いメタファーは単に意味不明で、目的意味論における「表象と真理の本質的関係」とは別のものである。

信念や知覚など認知システムの表象は、それが分散表象かどうかや文形式かどうかはここでは無関係である。実装がどうであれ、世界のある側面の状態に対応連動して動物の行動を導かねばならない点に変わりはない。例えば、動物が目の前の対象物を掴むべく手を伸ばす時、自分および手から対象物への距離がどうなっているか、対象物が真正面から左右にどの程度ずれているか、距離と方向の変位を何らかの方法で動物の内部状態に反映させ、それによって最終的に行動を調整し成功に導かねばならない。そのような内部表象は、行動が成功するかどうか、成功したとしてどのような利益があるのか、そういうこととは独立に、認知システムによって与えられた役割によって真偽値を持つことが本質的である。

文形式でない表象の例としては「地図」がいいと思う。
地図の場合、情報量の多さや見やすさなど様々な評価基準があり得るし、もちろん使い方次第だが、どんな使い方をするにせよ絵画でなく地図として使うなら、真偽値を持つことが本質的である。

ここで、地図のどの側面が真偽評価の対象になるかは、設計時に想定する利用目的次第である。
例えば、道に沿って建物が実際はA,B,Cの順に並んでいるのに地図上ではA,C,Bの順に並んでいれば、多分偽(間違い)だと思うが、これらが三角形に近い配置で近接性だけを表示する意図なら問題ないかもしれない。
また、2つの経路(道)があったとして、実際は長さがA>Bなのに地図上ではB>Aになっていたとして、単に道Bの方に表示したい情報が多く見やすさのためにそうしたという説明が消費者に通用するなら問題ないが、道A,Bのうち近道を選ぶためにこの地図を使用するという想定が普通にありうるならこの表示は偽である。
いずれにせよ、設計時に想定する目的によって真偽が与えられる。

認知システムの場合、設計を行うのは人間ではなく様々なレベルでの選択であり、遺伝子や条件付け学習や社会的・文化的選択など様々なレベルがあるが、表象は解釈(写像)規則を仲介として表象生産者と表象消費者(別のシステムあるいはシステム内の別部分または別側面)の共生的選択に関与する点がポイントで、それにより目的/機能/規範が与えられ、真偽が定まる。

4.まとめ

『哲学入門』のような唯物論(物理主義)を支持するかどうかはともかくとして、認知と意味に関する外在主義にとって自然主義的目的論は不可欠である。これがない限り、外在主義は首尾一貫できない弱みを残し、例えば「指示の因果説」(p206)を主張しても、「指示対象決定に寄与するコミュニケーションの連鎖に関する信念」のような形の内在主義的取り込み(サールとか)に適切に対応できない。

全面的な自然主義あるいは外在主義のために目的意味論は決定的に重要で、実際これに出会い知る機会がなければ、全くどうにもできず手も足も出なかったと思う。その意味で、ミリカンは途方もなく重要な哲学者である。




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