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阿川尚之ほか『海洋国家としてのアメリカ』読んだ

積読解消シリーズだ。

読書ノート作らなきゃと思ってるうちに、9年以上経過してた、、、

アメリカ海軍、海運政策についての論文をまとめた本である。ランドパワーでありながら、シーパワーでもあるアメリカの発展に焦点をあてたものである。

合衆国海軍の発展

独立直後のアメリカでは中央政府の集権化を警戒する州権主義者もおり合衆国海軍創設の機運は高まらなかった。大英帝国の海上封鎖も破れないほど貧弱であり、そもそもコストを払えないのであった。

フランス革命により、英国やポルトガルは海軍を私掠船取り締まりから、大陸封鎖に向けるようになる。大西洋の海賊が跋扈してアメリカ商船を襲うようになって、ようやく海軍の必要性が議論されるようになった。

ハミルトン、アダムズのような連邦主義者ほど積極的。工業と通商を重んじ、将来的には列強と伍する海軍をめざしていた。

さりとて大英帝国が制海権を握る大西洋へは積極的に出ていかれず、フロンティアの消滅、米西戦争を経て太平洋へ進出することになる。

1845年10月ようやく、アナポリス海軍兵学校創立。

独立の経緯からして、大規模な軍隊への忌避感あり。また貴族階級の再生産になるのではないかという懸念もあり、海軍士官錬成には消極的であった。
イギリスとの関係が悪くないかぎりにおいて大西洋は問題ではないし、そもそもフロンティア消滅までは内陸へ目が向いていた。
当初はペリーなどの名家(閨閥)が海軍を握っていた。縁故主義や属人性からはなれた、合理的で体系的な教育が求められた。

海軍兵学校、海軍士官学校成立後も、海軍の役割が小さいうちは縁故主義や反知性主義が幅を利かせていた。

1890年の『海上権力史論』で有名なマハンの師匠スティーブン・ルースは海軍大学校を創立し、ネイヴァル・アカデミズムの道を開く。
ドイツ参謀本部の活躍で軍人にも知性が必要なことが意識されるようになった。

南北戦争終結後は海軍は縮小される、工業大国になりつつあったがまだまだ内向きの時代であった。

棍棒外交

1901年「現代海軍の父」セオドア・ローズベルト大統領就任。

ローズベルトらは、英国が制海権を握る大西洋ではなく、太平洋に目を向ける。つまりアジア諸国との関係を意識するようになり、わけても近代化に成功しつつあった日本とのパートナーシップが重要になる。

ローズベルトの海軍次官時代の武勇伝はかなりガチで面白そう。いつか詳しく調べよう。

基本的に内向きだったアメリカの政策が20世紀に入って転換したのは、ターナーのフロンティア終焉仮説、マハン海洋戦略論、新たな布教場所を求める宣教師たち、アジア西太平洋におけるドイツの膨張政策などによる。

清における列強の政策に反感を顕にするが、それを強制するだけの海軍力は当時の米国にはなかった。とりあえず利権の保全が重要課題であった。

米西戦争を経てフィリピン、サイパンを獲得。さらにハワイ併合、ベネズエラ危機、パナマ独立、日露戦仲裁などで、太平洋の制海権が強く意識されるようになる。

日露戦の結果により、黄禍論とあいまって、日本は安全保障上の脅威とみなされるようになるが、ローズベルトは日米関係を重視した。

1880年代以降、蒸気船開発により遠洋航海が可能になる。世界がつながったことで太平洋と大西洋から攻撃されることを懸念しなければならなかった。

イギリスとの和解

ベネズエラ国境紛争を最後に英米の対立は終焉。
米西戦争でフランス等がカトリック諸国がスペインを指示したのに対して、イギリスは親米感情が広まる。栄光ある孤立を維持できなくなっていた。アメリカもまたボーア戦争に対して好意的中立を保ったことで友好的な感情が育まれた。

独仏露の脅威に対抗するため、アメリカと争う余力はイギリスにはもうなかった。
予算の制約もありドレッドノートのような強力な艦艇の開発に集中するそして、このような戦艦を建造できる工業力は英米独のみであった。
日露戦により露仏の海軍力は後退、日英同盟締結を締結しており、ドイツ海軍こそが仮想敵国となる。
ドイツとアメリカの同盟こそがイギリスにとって唯一恐れるべき事態となった。

アメリカにとってもイギリスとの有効は、世界中に広がるイギリス海軍のインフラを利用できるメリットがあった。

海運政策

海運政策においては、カボタージュすなわち自前の商船や水夫を重視した。しかし戦後はアメリカ企業が造船、海運を担うことは難しくなる。保護主義から新自由主義への潮流もあり、現在では世界の主要な海運会社は米国籍ではない。

空母、航空戦力

イギリスは独立した空軍をもったが、アメリカは海軍にも航空戦力をとどめおいた。『トップガン』は海軍のお話である。

WW1からしばらくは戦艦中心の時代、航空機は着弾観測のような限られた運用。航空機による大規模攻撃の演習は行われていたが、空母中心の運用に本格的に転換するのは真珠湾攻撃以降であった。

WW2の間に空母中心の建造、航空機生産、パイロット養成が盛んとなる。

戦後は大洋に主要な驚異となる海軍が存在しない状況での空母も疑問視されることもあった。また戦略爆撃機、核兵器の存在下で海軍の存在意義すら問われることもあった。
しかし空母機動部隊の全面展開による威圧、国家の意思表示、地上目標攻撃の航空支援といった意味は大きい。

湾岸との関わり

湾岸地帯は歴史的にはイギリスの勢力圏であったが、インド独立やスエズ動乱を経て撤退した。しかしイラン北辺にソ連軍はとどまったため、アメリカが関与せざるをえなくなる。

英米はソ連陸軍を抑えられる規模の陸軍を湾岸に派遣できないので、トルコ、イラン、イラクなどと連携した。英軍撤退後はイラン、サウジアラビアの二大国を柱として地域の安定を図る。

しかし第4次中東戦争と石油危機、イラン革命、ソ連のアフガン侵攻によって二本柱政策は破綻した。
これを受けてカーター・ドクトリンでアメリカの湾岸への直接的な武力行使が示唆されることとなる。具体的にはイラン・イラク戦争におけるイラク支持など。

イラン・イラク戦争の終結、ソ連のアフガン撤退などでカーター・ドクトリンは意義を失ったかにみえたが、1990年イラクがクウェートに侵攻し湾岸戦争勃発。この時点では域内のバランスを重視してイラクをとことん追い詰めはしなかった。

しかしソ連崩壊後は、イスラエル、サウジアラビア、トルコなどとアメリカの関係が強固になったこともあり、イランもイラクも抑え込もうとするのだった。。。

もちろんアメリカのこのやり方がうまくいってないのはご案内の通りであるが、現在に至るもシーレーンは確保され、中東から我が国への石油の安定供給が達成されているのである。



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