三浦胤義bot

承久の乱で宮方で戦った鎌倉御家人です。 京一番の弓馬の上手で鎌倉一の美女な妻がいます。…

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承久の乱で宮方で戦った鎌倉御家人です。 京一番の弓馬の上手で鎌倉一の美女な妻がいます。 Twitterで呟いたことをまとめるnoteです。

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    マシュマロに投げ込まれた質問回答集。 ↓質問はこちらから↓ https://marshmallow-qa.com/bot_miura9

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このnoteは、Twitter上に存在する「三浦胤義bot」のツイートをまとめるためのnoteです。 三浦胤義とは?承久の乱で宮方で戦った鎌倉御家人です。 京一番の弓馬の上手で鎌倉一の美女な妻がいます。 ◆botの基本設定◆800年ぶりに起きました。 記憶が曖昧なので文献などを読んで思い出しています。 鎌倉初期で質問があったらリプすると思い出したり、調べたりして答えます。しかし、一般的な御家人なので、幕府や朝廷の内部事情や他家の事は聞きかじりの事しかわかりません。 三浦

    • Twitterでしか生きられない悲しきアカウントなので、botサービスを引っ越しした

      Twitterbot界は今、空前の存続危機なのだ。定期的に呟いてくれるbotサービスで1強だった「Twittbot」が稼働しないのだ。現にそれでアカウントを削除してしまったbotもいる。手動に移行しているbotもある。 以前のように自動呟きをするにはまずデベロッパー登録しなければいけないが、まずその「デベロッパー登録」に躓いている者も多いのではないだろうか。 まず「https://developer.twitter.com/」にアクセスし、右上の「開発者ポータル(Deve

      • Twitter解凍しました

        無事解凍したぞい!💪✨ とりあえず、解凍後もハッシュタグ+URL投降を続けているが、問題はなさそうなのでこれまで通りの運用を続けていく。 今後は凍結しやすく解凍しやすくなるかもしれんので、万が一のためのブックマーク先はこちらに残しておく。 ▼連載中のweb記事 ▼鎌倉時代関連のイベント・講演会・展示会・書籍情報 ▼マシュマロ 凍結祭りは今後も行われると思われるので、手順をここに残しておく 解凍手順凍結されたアカウントにログインすると、「このアカウントは永久凍結さ

        • Twitter春のBAN祭りでカチンコチンに凍結した件

          突然の凍結でTLをお騒がせして済まない……とりあえず、やっててよかったnote!! 凍結の原因朝起きたら、このようなメールが来ていて凍っていた。 はっきりコレが問題だと言ってくれないところがAI判断なのだなって感じではあるが、考えうる原因は 電話番号未登録 ハッシュタグ(#イザ鎌)と、URLを添えて講演会・展示会などの情報を外部連携で自動ツイートしたこと ……だと、思う。 異議申し立てはしたが、Twitterのサポートのサーバーがパンクしているのか、何度送ってもメ

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          三浦神社

          静岡県浜松市には「三浦神社」がいくつかある。これは、佐原義連叔父貴の二男、盛連が「遠江守」だったことに関係する、と思われる。 三浦という地区名が残っていて、周辺には「三浦さん」も多いらしいぞ。 中区曳馬の三浦神社もともとここらへんが「三浦」とよばれていたらしい。 中区十軒町の三浦神社由緒書きがなかったので、詳細は分からない。曳馬の三浦神社と同じ馬込川沿いにある。 東区市野町の三浦八幡神社ここにも由緒書きが無かった。 由緒書きどころか、社名の看板すらなかった。 浜松市

          橋本宿

          橋本宿は東海道の宿場町。現在の静岡県湖西市新居町にあった。 1190年、頼朝様が上洛する際に宿泊したから、周辺には頼朝様関連の史跡がいっぱいある。また、1221年の承久の乱の時も幕府軍が宿泊した。 1190年 頼朝様上洛関連史跡源太の山 頼朝様が上洛の途中に橋本に宿泊した時に梶原景時殿の長男・源太景季殿が警護のため、金山(源太山の旧名)にあった大松の上で物見をして警戒にあたった、といわれている。 この事からこの山を「源太ノ山」、大松を「物見の松」と呼んだ。 大松は明

          田村館

          「田村」は相模川やいくつのも道が交差する流通の拠点。元々は大庭氏のものだったが、どういう経緯か兄上(三浦義村)の所領となる。 承久元年(1219)7月、鎌倉第四代将軍候補として連れて来られた三寅殿(藤原頼経)は五日間この館に滞在し 7月19日に鎌倉入りをした。吾妻鑑によると頼経殿はその後も数回来泊している。 田村橋の近くにある八坂神社は、田村の鎮守だが、特に兄上の話は伝わっていない。ちなみに御朱印もないそうだ。

          木嶋神社(蚕の社)

          読み方は「このしまじんじゃ」。地元民には「蚕の社(かいこのやしろ)」の方が伝わる。 オレが自害した場所。当時はもっと大きくて、下賀茂神社に似ていた。 郎党の藤四郎に「自害した後社ごと焼け」と言って自害したが、発掘調査のあと実際に承久の乱あたりに焼けた跡が出土したらしい。 江戸時代にはオレと息子の胤連を祀る「魂鎮社」があったが、明治時代に末社に合祀された。 本殿の左にある小さな社のどれかだとは思うが、宮司に聞いても「よく分からない」と言われてしまう。 近くの太秦広隆寺

          木嶋神社(蚕の社)

          曽我兄弟と虎御前の墓

          曽我兄弟と虎御前の墓と伝わる五輪塔。ただし刻まれた銘文には、「地蔵菩薩を信仰する集団が平等利益を願い、永仁3年(1295)に建てた」と書かれている。 周辺には同年代に作られた摩崖仏や五輪塔がいくつかある。 こちらの宝篋印塔は、河内源氏の祖・多田満仲の墓と伝わるが、永仁4年(1296)に大和国の石工・大蔵安氏によって作られたとシッカリ刻まれている。

          曽我兄弟と虎御前の墓

          実朝出帆

          「実朝出帆」は1973年(昭和48年)に西武劇場(現・パルコ劇場)で公演された、山崎正和氏作舞台劇。1993年(平成5年)にもシアターコクーンで上演され、実朝様800回忌にあたる2018年(平成30年)に、実朝公首塚の前で野外劇として公演された。 戯曲は新潮社から出版されていて、図書館にもあると思う。 「実朝という男は何者だったのか」 生前も死後も、ずっと問いかけられてきた彼が、熱に浮かされたように船を作ったのは何故か。陰謀渦巻く政治劇の渦中に、実朝は何を見て、どう思っ

          王滝村の三浦太夫

          長野県の王滝村には、宝治合戦で行方不明となった、兄上の息子・四郎家村が逃げ込んだという伝承がある。 しかしネットに転がってた王滝村の家村の情報は、一貫性がない。 ・滝越地区は平家の落人の里 ・三浦太夫は朝比奈三郎のことである などなど。 更に混乱するのが という村の公式っぽい記述 やはり現地でフィールドワークするしかないか……と滝腰に到着。 まずは腹ごしらえかつ、 手掛かりである看板があるという水交園へ……! 天ぷらと蕎麦を頼みつつ、看板の事を聞くと……なんと

          王滝村の三浦太夫

          兵庫県立歴史博物館

          ■ 源平合戦屏風(三浦・畠山合戦図) 源平合戦図は、一ノ谷、屋島、壇ノ 浦など後期が多く、初期の戦いを描いた画像は珍 しいと考えられる。

          兵庫県立歴史博物館

          今度、母と横須賀の方にでかけるのですが、「ここは行っておくべき!!」という三浦氏ゆかりの場所ってありますか?

          とりあえず車で行くか、公共交通機関でいくか、誰のファンなのかによるが、 衣笠エリアが間違いないな。衣笠城址・満昌寺(宝物殿は予約見学可)・父上の墓・祭神が兄上の近殿神社。 義盛ファンなら東海岸の浄楽寺(予約して見学すべし)は外せない。 崎に行ってマグロも良いが、今の季節なら松輪サバも美味いぞ!(松輪サバ食べられるかは運) 三崎に行ったら海南神社に行くと良い。食事はくろば亭おすすめ。おやつにミサキドーナツも美味いぞ。 ちなみに、兄上の墓近くにあるレストランKANEDAは

          今度、母と横須賀の方にでかけるのですが、「ここは行っておくべき!!」という三浦氏ゆかりの場所ってありますか?

          海路で軍を動かす場合、馬はどうするのでしょうか。

          石橋山の記事は、これかの? 平安末~鎌倉時代の軍船については、文献も残ってないから、曖昧な記憶だが……。 大きな船なら馬も乗せられるだろうが、取引のある港ごとに馬を用意しておくという手もあるなぁ。 安房や伊東は三浦と繋がりがあるが、石橋山だと伊東は敵方になってしまったから、土肥あたりから上陸する予定だったのかもなぁ。 あ! あと単純に、馬は船に乗せるのではなく泳がすってパターンもあるな! 結構スイスイ泳ぐぞ!! ちなみに三浦には、夏に馬に乗って海を泳ぐ人気イベントが

          海路で軍を動かす場合、馬はどうするのでしょうか。

          胤義さんやご兄弟の矢の腕前は実際どのぐらいだったんでしょうか

          兄弟で弓の記述があるのはオレと兄上ぐらいだが……兄上は流鏑馬や笠懸をした記録が何回か『吾妻鏡』にあるな。オレは『承久記』に出て来る。 まず流鏑馬(やぶさめ)というのは、神事。神様に奉納する儀式だから射手には「絶対に外さない者」が選ばれる。 笠懸(かさがけ)は競技。射手には「プロ中のプロ」が選ばれるのだ。 ちなみに、当時流鏑馬には年齢制限があった。40歳以上で選ばれることはほとんどないよ。 オレは『慈光寺本承久記』では京で一二を争う弓馬の上手と称されているし、 放っ

          胤義さんやご兄弟の矢の腕前は実際どのぐらいだったんでしょうか

          武士が名乗りを上げるシーンで「生年十七歳」と言っているのが何度も出てきました。年齢は申告(?)しなければいけないルールだったのでしょうか?

          武士の名乗り、年齢を名乗る場合と名乗らない場合はぶっちゃけノリかのう……。初陣じゃなくても年齢入れる場合もある。 ちなみにな、義茂の「生年17」、実は「おいおい」なんだ。 義盛・義茂の父である杉本義宗が亡くなったのは1164年の1月。 当時の年齢は数え年なだから、衣笠城合戦の時(1180年)生年17だとちょうど満年齢は16歳で、1164年生まれになってしまう。 ん? ならギリギリ生まれてる可能性があるって? 実はな、義茂の下に弟だけでも5人ぐらいいるんだ。 だから義

          武士が名乗りを上げるシーンで「生年十七歳」と言っているのが何度も出てきました。年齢は申告(?)しなければいけないルールだったのでしょうか?