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プレイステーションをプレイするのはきっと、「楽しい」んだろうなぁ。


僕は「プレイステーション」をプレイしたことがない。
…というと語弊があるかもしれないが、歴代のプレステが家には一切ない。
たまに友人の家で遊んだことはあるが、それでもコントローラーの使い方が分からないので、適当に乱打することで終わるのだ。

今日、プレイステーション5が発売された。
けれどなぜ、スマートフォンやタブレットなど、あらゆる端末が溢れる現代にあって、専用のハードを重ね重ねリリースするのだろう。

最近、「楽しいことないかな」と口にすることが多くなった。
この際だから白状すれば、特定の人間関係と、決まったルートを行き来するだけのルーティンワークに心底、飽き飽きしている。
コロナ禍の影響もあるだろう。
外に出ること、誰かと会うこと、己の思うがままに行動することに、いつしかみえない制限が加わった。
自覚するしないに関わらず、日常に横たわっていた自由がひとつひとつ手の届かないものになったような気がする。

このコロナ禍で、植物を手にする人が世界的にも増えていると聞く。
幸いにも、僕は植物を育てることが趣味で、仕事も植物関係だ。

けれど僕の場合、単純に植物を育てることが楽しいのではなく、植物に付随する、いわば「付録」や「おまけ」のような事柄に強い関心を持って植物に打ち込んでいたということに気が付いた。
簡単に言えば、植物を育て上げて、咲いた花をSNSや知人に紹介して自慢する。
承認欲求を果たすことがすなわち、植物を楽しむことになっていた。
しかもたちが悪いことに、それを行うがために、あらゆる場所に行き、他人と自らの植物を比較し、植物の「相場」を確かめないと気が済まない。
さらに、あらゆるひとの意見をきき、自らの「植物感」を醸成し、軌道を修正する。
その繰り返しのなかで自分は植物を育てることが趣味だ、植物と戯れて楽しんでいると「思い込んで」いたのだ。

つまり、自分のなかで完結できる趣味…のようにもみえるが、もはや園芸はそういうフェーズにはない。
園芸を通したコミュニケーションや、承認欲求のための無自覚なマウンティング(?)などを通さない限りは昇華できない。
自分のいまいる場所がみえない。
評価基準が見えないから満足できない。
もっといえば、そういう状況になってしまった以上、後戻りはできないよね、ということ。
多かれ少なかれ、他者の介入がなければ「楽しい園芸」に打ち込むことは、もうできないのだ。
少なくとも僕にとっては。

けれど、逆に考えれば自分一人で完結できる趣味のほうが少ないことにも気が付いた。
ピアノやギターは聴かせるひとがいるからこそ成り立つし、サッカーやバレーなどのスポーツはそもそもひとりじゃできない。
ランニングだっていまや、スマホの向こうの誰かと一緒に記録を更新するのが目的だったりする。

けれどそれが趣味を持続するモチベーションになっていたり、次へのステージへと進む原動力にもなり得る。

じゃあ、ゲームは?って考えると、ゲームこそ見えない誰かとのコミュニケーションがメインだろう。
相手は現実に存在するユーザーかもしれないし、コンピューターかもしれない。
しかもその世界のなかでは、相手を助けたり、殺したりもできる。
そんな、あまりにも非現実なことを体感したいがために、ひとはゲームにのめりこむのだと思う。

そして今日考えたこと。

ハードを改修することによって、ゲームへの没入感を一層高めることをソニーは目指しているのでは?…と。
現実と非現実の境を分断しつつも、非現実の中では現実のように振る舞う。
バーチャルな世界のはずが、ものすごくリアルで、しかも緻密な物語がそこには構築されている。
あたかも夢の中にあって、その世界は夢か現実か分からないような感覚…。
そんな世界観をスムーズに体感できるようにあらゆる技術を集積したのがプレイステーション5なのだろう…。
使ったことないけど。

そう。
没入感。
あらゆる情報が氾濫し、気が付けばスマホを手に取り、雑多な情報が横溢する現代。
そんな情報をまずはカットし、ゲームという世界にのめりこむための「場」がプレイステーションというハード。
で。
その物語を構築するのが各種ソフト。
だから僕は、プレイステーションが生活のなかで消費者から奪い取る「時間」をどう考えているのか気になる。
震えるコントローラーがtwitterやtictokに勝てるのか?
何かを「買う」という刺激と「敵を倒す」という刺激のどちらが文字通り刺激的なのか?
バーチャルという現実のような非現実を操作することはどの程度の快楽を伴うのだろうか?
そして「楽しさ」は誰かのつくった「楽しすぎる」に吸収されていくのでは?
脳が喜ぶ刺激が人工的にかつ合法的に作り出されて、追及され、商業として発展する。
何の提案もない「楽しさは消費者におまかせ!」状態の商品は刺激が少なく、アドバイザーもいないから難解なために見向きもされなくなるのでは?
自分で楽しさを見つける作業って、結構めんどうくさいし。

とにもかくにも、こうしたバーチャルな世界がますますリアル化してくると、現実がなんとも陳腐化してくる。
僕らはリアルに生きているはずなのに、人間の生き死になんてリアルそのものであるはずなのに、その境界が薄らいでいく先には何があるのだろう。

とりあえず、他人の植物をねちっこく批評しているほうが、まだリアルだよね(笑)。


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