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【沖縄戦:1945年3月14日】久米島で住民「義勇隊」が結成される 米軍機が金武湾で訓練中の第22震洋隊を攻撃する

「一木一草トイヘトモ之ヲ戦力化スヘシ」

 第32軍牛島司令官は、1944年8月の軍司令官着任後、「現地自活ニ徹スヘシ 極力資材ノ節用増産ニ努ムルト共ニ創意工夫ヲ加ヘテ現地物資ヲ活用シ一木一草トイヘトモ之ヲ戦力化スヘシ」と訓示している。そしてその訓示どおり、第32軍は沖縄で飛行場建設などに多数の住民を動員し、また食糧や家畜、家屋や土地などあらゆるものを軍に供出させた。なかには軍が家屋を接収し、母屋を「慰安所」として供出され、家族はその横の台所で寝起きしていたといったケースまである。
 また兵役や防衛召集による兵士としての戦場への動員、さらには義勇隊、救護班、炊事班など兵士以外のかたちでも軍は住民を戦場に動員した。こうした動員は「根こそぎ動員」ともいわれ、第32軍はまさしく「一木一草トイヘトモ之ヲ戦力化」したのであった。
 第32軍は1945年3月、通算3度目の大規模な防衛召集を行うが、同時に義勇隊、救護班、炊事班といったかたちでの住民の戦時動員も拡大させた。防衛召集は、一応は防衛召集規則にのっとったものであるが、義勇隊、救護班、炊事班としての動員に法的根拠は存在しない。それでも老若男女問わず戦場に動員されていった。久米島の具志川村役場ではこの日、義勇隊の結成式がおこなわれるが、これなどもそうした「根こそぎ動員」の一つといえる。
 義勇隊への召集は、主に地区の区長を通じて行われたが、米軍が上陸し第32軍の敗退がはじまると、軍はその場にいる者を誰であろうと義勇隊として徴発し、軍務を課した。義勇隊の一部は、当初より射撃訓練などが施され、実際に直接的な戦闘を強制させられている。戦局が悪化すると、「地形に詳しい」といった理由でむしろ住民が最前線に立たされることもあった。
 また救護班や炊事班は少女を含む女性が動員されたが、伊江島女子救護班のように、戦闘が激化すると救護班でも弾薬運搬なども担わされ、最後は急造爆雷を背負い米軍戦車への自爆攻撃を強制させられる事例もあった。

米軍機による第22震洋隊への攻撃

 この日、金武湾で海上特攻訓練中の海軍第22震洋隊(豊廣稔隊長)は、偵察中のB-24の攻撃をうけ、隊員19人が戦死し特攻艇10隻、大発1隻が沈没した。
 豊廣氏は戦後、『金武町史』第2巻戦争・証言編で沖縄戦時の出来事を証言している他、NHK戦争証言アーカイブスにおいても証言しており、この日の米軍機による攻撃についても触れている。ご覧になっていただきたい。

豊廣稔さんの証言:NHK戦争証言アーカイブス

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特攻艇と特攻艇秘匿壕 米軍の解説によると「金武町の南にある日本軍特攻艇基地」とあり、あるいは第22震洋隊と何らかの関わりがあるかもしれない:沖縄県公文書館【写真番号73-37-3】

硫黄島の戦い

 硫黄島ではこのころ、栗林兵団長ひきいる硫黄島守備隊が北拠点を中心に抵抗を続けたが追いつめられ、彼我の前線は50メートルから200メートルの距離で激戦を繰り返したが、13日には天山地区が奪取され、同地区の残存守備隊は同夜斬込みを敢行し壊滅した。
 天山地区の喪失により北拠点の左地区の防備が薄弱となり、この日から15日にかけて約2個連隊の米軍が北拠点の左側背後に迂回滲透し、その一部は海軍部隊司令部の洞窟の東方約100メートルに接近、戦車による火炎攻撃やナパーム、空中爆雷を集中した。また洞窟の空気孔から爆破攻撃を加えるなどし、多大な損害を強いた。
 北拠点の右地区を守備する歩兵第145連隊池田連隊長は、3月5日ごろの戦闘で重傷を負い、指揮所を北集落西方の工兵隊本部の洞窟に移動していたが、ついにこの日夕方、将兵の前で軍旗を奉焼した。15日夜には海軍市丸司令官以下海軍司令部が栗林兵団長の司令部に合流するなど、北拠点の戦闘は最後の関頭に直面しつつあった。
 この日夕方の北拠点の残存戦力は約900人、内海軍200人にまで低下していた。

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『伊江村史』下巻
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・河合正廣「陸軍の防衛召集制度とその実態について─沖縄における防衛召集─」(防衛研究所『戦史研究年報』第3号、2000年)
・戦史叢書『中部太平洋陸軍作戦』

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小禄半島の日本軍の地下陣地にあった調理場 レンガ造りのしっかりしたかまどが確認できるが、ここでも女子炊事班が動員されたと思われる:沖縄県公文書館【写真番号91-24-1】