棒兵隊

沖縄戦の日々の出来事を発信しています。記事内容は毎年更新し、増補・充実させています。特…

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沖縄戦の日々の出来事を発信しています。記事内容は毎年更新し、増補・充実させています。特に女性や子ども、アジアの人々にとっての沖縄戦を考えたいです。ヘッダー画像は1945年4月1日沖縄島に上陸する米軍(沖縄県公文書館所蔵)。

最近の記事

【沖縄戦:1944年12月11日】「国軍創設以来初メテノ不祥事件」「当軍ノ戦力半減セリ」─沖縄県営鉄道稲嶺駅付近で弾薬輸送列車の爆発事故おこる

弾薬輸送列車の爆発事故 この日午後3時30分前後(午後4時30分前後とも)、当時沖縄にあった沖縄県営鉄道(沖縄県鉄道、軽便鉄道)の稲嶺駅近くの神里集落付近(現在の南城市大里稲嶺と南風原町神里の境界付近)において、軍の燃料や弾薬を大量に積載していた輸送列車が突如爆発し、軍民あわせて200人以上の死者と多数の負傷者を出す大事故が発生した。  事故の経緯は次のとおりである。  このころ沖縄中部に配備されていた第24師団は、配備変更により沖縄南部への移動を進めていた。これに関連して

    • 【沖縄戦:1945年2月7日】米軍、沖縄来攻の算あり 戦時行政に移行する沖縄県 「結婚は中止せよ」─女子挺身隊の動員

      連合艦隊の通報 第32軍は昨年末よりこの年このころまで、第9師団の抽出にともなう配備変更に忙殺されていた。  例えば中頭地区、伊江島を含む本部半島、再び中頭地区と配備変更を繰り返してきた独立混成第15連隊は、このころ現在の南城市に配備され、陣地を構築していたが、同連隊のこのころの陣中日誌には、「昼夜ニ亘リ自動貨車ニヨリ山砲及弾薬ヲ輸送」、「自動貨車一ヲ以テ渡久地残置ノセメント及弾薬ヲ輸送ス」、「各隊夜ヲ徹シ戦闘配置ニ就キ尚昼夜兼行陣地構築」などとあり、まさに日々配備変更、陣地

      • 【沖縄戦:1945年2月6日】天号作戦の大陸命が発せされる─沖縄方面航空特攻作戦は「沖縄救出」のためのものなのか

        天号作戦と航空特攻作戦天号作戦   本土決戦を控えるなかで打ち出された「帝国陸海軍作戦計画大綱」は、つまるところ本土決戦の前段階の作戦であり、本土を防衛し、本土に侵攻する敵兵力に少しでも損害を与えるための本土前縁作戦であった。その作戦計画大綱においては、東シナ海での航空作戦が想定されていたが、この作戦は「天号航空作戦」(天号作戦)と呼称され、天号作戦こそは作戦計画大綱の第1着手であった。  なお、天号作戦は、沖縄方面での航空作戦を天1号作戦、台湾方面での航空作戦を天2号作戦な

        • 【沖縄戦:1945年1月31日】島田叡知事、沖縄に着任─県民を思いやることと軍に協力し戦争を遂行すること

          島田知事の沖縄着任 1月12日、泉守紀沖縄県知事が香川県知事に、島田叡大阪府内政部長が沖縄県知事にそれぞれ任命され、泉知事は17日に香川に、島田知事はこの日、空路で沖縄に着任した。  島田知事は1901年(明治34)に神戸の須磨に生まれ、旧制三高や東京帝大で学び、内務官僚として千葉県総務部長、愛知県警察部長などの要職を歴任した。島田知事は43歳の若き知事だが、驕ったところがなく、非常に優しく、人当たりも丁寧だったといわれる。なお島田知事は旧制三高時代、野球部に所属しており、そ

        【沖縄戦:1944年12月11日】「国軍創設以来初メテノ不祥事件」「当軍ノ戦力半減セリ」─沖縄県営鉄道稲嶺駅付近で弾薬輸送列車の爆発事故おこる

        • 【沖縄戦:1945年2月7日】米軍、沖縄来攻の算あり 戦時行政に移行する沖縄県 「結婚は中止せよ」─女子挺身隊の動員

        • 【沖縄戦:1945年2月6日】天号作戦の大陸命が発せされる─沖縄方面航空特攻作戦は「沖縄救出」のためのものなのか

        • 【沖縄戦:1945年1月31日】島田叡知事、沖縄に着任─県民を思いやることと軍に協力し戦争を遂行すること

          【沖縄戦:1945年1月27日】「軍の指導を理窟なしに受け入れ、全県民が兵隊になることだ。一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」─第32軍長勇参謀長が紙上談

          第32軍参謀長の紙上談 この日、当時の沖縄の地元紙である「沖縄新報」紙上に、第32軍長勇参謀長の紙上談が掲載される。長くなるが、以下紹介したい(引用にあたっては、文意を崩さぬ範囲で最小限度で句読点を補った。また若干意味の取りづらい部分もあるが、そのままとした)。  非常に長い記事なので重要な部分だけを引用したが、戦況緊迫するなかで県民の士気を鼓舞するため多少乱暴で極端な物言いをしていると考えたとしても、軍参謀長の紙上談からは、軍の指導を理屈なしに受け入れ、全県民が兵隊となっ

          【沖縄戦:1945年1月27日】「軍の指導を理窟なしに受け入れ、全県民が兵隊になることだ。一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」─第32軍長勇参謀長が紙上談

          【沖縄戦:1945年1月20日】「帝国陸海軍作戦計画大綱」が上奏裁可─「出血消耗」を強制する「捨て石」としての沖縄

          帝国陸海軍作戦計画大綱が上奏裁可される 1944年(昭和19)12月、フィリピン・レイテでの「決戦」が挫折し、フィリピン方面作戦は決戦から持久戦へ方針転換となった。これにより大本営はついに、来たるべき戦場は「本土」(以下、煩雑となるのでカッコをはずす)であるとして、最後の決戦、すなわち本土決戦を志向し、作戦準備に取りかかることになった。  大本営陸軍部は海軍とも調整を重ね、1945年1月中旬ごろには本土決戦に向けた作戦の大綱である「帝国陸海軍作戦計画大綱」(以下「作戦計画大綱

          【沖縄戦:1945年1月20日】「帝国陸海軍作戦計画大綱」が上奏裁可─「出血消耗」を強制する「捨て石」としての沖縄

          【沖縄戦:1945年1月13日】「軍神」とされた青年─大舛松市大尉の三回忌と「死の号令」としての大舛顕彰運動

          大舛大尉の三回忌 1943年(昭和18)1月13日にガダルカナル島(ガ島)の戦いで戦死した沖縄の与那国島出身の大舛松市大尉(戦死時の階級は中尉、死後大尉に昇進)の三回忌(没後2年)である1945年1月13日、沖縄では大舛大尉の追悼式や顕彰行事がおこなわれた。  沖縄県護国神社ではこの日午後2時、沖縄県や大政翼賛会沖縄県支部、沖縄武徳顕彰会が主催した大舛大尉三回忌の祭事が行われ、那覇や首里の中等学校生徒らが参列した。その後には大舛精神実践学徒宣誓式が行われた。宣誓式では県や翼賛

          【沖縄戦:1945年1月13日】「軍神」とされた青年─大舛松市大尉の三回忌と「死の号令」としての大舛顕彰運動

          【沖縄戦:1945年1月1日】B-29来襲─元旦の沖縄に鳴り響く空襲警報 「一億すべてが特攻隊員たるの実を示さう」─“決戦”に向けて緊張状態で迎えた沖縄の新年

          1945年1月1日の沖縄 1945年(昭和20)1月1日、新年を迎えた沖縄は、”決戦”に向けた緊張状態にあった。  前日の大晦日には、沖縄新報に荒井退造沖縄県警察部長による「浮かるなお正月 県民の自粛要請」との訓戒が掲載された他、西表島や与那国島が空襲に見舞われ、沖縄島上空にもB-29が現れ偵察飛行するなどの動きがあった。  大晦日には県会(県議会)も開会された。B-29の偵察飛行による空襲警報の解除直後の開会ということもあり、議場には鉄兜や非常袋が置いてあるなど「敵前県会」

          【沖縄戦:1945年1月1日】B-29来襲─元旦の沖縄に鳴り響く空襲警報 「一億すべてが特攻隊員たるの実を示さう」─“決戦”に向けて緊張状態で迎えた沖縄の新年

          【緊急開催】ひやみかち!! 首里城再建チャリティ―講演会のご案内

          首里城再建チャリティー講演会「琉球・沖縄と首里城」 10月31日未明、琉球王国の王城であり、戦前は国宝にも指定されていた沖縄の象徴ともいえる「首里城」が火災に見舞われ、正殿など各御殿や収蔵されていた貴重な文化財が焼失してしまいました。  一方で募金活動など沖縄はじめ全国で首里城再建に向けての取り組みも始まっています。  本チャリティ講演会では、多年に渡り奄美・沖縄の来訪神やノロ・ツカサの信仰と祭祀の調査、琉球王国の史書から歴史伝承の生成など琉球・沖縄について研究されている

          【緊急開催】ひやみかち!! 首里城再建チャリティ―講演会のご案内

          【沖縄戦:1944年11月4日】第9師団の台湾移転─台北会議によりレイテ決戦のため沖縄から兵団抽出 戦力削減と本格化する住民の「根こそぎ動員」

          レイテ決戦と各兵団の用兵 このころの沖縄の第32軍は、十・十空襲での米軍の猛攻撃により多大な損害を出したものの、全体としてはおおむね所望どおりの兵力を得て、南西諸島一帯への部隊配備も進み、沖縄島で米軍と一大決戦に臨むとの決戦主義の方針を固めていた。  他方、大本営は、フィリピンでの米軍との決戦(捷1号作戦)を志向し、10月下旬にはフィリピン・レイテで地上戦が始まる(レイテ決戦)。大本営は付近のルソン島や台湾の兵力をレイテに投入し、その穴埋めとして部隊を満州などから補充するなど

          【沖縄戦:1944年11月4日】第9師団の台湾移転─台北会議によりレイテ決戦のため沖縄から兵団抽出 戦力削減と本格化する住民の「根こそぎ動員」

          【沖縄戦:1944年10月10日】十・十空襲─予期されていた空襲と背後で展開された情報戦 「婦女子は凌辱せらるゝ等、軍紀は全く乱れ居り」─空襲後の第32軍の軍紀の乱れ

          南西諸島全域への空襲 この日朝6時40分ごろから午後3時45分ごろまで、沖縄東南沖に展開する米海軍第3艦隊の第38高速空母機動隊(マーク・A・ミッチャー司令官)の空母計17隻から発艦した艦上戦闘機や爆撃機延べ約1400機が、奄美諸島から沖縄島、先島諸島までの南西諸島全域を計5波9時間にわたり、非戦闘員や非軍事施設の別なく無差別に空襲した。死者は非戦闘員含め少なくとも668人、負傷者は768人におよぶ。  この米軍の無差別空襲は、十・十空襲(10・10空襲)、南西諸島空襲、南西

          【沖縄戦:1944年10月10日】十・十空襲─予期されていた空襲と背後で展開された情報戦 「婦女子は凌辱せらるゝ等、軍紀は全く乱れ居り」─空襲後の第32軍の軍紀の乱れ

          【沖縄戦:1945年9月7日】沖縄戦降伏調印式 久米島の海軍鹿山隊の投降 沖縄戦の「終結」はいつなのか

          沖縄戦の正式な降伏調印式 この日午前11時30分、越来村森根(現在の嘉手納飛行場内)の米第10軍司令部前の広場において、南西諸島の日本軍が降伏する沖縄戦の正式な降伏調印式がおこなわれた。  正確にいえば第32軍の降伏ということになるのだろうが、すでに第32軍は壊滅しており、また第28師団など宮古・八重山諸島の第32軍隷下兵団は台湾の第10方面軍隷下となっていることから、南西諸島の日本軍部隊の降伏というべきものだろう。  降伏調印式には、日本軍を代表し宮古の第28師団長納見敏郎

          【沖縄戦:1945年9月7日】沖縄戦降伏調印式 久米島の海軍鹿山隊の投降 沖縄戦の「終結」はいつなのか

          【沖縄戦:1945年9月3日】白石信治大尉以下沖縄北部の海軍部隊約200名、米軍に投降─住民虐殺・食糧強奪を繰り返した海軍部隊

          海軍部隊の投降 この日朝10時ごろ、現在の名護市の嵐山を拠点に遊撃戦を展開していた海軍沖縄方面根拠地隊第27魚雷艇隊司令白石信治(信次とも)大尉以下約200名の海軍部隊が、同じく名護市古我地において米軍に軍刀や軍旗を返納し、投降した。  降伏式は30分程度のものであり、部隊の兵員はただちに米軍のトラックに乗せられどこかへ連行された。おそらく屋嘉収容所に連れていかれたものと思われる。 降伏式に臨む海軍部隊 こちら側を向いている集団(降伏する海軍部隊)の中央で軍刀のようなものを

          【沖縄戦:1945年9月3日】白石信治大尉以下沖縄北部の海軍部隊約200名、米軍に投降─住民虐殺・食糧強奪を繰り返した海軍部隊

          【沖縄戦:1945年8月29日】「天皇陛下の命により米軍の方に行く」─歩兵第32連隊約300名が米軍に投降 第1回沖縄諮詢会開催

          生き延びた歩兵第32連隊 第32軍が首里司令部を放棄し南部へ撤退して以降、第24師団歩兵第32連隊(北郷格郎連隊長)は摩文仁司令部防衛線の左翼の守備を担っていた。具体的には現在の糸満市の国吉台地と同東側地区、そして真栄里東側を陣地として占領し、洞窟などを拠点としていた。  米軍の南下に伴い、同連隊第1大隊が拠点とする国吉台地の洞窟陣地は6月15日から、連隊本部や第3大隊が拠点とする真栄里東側の洞窟陣地は18日から米軍の馬乗り攻撃をうけるようになった。部隊は米軍の爆薬攻撃や火炎

          【沖縄戦:1945年8月29日】「天皇陛下の命により米軍の方に行く」─歩兵第32連隊約300名が米軍に投降 第1回沖縄諮詢会開催

          【沖縄戦:1945年8月24日】慶良間の日本軍の投降 「米軍上陸の場合は朝鮮人を皆殺しにした方がよい」─慶良間に連行された朝鮮出身者と日本軍

          海上挺進戦隊の投降 この日、慶良間諸島渡嘉敷島の海上挺進第3戦隊が米軍に降伏、武装解除した。同諸島阿嘉島の同第2戦隊も前日23日に武装解除している。  米軍の沖縄上陸以前、第32軍は慶良間諸島への米軍の上陸はなく、沖縄中部の西海岸へ直接上陸するという戦略的判断をおこなっていた。そのため慶良間諸島に特攻艇部隊である海上挺進戦隊を配備し、西海岸に上陸する米船団の背後を襲う作戦を立案し、慶良間諸島の座間味島に海上挺進第1戦隊(戦隊長:梅澤裕少佐)、慶留間島および阿嘉島に同第2戦隊(

          【沖縄戦:1945年8月24日】慶良間の日本軍の投降 「米軍上陸の場合は朝鮮人を皆殺しにした方がよい」─慶良間に連行された朝鮮出身者と日本軍

          【沖縄戦:1944年8月22日】「ガンバレ、救助手配スル」─対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没する

          対馬丸の沈没 那覇港を21日に出港し、長崎に向けて航行中の陸軍徴用貨物船「対馬丸」(日本郵船、6754トン)がこの日夜10時過ぎ、トカラ列島の悪石島から北西約11キロの海上で米潜水艦「ボーフィン」による魚雷攻撃をうけ沈没した。  対馬丸には疎開のため乗船していた沖縄各地の国民学校の学童ら1788人が乗っていたが、この米軍の攻撃により1482人が犠牲になった。そのうち学童の犠牲は784人であった。  ただし、これら乗船者数や犠牲者の数は現在判明している数字であり、確定したもので

          【沖縄戦:1944年8月22日】「ガンバレ、救助手配スル」─対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没する