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【沖縄戦:1945年4月24日】米軍、第一防衛線を制圧 国頭支隊、撤退先のタニヨ岳を放棄しさらなる敗走

首里戦線の戦況

 これまで首里司令部第一防衛線の守備を担ってきた第62師団の第二防衛線への撤退は、この日朝までにはおおむね完了した。南部島尻方面から第二戦線への北方転回を命じられた第24師団も、この日には逐次第二防衛線の陣地についた。
 米軍は第32軍各隊の第一防衛線からの撤退にともない、この日には嘉数、西原、棚原、157高地付近に進出してきた。安波茶、宮城方面では終日戦闘がつづき、宮城、屋富祖付近の部隊は大きな損害をうけながらも陣地を確保した。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報告している。

一 敵ハ我カ好防ニ相当ノ打撃ヲ蒙リ若干地区進出ニ成功セルモ更メテ爾後ノ攻撃ヲ準備中ナルカ如ク局部的戦闘ヲ交ヘタル外敵ノ積極的攻撃ヲ見ス
  当面ノ敵第一線兵力戦車九〇、歩兵五、五〇〇内外ト判断セラル
二 軍ハ予定ノ如ク戦線ヲ整理中ナリ
三 来襲機数 本島一四機
四 一七〇〇ノ艦船状況
 嘉手納沖 戦艦五、巡洋艦四、駆逐艦五、輸送艦五二、他一五
 湊川沖 巡洋艦一、駆逐艦二、掃海艇一
 糸満沖 駆逐艦三、上陸用艇一
 中城湾 戦艦一、巡洋艦二、駆逐艦三、掃海艇二〇
五 慶良間泊地ハ水上機基地竝ニ艦船(特ニ修理)泊地トシテ使用シアリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 後に沖縄学の泰斗といわれる外間守善氏はこのころ、第24師団の歩兵第32連隊第2大隊(志村大隊)の初年兵として南部にいたが、同師団の北転により外間氏も第二防衛線に移動した。

 島尻にあって、焦りと苛立ちの日々を幾日送っただろうか。とうとう山部隊(第二十四師団)にも出動命令が下った。四月二十四日のことである。第一線で戦う石部隊(第六十二師団)の独立歩兵第十二大隊を掩護するために中部戦線に移動するのだ。眠れなかった入隊前夜と違って今度ははっきりと自分の死を覚悟した。私は何人かの戦友と一緒に束辺名集落の一隅に遺書と爪を埋めた。六十キロといわれる完全軍装を慌ただしく整えるとその重さがずしりと肩にくい込んだ。
 絶え間なく砲弾の轟く中、第三十二歩兵連隊全員が集結し、薄暮の中で大隊ごとに行進が始まった。総勢二八〇〇人の出陣である。私は山城集落の広場で志村大隊の出発をじっと待った。誰も彼も口を結んだままで、鉄兜の下の眼だけがギラギラと光っている。無気味なほどに緊張した空気に包まれたまま隊列は、北へ北へ行進を始めた。ふと気づくと和田中隊長の姿が見えない。流れに逆行しながら和田中隊長を探す私に、すれ違う隊列の中から「守善!」と呼ぶ声が聞こえた。振り向くと同じ志村大隊の大隊砲小隊に配属された八重山出身の学友、宇根永吉君だった。抱きついて懐かしがる宇根君と、しっかり手を握り合って互いの健闘を約して忙しく別れる。

(外間守善『私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言』

 また第32軍八原高級参謀は各兵団の北方転回について次のように回想している。

 各兵団の機動新配置は、夜暗を利用しつつ実行し、第二十四師団は四月二十四日朝までに、混成旅団もまた、ほぼ同時ごろまでに、概ねこれを完了した。これらの行動は、夜間といえども絶え間ない海陸よりする敵の砲撃下に行なわれたので困難を極め、時日も要したが、損害は予想外に少なかった。損害は、むしろ機動間より機動後拠るべき洞窟陣地もなく、態勢整わぬうちに夜が明けた場合の方がはるかに多かったようである。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 上述の通り、米軍はこの日、第一防衛線全線に攻勢をかけ、各陣地を制圧するとともに、日本軍の第一防衛線からの撤退を把握した。米軍戦史は、この日の第32軍の撤退の前後の戦況について、次のように記している。

 四月二十四日の朝がきた。前夜の異常にはげしかった日本軍の砲撃で、夜明け前はいつもより暗く雨さえ降っていた。十三分間にわたる予備砲撃をくわえたのち、ブラドフォード特攻隊[嘉数高地占領のための米軍攻撃隊]は、午前七時三十分、攻撃を開始した。嘉数陣地をかちとらねばやまぬという決意も固く……。しかし、刃向かう敵はいなかった。日本軍は夜のうちに陣地を退いていたのだ。二時間もたたぬうちに米軍の全大隊は目的地に到着した。
 午後になって、第九六師団と第二七師団の配属大隊は、浦添丘陵のふもとの師団境界線付近に塹壕を掘り、陣地を固めたが、それは四月十九日いらい、はじめて密接な連絡をとり得たものであった。激しい戦闘も終わって、四月二十四日と二十五日、嘉数地区を調べることができるようになってから日本軍の死体をかぞえてみたら、六百の死体が発見された。
 しかし米軍は、四月十九日の夜から二十二日にかけて嘉数地区を攻撃したが、この戦闘ほど日本軍に悩まされたことはなかった。それにしても、彼らがここで米軍を負かしながら、戦況を有利に導くことができなかった最大の原因は、日本軍の歩兵予備軍がほとんど南部に移動していたからである。四月十九日に行われた港川での上陸陽動作戦が、日本軍をこの運命にみちびいたのだといえよう。
  [略]
 四月二十三日の夜から二十四日にかけて、濃い靄が、やがて深い霧に変わって、沖縄南部をつつんだとき、日本軍砲兵はしだいに砲撃度を増し、全前線に対して猛烈な砲火をあびせてきた。夜も明けないうちに米軍前線部隊は、少なくとも一千回の砲撃にさらされたのである。二十四日の朝が明けるにつれ、日本軍はこの弾幕と、夜のうちに降りてきた濃い霧を利用して、首里第一防衛線から撤退したことが明らかになった。
 米軍が四月十九日に攻撃を開始していらい、五日間というもの、日本軍は死物狂いで戦った。そして米軍の進撃を、日に一メートルしか許さず、ところによっては、たとえば嘉数などでは、いささかも米軍の進撃を許さなかった。
 だが、四月二十三日までに日本軍の防衛戦はあっちで敗れ、こっちでくずれ、ついに多くの崩壊線を出し、しかも残った陣地の痛手はひどく、まったく使用にたえなくなったため、こういう陣地に永らくたてこもっても不得策だと思って、早々に撤退したのである。前線の日本軍将兵がいかに落胆し、また何に望みを託していたかは、嘉数──西原戦線で戦った日本軍の一兵隊のつぎの日記によっても明らかにされている。四月二十三日、米軍が最後の攻撃を試みた日、彼は次のように綴っている。
「敵上陸以来、すでに一と月になんなんとするも、熾烈なる戦闘まだ昼夜を分かたず。敵の物量は驚くべきほどなり。わが軍一発撃てば、敵は少なくとも十発をもって報いること必定なり。友軍機ついに一機も機影を見せず。もし飛行機われにあらば、たちまちにして勝利を収めん。ああ飛行機!」
  [略]
 四月二十四日におしよせた米軍前線の大攻勢は、宜野湾のアイテム・ポケット[現在の浦添市城間付近]地帯をのぞいては、いたるところで日本軍の首里第一防衛線の崩壊をもたらした。日本軍はつぎの首里防衛線まで後退し、米軍をして、一歩進めばそれだけ犠牲をはらわせる戦闘を、ふたたびくりかえし得るような用意をととのえていた。
二十四日、第二四軍団長のホッジ少将は、各師団長に対して無線電話で、
「本日の戦況は、敵がこれまで死闘をつづけてきた陣地を放棄し、兵を撤退せしめたものと思われる」と連絡し、さらに偵察を強化して日本軍の新たな散兵線をさぐるようにとの命令を下した。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

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ガマに隠れていた20人の日本兵を単独で拘束したジョー・グイジ 日本兵は全員手榴弾を持っていた 45年4月24日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-39-4】

敗走をつづける国頭支隊

 村上隊長率いる第3遊撃隊(第1護郷隊)が名護方面での遊撃戦展開のため23日にタニヨ岳を出撃し、同隊第2中隊菅江中隊長以下の一隊がタニヨ岳の拠点防衛にあたったことは既述の通りである。村上隊長はこの日、名護周辺の情報を収集し、夜10時ごろ名護町東方の攻撃拠点に進出した。
 またタニヨ岳に撤退した国頭支隊宇土支隊長は、タニヨ岳防衛に当たったが、兵員は相当にあったものの、武器も充分にはなく、実質は敗残兵であり士気も衰えていた。
 米軍はこの日、タニヨ岳に猛砲撃をくわえるとともに、各方面から攻撃・前進し、支隊と至近距離でにらみ合いとなった。村上隊長からタニヨ岳の死守を命じられていた菅江敬三中隊長は奮戦したが戦死し、宇土支隊長はこの日夜、タニヨ岳を放棄しやんばる奥深くへ敗走を開始した。
 『名護市史』本編3は、このころの宇土支隊長の手記の次のような一節を引用、紹介している。なお、この宇土支隊長の手記とは「沖縄国頭支隊関係聴取資料」(防衛研究所【沖台】157)所収の宇土支隊長の手記のことと思われる。

島尻、中頭方面より北上する土民はもとより、戦線よりの兵は武器を携帯するもの一名もなく、我隊に来ては食糧を乞うのみならず、畑の「イモ」を掘り尽くし食いあらし、国頭支隊の食糧どころの話にあらず

(『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄)

 宇土支隊長は「敗走」とはいわず、「遊撃戦」との名でタニヨ岳を放棄しやんばるへ向かったが、食べることもままならず、思考も食糧確保が第一であり、遊撃戦など不可能であったことが読み取れる。そして土民といった言葉から、宇土支隊長が一般住民をどのように見ていたのかも読み取れる。

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伊江島の収容所で米軍にシラミ退治の薬品DDTを噴霧されている住民 45年4月24日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-38-3】

宇垣纒の日誌より

 沖縄方面航空特攻作戦を展開していた海軍の第5航空艦隊宇垣纒司令長官のこの日の日誌には次のように記されている。

四月二十四日 火曜日 〔半晴〕
  [略]
 三月二十五日以来の飛行機消耗未帰還六二〇、地上被害八〇、指揮下現在総数六一〇、可動三七〇、と概略算せらる。
 本月国内生産海軍六〇〇、陸軍四〇〇程度と聞きては大なる補充も期し難し。飛行機できるも燃料なければ結局は同じ結果に陥るのみ。
 ベルリン市内に赤軍ついに侵入せり。ヒットラーはなお同市にありて激励を続くるも所詮は運命とぞ知る。ボルセビイキを一掃せんとして反りてそのために滅ぶ。

(宇垣纒『戦藻録』下巻、PHP研究所)

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米艦船デグラーシ上での陸海軍ステージショー 伊江島へ移動中の第318戦闘機群 45年4月24日撮影:沖縄県公文書館【写真番号16-18-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦

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米軍の沖縄攻略戦の司令官だったバックナー中将とこれを迎えるホッジ少将 45年4月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号105-11-3】