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【沖縄戦:1945年5月13日】首里司令部攻防戦つづく 警察特別行動隊の沖縄脱出 「沖縄からの本土爆撃」─海兵隊航空部隊が奄美諸島を空襲

首里司令部西方の戦況─シュガーローフの戦いへ

 首里司令部西方の真嘉比、安里、天久台地区はこの日早朝から砲爆撃に支援された戦車を伴う強力な米軍の攻撃をうけた。
 天久台を防衛する独立第2大隊、機関砲第103大隊などは抵抗をつづけたが、天久台上は完全に米軍に占領され、独立第2大隊長古賀宗市少佐以下残存兵員は洞窟陣地に拠って夜間斬込みをおこなった。
 真嘉比北西に陣地を構えていた戦車撃滅隊(独立混成第15連隊工兵中隊長北村公大尉率いる二個工兵小隊など)は、北村隊長以下ほとんどが戦死し陣地は突破された。
 独立混成第15連隊の第一線大隊である第2、第3大隊も多大の損害をうけたが、独立混成第44旅団砲兵隊や臨時編成海軍砲大隊、野戦重砲兵第23連隊など砲兵の火力支援をうけながら敵を撃退した。しかし砲兵部隊は総攻撃以来、弾薬が極度に不足し、弾薬の使用が厳しく制限されていた。そのため戦闘にあって絶好の攻撃対象があっても簡単には砲撃できない状況だった。
 米軍側戦史は、この戦闘の日本軍の砲兵部隊について次のように記す。

 日本軍は残った砲兵陣をたくみに使って、安謝から安里までのあいだで海兵隊をおおいに悩ました。第四十四旅団の砲兵は、百ミリ曲射砲八門に野砲四門、それに、ときどき近くの部隊が迫撃砲や重砲で支援していた。日本軍は視界が利くことを利用して一発必中主義で、じつに的確に海兵や戦車を砲撃、あるときなどは、観測地点に立っていた数名の海兵のちょうどまん中に砲弾を命中させて、大隊長はじめ通信兵三名、戦車隊将校二名を戦死させ、三名の中隊長を負傷させたのである。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後のの激闘』光人社NF文庫)

 米軍は「一発必中主義」と日本軍の砲撃射撃を称賛するが、その言葉には、日本軍が置かれていた弾薬の残弾状況を背景とする厳しい弾薬の使用制限が見え隠れする。日本軍には、よほど狙いすまし、絶対に命中し、かつその攻撃が戦略的に意味のある対象でなければ砲撃射撃できないような、「一発必中主義」に陥らざるを得ない理由があったのである。
 なお、この日正午過ぎ、海軍の丸山大隊(大隊長、丸山友喜大尉)約570名および山口大隊(大隊長、山口勝一少佐)約500名が独立混成第44旅団長の指揮下に入った。混成旅団長は山口大隊を独立混成第15連隊に配属させ、丸山大隊を旅団直轄として繁田川(繁多川)付近に配置した。山口大隊はその後、安里52高地(慶良間チージ、シュガーローフ・ヒル)に配備された。
 この際、陸戦投入された海軍部隊の装備は、機関砲、機銃、火炎ビン、10キロ爆雷、手榴弾、枝付手榴弾、煙弾などといわれる。ただし機銃は兵員全員が携行しているわけではなく、3人で1丁程度であったという。こうした装備の状況を見ると、近代戦などけしてできるものではなく、一言でいえば爆弾を抱えて敵陣に飛び込む肉弾戦、特攻攻撃しかできなかっただろうと思われる。
 また特設第1旅団の伊藤大隊(大隊長、伊藤廣治少佐)が独立混成第44旅団に配属され、同大隊は独立混成第15連隊の隷下として同じく安里52高地に配備された。

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那覇市域に突入した米軍 米軍は幹線道路を避け、集落を進軍した 45年5月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-34-1】

その他の戦況

沢岻、大名 
 首里司令部北方沢岻高地では引き続き日米の激戦となり、同方面の歩兵第64旅団の中堅部隊であった独立歩兵第23大隊も名指揮官とうたわれた山本重一大隊長以下戦死するなど、沢岻高地は完全に米軍に制圧された。この日未明、増援のため沢岻に到着した独立歩兵第22大隊第1中隊(平井隊)も一日の戦闘で5分の1まで戦力が低下した。
 歩兵第64旅団は有川旅団長以下残存者が沢岻の洞窟に籠って抵抗をつづけた。有川旅団長以や独立歩兵第15大隊飯塚大隊長が意志強固に「ここで頑張るんだ」といって撤退しようとしなかったという。
 沢岻を攻略した米軍は大名高地に対し攻撃を開始したが、同高地の守備隊はこれを撃退した。

 さて有川旅団司令部は、五月十二日には、完全に包囲馬乗り攻撃を受け、旅団長自ら手榴弾を投じつつ、戦闘するといった悲境である。これを見殺しにするか、あるいは重囲を突破して後退させるか、重大な問題になってきた。[略]
 十三日夕方、第六十二師団参謀長から、私に電話がかかってきた。上野参謀長は、例の熱気のある早口で、「八原君、ご承知の如く、今、有川少将が馬乗り攻撃をうけている。師団長は、少将に対し、現陣地を固守して死ぬるよう、すでに親書を送られた。従来このような境地に追い込まれた指揮官は、後退を命ぜられるのが常であるのに、有川少将を、ここで見殺しにするのは情において忍びない。部下も、まだ相当数生存していることだから、なんとか救出し、今後の戦闘を続けて、指揮してもらいたい。しかし、師団長がすでに厳命を下しておられるので、自分としては手の下しようがない。軍の方で良い思案はないだろうか」という相談だ。
 こんな場合、私もまた人並みに気が弱くなる性分である。戦術理論上からして、沢岻付近を、全滅を賭してまで死守する必要はない。私は軍参謀長に、「師団長藤岡将軍の真摯にして、厳然たる処置は、師団長の立場上命ぜられたことと存じます。軍としては、この際有川将軍に後退を命ぜられるのが、適当であります」と意見を具申した。参謀長、軍司令官ともに別に拘泥される様子もなく、すぐ同意して下さった。私は大喜びで後退させる旨を、上野大佐に伝えたが、彼の喜びは私以上のものがあった。
 この夜遅く、有川将軍以下同司令部の生存者は、巧みに敵の包囲を突破し、無事首里市内に後退した。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

前田南部 
 前田集落南部では混戦が続き、米軍の沢岻高地進出により左側面が圧迫され、右側面の勝山南側にも米軍の一部が進出してきたが、陣地の大部は確保した。
 この夜、第62師団長命令により、独立歩兵第11大隊および独立臼砲第1連隊が首里北側に撤退した。
 同方面を守備する歩兵第32連隊長は、部隊を再編し、陣地を縦深横広に配備変更した。この際、第一線のある隊が戦意喪失のためか命令を誤解したのか平良町付近へ後退したため、第62師団輜重隊が不意に第一線部隊となり、米軍の攻撃をうけることになったという。
 歩兵第32連隊配属の独立速射砲第3大隊はこの日夜、次の命令を発している。

 独作命第六八号
  独立速射砲第三大隊命令 五月十三日二三五〇 平良東北方高地
一 敵ハ本朝来全面的ニ攻撃ヲ開始シ来リ各所ニ於テ戦闘ヲ惹起シツツアリ
 地区隊ハ編制改正ニ伴フ兵力増強ニ基キ部署ノ一部ヲ変更シ縦深横広ニ陣地ヲ占領シテ敵ヲ陣前ニ撃滅ヲ企図ス
 第一中隊ハ本日敵戦車一両ヲ急襲之ヲ炎上セシメタリ
二 大隊ハ現任務ヲ続行スルト共ニ益々強力ニ戦車撃滅ニ邁進セントス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

石嶺 
 石嶺東方約1キロの130高地、140高地、150高地方面(現在のゆいレール石嶺駅の東方あたりか)は、戦車を伴う有力な米軍の攻撃をうけた。同方面の歩兵第22連隊は米軍の大部を撃退したが、140高地東側200メートル付近の高地を占領された。
 石嶺地区の戦車第27連隊は側方から歩兵第22連隊に協力した。特に連隊の砲兵中隊は対米軍戦車への攻撃に威力を発揮したといわれる。

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機関銃を掃射する米兵 45年5月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-34-3】

運玉森(コニカル・ヒル) 
 これまで米軍の行動が低調であった運玉森方面だが、米軍はこの日、運玉森の北側で活発に行動した。歩兵第89連隊を中心とする守備隊は、守勢ばかりでなく米軍への逆襲も展開したが、米軍は運玉森頂上北側50メートル付近まで進出してきた。運玉森北西800メートルの100メートル閉鎖曲線高地も米軍の攻撃をうけたがこれを撃退した。
 なお、この日、海軍の勝田大隊(勝田忍大隊長)が歩兵第89連隊に配属され、与那原西方地区に配備された。

 十三日の午前十一時、バックナー中将は、メイ大佐の指揮所に姿を見せた。メイ大佐はコニカル・ヒル攻撃の機は熟したと見た。前夜、我謝、与那城に侵入してきた日本軍を片づけたF中隊は、十三日、第七六三戦車大隊B中隊の二個小隊やE中隊とともに、午前中かかってコニカル・ヒル北斜面を砲撃した。だが、コニカル・ヒル北側の突出部西面にある日本軍陣地を襲撃したG中隊は、背後にある御茶待やコニカル・ヒル自体の陣地からも猛攻撃をうけて、峰まで上がることはできなかった。
 メイ大佐は、ついに第二大隊長のモリス中佐を呼んで、E中隊とF中隊に、コニカル・ヒルを正面から攻撃させ、戦車隊は歩兵とともに丘に登らせるよう命令を下した。右翼にいたF中隊の二個小隊は、コニカル・ヒル北東にある突出部を攻め、いとも簡単に付近の丘を占領した。[略]
 ところが、ここでの日本軍の反撃がすさまじかた。塹壕を掘る間もなく迫撃砲が頭上におち、さらに午後三時二十五分ごろになると、中隊の勢力の日本軍が正面から襲撃してきた。ドニファン曹長は立ち上がって、ブローニング自動小銃で三メートルしか離れていない日本兵を撃ちまくり、弾丸がつきると、こんどは小銃をわしづかみにして撃ちまくった。
 [略]ちょうどそのとき、日本軍の砲兵陣地を探していた一機の米軍機が、上空からこれを視認して、ただちに砲兵隊に掩護射撃を要請した。
 突然、米軍の猛烈な集中砲火がはじまり、十センチ臼砲弾が丘を越えて炸裂した。この掩護射撃はまったく時宣を得たもので、日本軍はついに撃退された。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

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首里司令部東方の13日の戦況図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

沖縄北部 
 第一護郷隊村上隊長はこの日、軍司令部との連絡も途絶し、軍主力の戦況が全く不明であることから、軍司令部へ決死隊による伝令班を派遣することとした。伝令班には諸喜田林光兵長以下7名が選ばれ、訣別の水盃をおこなったのち、安部海岸(大浦東南東5キロ)からクリ船で出撃した。
 伝令班の主な任務は状況報告と無線機の受領であった。日時は不詳ながら、伝令班は海路、無事に首里の軍司令部に到着することになる。
 第2護郷隊はこの日、田中中隊主力が恩納飛行場の設定のため集結中の米軍を襲撃し、一定の戦果をおさめた。

慶良間諸島 
 この日、慶良間諸島の阿嘉島に米軍約20名が上陸し、第2中隊の舟艇壕から特攻艇を引き出すなどした。これを見た海上挺進第2戦隊の野田戦隊長は古川少尉以下9名に奇襲させ、奇襲隊は約10名の米軍を殺傷したが、残りの米兵は退避した。奇襲隊は古川少尉以下2名が負傷した。
 この直後、米軍は200名から300名の部隊を阿嘉島に上陸させ報復攻撃を開始した。翌14日には15名、15日には70から80名でさらに執拗に攻撃してきたという。
 同諸島の渡嘉敷島では引き続き米軍の掃討作戦が展開され、この日13時30分ごろから迫撃砲の支援下に米軍約40名がA高地正面に攻撃してきたが、同島に配備されている海上挺進第3戦隊はこれを撃退した。翌14日も約180名の米軍が上陸し、一部がA高地を攻撃してきた。15日午後、米軍部隊は交代する模様で、これまで上陸していた部隊は海岸に集結し、幕舎の撤去なども見られた。また15日も約25名の米軍がA高地にあらわれたが、これを撃退した。以降しばらく渡嘉敷島での米軍の攻撃は低調となる。

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渡嘉敷島北部のA高地:同上

軍司令部の動向

 第62師団は第32軍の指示にもとづき、隷下の歩兵第63旅団中島徳太郎旅団長を首里防衛司令官とし、首里の防衛強化を命令した。中島旅団長は隷下の各隊や後方増加要員などを整理して、首里司令部東、西、北に部隊を配置した。総員6700名といわれる。前近代の城攻めで例えれば、現在の日米の戦線を外堀での攻防とするならば、中島旅団長率いる部隊は内堀の防衛を担ったといえるだろうか。もしくは現在の日米の戦線を内堀での攻防とするならば、西の丸、北の丸などの内郭の曲輪に配置されたとでもいえるだろうか。いずれにせよ司令部を取りまく状況は切迫していた。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報じた。

 朝来敵ノ攻撃ハ愈々熾烈ヲ加ヘ特ニ経塚、沢岻方面及天久地区ニ於テハ彼我戦線犬牙錯綜相互ニ兵力ヲ増シテ輸贏ヲ争ヒツツアリ 即チ小波津以東ニ於テハ逐次敵我カ主陣地ニ接触幸地南方ニ於テハ朝来有力ナル敵西原村一三〇及一五〇高地ヲ攻撃シ来ル 但シ石嶺東北側飛行場正面ニ於テ我カ好防ニ依リ敵ノ前進ヲ阻止シアリ 経塚南端及東側地区竝ニ澤岻北側高地ニ於テハ手段ヲ尽シテ之カ確保ニ努力シアルモ戦車ヲ伴フ一、五〇〇ヨリナル敵ノ猛攻ヲ受ケ苦戦中
  [略]

(上掲戦史叢書)

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亀甲墓といわれる沖縄の特徴的な墓を爆破する米兵 亀甲墓は日本軍の絶好の軍事拠点となっていた 45年5月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号04-83-3】

警察特別行動隊について

 この日、沖縄県は日本軍の敗北は必至として、沖縄戦の実情を内務省に報告するため、謝花喜福警部以下8名による警察特別行動隊(警察別動隊)を組織し、米軍の包囲を突破し沖縄を脱出するよう命令した。警察特別行動隊に任命されたある警部補は、荒井退造警察部長が「戦況はますます熾烈を極め、日本軍の敗北は確実であり、通信も厳しい状況のなかで、県民の真の姿を内務省に報告しなければならない」との趣旨のことを語ったという。県は5月27日、内務省へ警察特別行動隊の派遣について打電するが、警察特別行動隊は全員戦場に倒れ、東京へたどり着いたものはいなかった。
 荒井警察部長43年7月に着任したが、政府の緊急閣議決定によりはじめられた疎開業務が沖縄県警察部の主管となったため、荒井警察部長が指揮をとった。その後、疎開業務は県の内政部人口課に移管され、警察部も警察警備隊に改編し、その業務もスパイ取締りや住民の避難指導、弾薬輸送の労力抵抗など、軍の作戦に直接的に協力するものばかりとなった。
 荒井警察部長は6月9日、警察の解散命令を出し、沖縄県警察は戦火のなかで消滅する。荒井警察部長もその後、行方不明となる。

本土爆撃の拠点となる沖縄

 この日早朝、北飛行場(読谷村)から海兵隊航空機部隊の第31海兵航空群団指揮下の第441海兵戦闘機戦隊のコルセア16機が奄美諸島喜界島に向けて飛び立ち、飛行場を爆撃した。機体には500ポンド爆弾1発と5インチ・ロケット弾8発が搭載されていたという。この攻撃により飛行場の滑走路が大破し、周辺地域も含め大きな被害が出たという。日本軍の対空砲火はほとんどなく、海兵隊航空機部隊は9時過ぎには北飛行場に着陸した。
 その後、夜間にも中飛行場(嘉手納)から第33海兵航空群団第543戦闘機戦隊のグラマン・ヘルキャットが複数回発進し、奄美諸島の奄美大島や徳之島の飛行場施設を攻撃した。
 この攻撃は、沖縄の飛行場を出撃した軍用機が初めて沖縄の範囲を超えておこなった爆撃である。米軍は沖縄に上陸し、沖縄各地の日本軍飛行場を接収・拡張し、また新たに飛行場建設をはじめたが、そこに配備された航空部隊は地上戦闘の支援や航空特攻などで沖縄に飛来する日本軍機の哨戒・迎撃が主な任務であった。しかし、これ以降、沖縄の各飛行場を発進する米軍機は、奄美、九州方面へ出撃し、爆撃、空襲を繰り返すことになる。まさに沖縄は本土爆撃の拠点となっていくのである。
 これについては沖縄戦の地上戦の進展とも関連するものであり、あらためて確認していきたい。

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8発の5インチ・ロケット弾を発射するコルセア 攻撃場所は沖縄島 撮影日不明:沖縄県公文書館【写真番号115-03-2】

新聞報道より

 この日の大阪朝日新聞は、沖縄戦について次のように報じている。

敵那覇、首里を指向先鋒約一里に迫る
 糸満沖に有力艦隊出現

【南西方面前線基地特電十一日発】わが地上部隊主力は那覇、首里の両市を指向する敵主力上陸部隊を邀撃して依然敢闘を続けている、十日現在敵主力の第一線は首里に約三キロ、那覇に約六キロの地点まで迫っている模様で、わが地上部隊将兵は新鋭兵器を擁して盤石の布陣を固め、あるひは背後よりあるひは側面より奇襲斬込みを続行している、一方悪天候を衝いてわが航空特攻隊が出動しているが、十日正午頃にはさらに糸満西方に制式空母二隻、戦艦五隻を中心とする敵艦隊に護衛される二万トン級乃至八千トン級十六隻の輸送船団が新に出現した、敵は中、北両飛行場にこの数日間地上航空機数十機を増強し約二百機が発着、伊江島の敵航空基地も概成した模様である

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

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シモバル収容所に収容された子ども 45年5月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号114-13-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第10号(琉球新報2005年5月27日)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)
・林博史『沖縄からの本土爆撃 米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館)

トップ画像

那覇市内の大きな建物に向けて進軍する米兵 野戦から市街戦の様相を呈し始めている 45年5月13日撮影:沖縄県公文書館【写真番号89-23-3】