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【沖縄戦:1945年4月22日】国頭愛楽園と宮古南静園 国辱病、愛楽突撃隊、祖国浄化の戦士─ハンセン病患者にとっての沖縄戦

国頭愛楽園と宮古南静園

 羽地村屋我地(現在の名護市済井出)の国立らい療養所「国頭愛楽園」(現在の国立療養所「沖縄愛楽園」。なお「らい病」は現在、ハンセン病と呼称される)は、44年10月の十・十空襲により園内の72の建物のうち、治療室や寮舎など26棟が全壊する大きな被害をうけた。その後も断続的に空襲に見舞われ、さらに米軍上陸からこの日まで、米軍の爆撃や機銃掃射、艦砲射撃などの被害をうけ、使用できる寮舎は7棟だけとなり、職員と入園者は壕に避難している状況で、壊滅状態にあった。
 十・十空襲の際に米軍が作成した戦略地図には、愛楽園の位置に「BARRACKS」(兵舎、兵営)と記されていたという。すなわち米軍は愛楽園を兵舎、軍事施設と認識していたため、執拗に攻撃をおこなっていたと考えられる。病院や療養所であることを何らかの方法で示し、攻撃を回避する努力をしなかった当局の責任は重いといわざるをえない。

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44年9月に米軍が愛楽園上空を撮影した空中写真 赤枠内が愛楽園 建物が整然と並んでおり、何らかの重要施設と認識されてもやむをえない:国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより

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十・十空襲による愛楽園の被害図:(吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」下〔『季刊戦争責任研究』第41号〕)

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戦災で破壊された愛楽園の様子 厨房施設といわれる 45年7月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号05-33-3】

 愛楽園の被害は施設だけにとどまらず、人的被害も多大なものがあった。被弾など直接的な米軍の攻撃による死亡者は1人だけだったが、不衛生な壕での避難生活により病気を悪化させ死亡する者、アメーバ赤痢やマラリアによる衰弱死、食糧不足などによる餓死などが続出した。ある重傷者は湿度の高い壕のなかで、痛みもなく生きたまま腐敗していったともいわれており、入所者の3人に1人が亡くなったそうだ。
 4月21日に愛楽園のある屋我地島に侵攻した米軍は、23日までに愛楽園が療養所であることを確認し、攻撃はやんだ。米軍が愛楽園を訪れたことについて、次のような入園者の証言がある。

地図をひろげて、今自分たちがいるところはどこか、ここはどこか、そう、今考えるとあれは無線電話でね、ベチャベチャ何かいってましたよ。そして飛行機にもちゃんといっておくから、もう大丈夫だから、ここは空襲しないから、出て歩いてもよろしい。また事実でした。それからもうここは全然空襲なかったですね。それで古宇利やその部落の人がたくさんはいりこんでましたよ。ここが安全だということがわかってですね。それがちょうど四月二三日です。米軍がきてから撃ち殺されたというようなことはなかったですね。

(吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」下〔『季刊戦争責任研究』第41号〕)

 米軍との折衝後、早田園長は米軍に薬品など必要な物品を請求するなど交渉し、愛楽園の立て直しをはかった。他方、本部半島で敗残兵となり食糧強奪や住民虐殺を繰り返していた海軍魚雷艇隊の白石部隊が愛楽園を訪れ、食糧供出を求めることもあったといわれる。また米軍も愛楽園再建のため物資を提供し、管理のためMPが常駐するなどのこともしたが、それでもなお米軍政府がハンセン病患者の収容、隔離を進めるなど、ハンセン病患者にとっては厳しい戦後が待ち受けていた。
 また宮古島にも県立宮古保養院「宮古南静園」としてハンセン病療養施設が開設されていたが、こちらも十・十空襲で大きな被害にあった他、入園者の作業船が機銃掃射をうけ、被害を出すなどした。強制収容により入園したばかりの入園者は、頼れる人もなく園内を逃げ惑ったといわれている。

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宮古南静園の患者や職員と話すムーア高等弁務官 沖縄戦から12年経った1957年の撮影だが、貴重な資料かと思う 57年8月16日撮影:沖縄県公文書館【写真番号31-08-2】

ハンセン病と沖縄戦

 そもそも愛楽園は1938年に沖縄県の告示で設立された。ハンセン病患者でキリスト者の青木恵哉が中心となり設立された私設の療養所が前身といわれている。
 戦前、ハンセン病は国力を低下させる「国辱病」とされ、ハンセン病患者は隔離され、妊娠中の患者の強制堕胎などもおこなわれたそうだ。特に当時の沖縄はハンセン病患者が比較的多く、「らい濃厚地」などともいわれた。
 44年の第32軍の沖縄駐屯以降、沖縄では軍民雑居状態となるが、それまで施設に収容、隔離されず、各家庭の離れなどでひっそりと暮らしていたハンセン病患者と兵士の接触が増えたことから、軍はハンセン病を極度に警戒し、患者の強制収容、隔離を進めた。ハンセン病患者のいる家には赤い布が吊るされ、将兵の接近を禁止するといったこともあった。
 そうしたなか、軍は隔離した患者を「祖国浄化の戦士」などと評し、徴兵になぞらえて愛楽園に強制収容、隔離した上で、食糧増産などの仕事をさせた。愛楽園の二代目園長早田皓も戦争遂行のため「本島だけでも無らいの島をつくってみたい」と意気揚々と患者の強制収容、隔離に協力するなどした。患者の強制収容、隔離は伊江島や読谷村など飛行場建設が進められた地域でまずはじまり、その後各地に拡大していった。なお早田園長に関しては「バカヤローが口癖」と評されるほど強権的な人物であったが、強制集団死を指導したり患者に武器をもたせるようなことまではしなかった。米軍上陸直前、軍が愛楽園の入所者への手榴弾の配布を打診したところ、早田園長は断固反対したという。
 愛楽園の定員は450人程度であったが、強制収容、隔離がすすみ、913人もの患者が隔離され、食糧不足なども発生した。戦火に備えて壕の建設なども入園者自身の手でおこなわれたが、ハンセン病により末梢神経が麻痺した入園者にとって、壕掘りは非常にきつい作業であり、壕掘りにより手足を切断しなければならない怪我を負った入園者もいたようである。また愛楽園の入園者による「翼賛会」や「食糧増産挺身隊」、さらには愛楽園の子どもたちによる「愛楽突撃隊」などが組織されるなど、愛楽園は戦時体制となり、ハンセン病患者にとっての沖縄戦がはじまっていく。
 宮古南静園でも同じく強制収容、隔離が進み、患者は苦しめられた。特に宮古南静園では終戦後も日本軍による患者収容があったといわれている。与那国島においても日本軍はハンセン病患者を収容し、台湾のハンセン病療養施設「楽生園」に連行したという証言もある。
 地上戦以前における第32軍のハンセン患者の収容については、以下の記事を参照していただきたい。

 なお沖縄県公文書館には、終戦直後の愛楽園を撮影した貴重な写真が残っている。ただし入所者が写されていたり、遺体を検視していると思われる画像などもあり、ここに載せることは控えるべきかと思う。興味本位ではなく、当時の愛楽園の様子やハンセン病患者、入所者の置かれた過酷な現実をしっかりと知りたいと思う方は、ご自分で調べた上で歴史的事実を見据えて欲しい。

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奥に見える家にいた8人の日本兵を射殺したという 本部半島にて 45年4月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号82-05-2】

22日の戦況

第一防衛線の死闘
 第一防衛線では全線で米軍の攻勢がつづき、日米の死闘が展開された。
 西海岸道方面では、城間、伊祖、安波茶地区で戦闘が繰り返されたが、守備隊は各陣地を確保した。
 歩兵第64旅団有川旅団長はこの日(もしくは21日)、同方面の増援のため20日に派遣した独立歩兵第15大隊に旧陣地に復帰するよう命令した。同大隊はこの2日間の戦闘で約三分の一の損害をうけた。
 嘉数では米軍の攻撃は活発でなかった。第62師団藤岡師団長命令により、嘉数に配備されていた独立歩兵第23大隊は、一部を嘉数南側に残置し、主力は安波茶に後退した。
 西原高地頂上付近では、依然として接近戦が繰り広げられたが、米軍の進出は阻止した。また、この日、西原高地と棚原高地の中間の鞍部に対する米軍の攻撃が活発化したが、隣接地からの火力の支援により陣地を確保した。
 142高地では至近距離から15糎砲の射撃と戦車、火炎戦車をともなう有力な米軍の攻撃をうけたが、守備隊はこれを撃退した。同高地の守備隊を指揮する賀谷大隊長はこの夜、守備隊を棚原付近に撤退させた。
 東海岸の独立歩兵第11大隊正面での米軍の行動は活発でなかった。同大隊は157高地─内間─掛久保の線を保持して米軍と対峙した。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報じている。

一 朝来敵ハ砲爆撃支援下有力ナル戦車ヲ伴ヒ攻撃ヲ続行シ特ニ上原、一四二、嘉数、伊祖、城間方面激烈ヲ極メ 又我第一線ノ戦力逐次低下セルモ志気極メテ旺盛主陣地線ヲ確保シ敵ニ多大ノ出血ヲ強要シツツアリ
二 本日ノ我陣地線左ノ如シ
 城間北側同東側-屋富祖-五八高地-安波茶西北五〇〇米-仲間西北側五〇〇米-七〇・一高地-嘉数-西原北側地区-一四二高地-上原-一〇一-掛久保
三 来襲機本島延四二二機、砲撃三、〇〇〇発

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

南部からの兵力投入
 主陣地帯で米軍と交戦する第62師団は、漸次戦力を低下させていった。第32軍司令部は、第62師団の戦力低下と、これに伴う米軍部隊の浸透に鑑み、これまで島尻地区を守備していた第24師団、知念半島を守備していた独立混成第44旅団を北転し、主陣地帯への投入を決意した。
 軍司令部はこれまで島尻地区へ米軍が上陸し首里司令部が北と南から挟み撃ちとなることを警戒しており、第24師団ならびに独立混成第44旅団の主陣地帯への投入は大きな賭けでもあったが、長参謀長が主導するかたちで実行された。

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米軍上陸時の第32軍各兵団の配置 第62師団が首里司令部の北部の防衛を担任し、第24師団と独立混成第44旅団が南部を担任していた:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 第32軍八原高級参謀は第24師団と混成旅団の南部から首里への転回と第一防衛線への投入について、戦後次のように回想している。

 すでに我々の承知した敵の上陸兵力は、六個師団で、なお一、二個師団は随時沖縄の戦場に投入し得る余力あるやに察せられる。
 果たして、敵はわが側背に新たな上陸を行なわぬであろうか。我々は、作戦開始後はもちろんのこと、作戦開始以前より、敵が主力をもって北方陸正面より来攻する場合、その攻撃を容易ならしめるために、機を見て島尻南部海岸に新たに上陸し、北面して戦うわが軍の背後に殺到、南北鋏撃の作戦に出ることを極度に警戒し、絶えず不安に襲われていたのである。
 すでに軍は北方戦線に一か月の激闘を続け、第六十二師団は戦力二分の一以下に低下している。今後この戦線を保持せんとすれば、依然島尻沿岸に配置しある軍主力第二十四師団、独立混成旅団その他の諸部隊を急遽北方に転用しなければならぬ。しかしこのことたるや、軍としては一大決心を要する。
 海正面にある軍主力を北方に転用すれば、敵の新上陸を誘致する恐れがある。もし上陸されれば直ちに側背から殺到されるので、現在の首里戦線をそのままに維持することは不可能だ。どうしても、あらかじめ準備してある石嶺、弁ヶ岳、一三九高地、識名、松川、末吉の円形複郭陣地に拠らねばならぬ。この場合、島尻全域に分散集積してある莫大な軍需品も、急速にこの複郭陣地内に輸送するを要する。ところが、輸送機関の自動車車輌の大部はすでに破壊され、馬匹はほとんど全部戦死している。よく輸送し得たとしても、これら莫大な軍需品を格納するに足る洞窟設備はない。なお生存を予想せられる7万以上の兵員をさえ収容するに足る洞窟陣地がないのだ。
 以上のような最悪の場合を忍んでも、軍主力を北方に転用するか、あるいは現在の戦線は、第六十二師団を基幹とする諸部隊をもって戦えるだけ戦い──私がうっかりこうした主旨を洩したら、第六十二師団参謀長は、実に沈痛な表情をした。今も私は、このときの深刻な彼の顔を忘れることができない──第二十四師団は喜屋武半島地区、混成旅団は知念半島地区の現根拠地に拠り、三点防衛方式を採用するか、今や軍としては、まさに一大決心を要する秋であった。
  [略]
 しかし、敵には、わが軍の総兵力や、軍主力が北方に転進することなどが、すべてわかるとは限らない。嘉手納の上陸はほとんど無血で成功したが、主陣地帯内部沿岸の上陸はそう簡単には行くまいと考えるかもしれぬ。現に敵は去る二月の硫黄島の上陸で痛い目にあっている。そんな冒険を敢えてするより、現に敵がやっているように、鉄量に物言わせ、歩一歩陸正面の攻撃を続け、首里東西の線に進出すれば、地形上このとき敵は沖縄全島を制したと同じ作戦効果を獲得することができる。そうすれば敵としてこの案を続行するのが最も堅実な策案であると考えられる。
  [略]
 作戦上の理論は暫く措き、当時我々としては敵が六個師団以上の兵力を沖縄北部に揚陸したこと、ならびに過去一か月に亘り、わが北方正面に猛攻を続けていることなどから、直感的にわが背後に対する新上陸はないとの感が強かった。もちろん玉砕の最後まで敵のわが背面に対する新上陸の悪夢に脅威され続けではあったが……。実を言えば、私は軍主力北上があまりにも重大な問題であるので、どこか容易に咀嚼し切れぬものがあり、理念が明確化するには、なお若干の時日を要する心理状態にあった。
 しかし、今や決断のときである。躊躇逡巡しておれば、日ならずしてわが主陣地帯は崩壊するのだ。私は意を決して、参謀長に如上縷々記述した要旨の状況判断を具申した。ところが、参謀長は、実にずばりと軍主力北上に断を下された。さすがに参謀長である。平素の勇断明快な性格が躍如として出現したのだ。私は溜飲が一度に下がった思いで、心から参謀長に敬意を表したのであった。
 かくして四月二十二日ごろから、軍主力の思い切った首里戦線への投入が始まった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 とはいえ、米軍はたしかに沖縄南部への上陸について検討していたようである。八原の回想には次のように記されている。

 終戦後、アメリカ第十軍の参謀将校と彼我の作戦について懇談した際、談たまたまこの件に至るや、アメリカ軍側においても二つの案があったことがわかった。陸軍は攻撃続行を、海軍は新上陸をそれぞれ主張し、終始論争の種であったとか。敵は日本軍の総兵力を実際より一、二個師団過大に判断していたようである。いずれにしても、実際アメリカ軍が新上陸をしなかったことは、日本軍にとって最高の僥倖であった。もし捷一号のレイテ決戦におけるオルモック新上陸の如き状況が現出すれば、沖縄戦は急速に、そしてさらに一層悲惨な形で終結していたであろう。

(同上)

 戦史叢書は米国側の戦史に基づき、米陸軍第77師団が新上陸を主張し、第10軍司令部が補給の面から新上陸に難色を示したとしており若干異同があるが、いずれにせよ沖縄南部への米軍上陸はおこなわれず、これをもって南部の第32軍各兵団が首里戦線に北転、投入されることになる
 南部兵団の北転に伴う第32軍の新しい部署の大要は次の通り。

部署の大要
一 方針
 軍は主力を北方陸正面の戦線に投入し、戦略持久を続行する。敵がもし軍の背後に上陸攻撃する場合は、全戦線を収縮し首里を中心とする円形複郭陣地に拠る。
二 部署の概要
1 第二十四師団 右第一線兵団として小那覇北側、一五七高地、棚原、幸地の線(のちに、我謝、小波津、幸地、前田の線に変更)を占領する。
 現在第六十二師団右翼が保持している上原付近の高地帯は早晩敵手に入ることを予期する。
2 第六十二師団 極力現戦線の保持に勉め、やむを得ない状況に至れば左第一線兵団として仲間、伊祖、城間の線を確保する。
3 独立混成第四十四旅団 第二十四師団の転進に伴い首里西側、天久台、那覇海岸にわたる線を占領し第六十二師団の後方に第二線陣地帯を構成する。
4 海軍陸戦隊 依然小禄飛行場正面を守備する。
5 軍砲兵隊 第二十四師団及び混成旅団の砲兵をも統一指揮し、依然第一線各兵団の防禦戦闘に協力する。
6 島尻警備隊 特設第一旅団長(第四十九兵站地区隊長ー高宮章大佐)は特設部隊並びに第二十四師団及び独立混成旅団の残置部隊を併わせ指揮し、島尻警備隊となり軍の背後海正面を警備する。極力わが企図を欺瞞し、敵の新上陸に対しては逐次の抵抗を行ないつつ軍主力に合する。

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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沖縄を視察するニミッツ元帥と高官 門には「國吉真之(才?)」と記された表札が掲げられ、「診療 午前八時ヨリ~」などの掲示がされている 45年4月22日撮影:沖縄県公文書館【写真番号107-12-2】

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第8号(琉球新報2005年4月21日)
・吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」上・下(『季刊戦争責任研究』第40号・第41号)
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

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米軍フレンチ少尉にハンセン病について説明する早田園長:沖縄県公文書館【写真番号81-14-3】