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【沖縄戦:1945年4月11日】護郷隊のゲリラ戦─生まれ故郷の焼き討ちを命じられた少年たち 「服装、便衣ヲ可トス」─住民になりすました第32軍の夜間斬込み

第1防衛線の戦況

 嘉数高地では日米の激戦がつづき、昨日に嘉数西側70高地頂上付近を占領した米軍は嘉数高地南側への進出を企図し、嘉数高地の主陣地は西方斜面からの攻撃にさらされたが、守備隊は砲迫撃の支援と逆襲を併用し、米軍の進出を阻止した。また嘉数北側高地頂上付近に進出してきた米軍も夕方には撃退した。
 我如古付近の米軍の攻勢は活発でなかった。
 主陣地帯左翼、東海岸方面では、戦車を伴う有力な米軍部隊が和宇慶集落の北側に進出してきたが、守備隊は対戦車障害と火力によりこれを撃退した。
 第32軍はこの日の戦況を大本営に次のように報告している。

一 戦線変化ナシ 敵ハ東西両海岸ヨリ第一線ニ盛ニ兵力ヲ増強シ戦車装甲車等ヲ以テ陣前ヲ強行偵察シツツアリ 我ハ陣前果敢ナル斬込ヲ続行シ多大ノ戦果ヲ収メツツアリ
二 津堅島ノ我守備隊ハ本夜勝連半島ニ転進、中頭ノ遊撃ヲ行フ予定
三 第三十二軍ハ十五加ヲ以テ北、中飛行場ヲ火制中
四 来襲機状況 本島二二〇 宮古一九 石垣二七

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 その他、軍はこれまでの総合戦果として、米兵6280、戦車178、自動車48などを戦果としている他、自軍の被害として死傷2279、さらに津堅島、慶良間諸島、航空地区隊など約4200と連絡が断絶しているなどと報告している。

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海兵隊に連行される日本兵捕虜 1945年4月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号12-46-3】

沖縄北部の戦況

 沖縄北部では国頭支隊や護郷隊が北進する米軍と戦闘を続けていた。
 本部半島に進出した米軍はこの日、国頭支隊が本部を置く八重岳地区に向けて猛烈な艦砲射撃や飛行機による対地攻撃がおこない、地上部隊は主陣地の前面に進出し、偵察行動を活発化させた。
 渡久地南側の207高地(国頭支隊第4中隊第3小隊長の指揮する2個分隊)はこの日11時ごろから米軍の攻撃をうけ、部隊は喜納原の中隊指揮班陣地に後退した。
 連隊砲中隊は11時ごろから15時ごろまで渡久地方面の米軍を射撃した。また伊豆見地区においては、西進する米軍を阻止した。
 この日、牛島司令官は本部を中心に沖縄北部の戦況を次のように報じている。

 七日名護湾ニ上陸セル敵ハ歩兵約五、〇〇〇戦車約一五〇砲六門ニシテ戦艦三巡洋艦三駆逐艦二ノ支援下ニ逐次本部半島ニ侵入シ来リ九日二〇〇〇安和、伊豆味、乙羽岳ノ線ニ進出スルト共ニ一部ハ伊豆味、渡久地ヲ経テ二〇七高地ニ達シ支隊ハ引続キ果敢ナル邀撃戦ニヨリ敵ノ主陣地ヘノ近接ヲ妨害シ之ニ多大ノ出血ヲ強要シツツアリ 我方ノ損害極メテ軽微ナリ
 伊江島ハ艦砲射撃ヲ受ケアル外敵ノ上陸ヲ見ス
 現在迄ニ判明セル戦果 破壊炎上セル戦車三五、装甲車二、自動貨車五、発電車一、弾薬燃料糧秣集積所七ヶ所爆破、人員殺傷数十

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)
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米軍上陸時の国頭支隊を中心とする沖縄北部の部隊配置:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 第1護郷隊(第3遊撃隊)村上隊長は各中隊に遊撃戦を命じていたが、この日夜、第2中隊数名が田井等学校および川上の米軍を奇襲した。戦果は幕舎爆破4、家屋爆破1であった。
 護郷隊員は沖縄北部の青少年を隊員として編成されている。そうすると護郷隊が米軍に占領された集落や施設を襲撃するといっても、それは自分の生まれ育った集落であったり親しんだ施設を攻撃する場合もありえる。少年たちの精神的な負担はどれほどのものであったろうか。これ以降、護郷隊は各集落の襲撃や焼き討ちをおこなうが、実際に生まれ故郷、はては自分の家に火を放たざるをえなくなった護郷隊員などもいる。
 第2護郷隊(第4遊撃隊)岩波隊長は再々度の金武攻撃のため、第1中隊に各中隊の一部および特設第一連隊大鹿隊の一部を増加し、昼間に綿密な偵察をおこなった上で夜襲を企図したが、米軍の警戒が極めて厳重であり、大きな戦果は得られなかった。

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米軍上陸時の護郷隊各隊(第3遊撃隊・第4遊撃隊)を中心とする沖縄北部の部隊配置:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 若干日時が異なっているが(瑞慶山さんは12日夜中とする)、元護郷隊員瑞慶山良光さんが金武襲撃について証言している。おそらくこの際の金武襲撃のことだろう。

元護郷隊瑞慶山良光さんの証言 チャプター3が金武襲撃時の証言:NHK戦争証言アーカイブス

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キャプション原文には「海兵隊陣地に夜間侵入を試みて殺された日本兵」とある 海兵隊は沖縄北部で作戦行動をしていることから、日本兵は北部に配置された国頭支隊もしくは護郷隊の隊員である可能性が高い また夜間侵入(夜襲)となると、撮影日前夜の4月10日に国頭支隊および三中鉄血勤皇隊が伊豆見付近の米軍に対し夜襲を敢行していることから、あるいは国頭支隊もしくは鉄血勤皇隊員だろうか 1945年4月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号73-30-2】

新聞報道より

 大阪朝日新聞はこの日、沖縄の戦況を次のように報じている。

敵、全面猛攻を反復、地上戦闘本格激化
 東西両海岸に熾烈
 沖縄決戦
沖縄本島における陸上戦闘は八日に至りいよいよ激化し、彼我の間に本格的な激戦を続行中である、敵は戦車約百輌を伴ひ約四千の兵力をもって陸海空の猛烈な砲爆撃掩護下に全面的猛攻を反復している、ことに東海岸および西海岸の中央部附近で戦闘は最も熾烈を極めている、大山南方二キロの嘉数方面では敵は砲爆撃下に大挙来襲したが、わが部隊の猛反撃により大なる損害を被り八五高地方面に撃退された、なほ津覇方面では敵はわが猛反撃を恐れ行動は未だ活発化していないが戦車五十輌ならびに兵力一千をもって陣地を構築しつつ攻撃準備中の模様である、海上におけるわが特攻隊の攻撃はいよいよ猛烈となり、陸上部隊またこれに呼応し士気いよいよ軒昂たるものがある

(『宜野湾市史』第6巻資料編5〔新聞集成Ⅱ戦前期〕)
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日本兵に注意深く警戒しながら包囲する海兵隊員 1945年4月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-22-4】

神直道参謀の日誌より

 第32軍神直道航空参謀の日誌(「神日誌」)には、この日第32軍牛島司令官について

牛島満将軍ハ西郷南洲の如き人、悠々泰然 水の動くが如く天地の理法に従いて事を処せらる
牛島将軍と云い小林浅三郎将軍と云い名将に仕えたるを幸ひとす

と記している。

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「神日誌」其2(第32軍参謀 陸軍中佐 神直道)1945年4月11日:防衛研究所 沖台 沖254-2

 戦況はけして第32軍に有利ではなく、また司令部内も攻勢か戦略持久かをめぐって慌ただしいなか、牛島司令官はあくまで泰然自若としていたという。
 八原高級参謀も地上戦開始後の牛島司令官の様子を次のように回想している。

 軍司令官は、戦闘が始まってからも、その態度は平素と少しも変わらなかった。一切を参謀長以下に任せて、自らは悠々としておられる。決裁書類には、例のごとく一字一句も修正されない。静かに読書されておられる場合が多く、世間話の相手には、専門外の女子師範学校長西岡氏が選ばれていた。同氏は、すこぶる率直遠慮のない人である。あるとき将軍に、「閣下は何故作戦指揮について、一言もされんのですか? 私がもし司令官だったら、とてもじっとしておられません」と申し上げると、返ってきた将軍の返事は、こうであった。「軍司令部には、それぞれの専門家がおる。俺がかれこれいうよりは、その専門家たちに頼んでやってもらった方が結果が良いのだ」
 戦闘が、逐次激化するに従い、軍司令官の感状を授与される部隊が、次々と出てきた。文案は、愛媛県出身の三宅参謀が起案した。皆相当長文のものであった。それを将軍は、必ず自ら墨書された。実に、丹念に、根気強く、奇麗に楷書で書き続けられた。将軍は、第一線から連絡や報告に来た者には、好んで面接され、詳しく戦況を聞かれた。相当誇張した自慢話でも子供のように喜んで聞き、最後には必ず特有の口調で、相手の階級いかんを問わず、「今後もどうぞよろしくお願いします」と挨拶されるのが常であった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

歩兵第89連隊第5中隊陣中日誌より

 この日の歩兵第89連隊第5中隊の陣中日誌には、前線で米軍と対峙する第62師団(石部隊)による敵陣斬込みの戦訓が記録されている。

  山情戦第五号 石部隊挺進斬込戦訓
     昭二〇・四・一一  山第三四七六部隊写
一、成功セル出発地  棚原 幸地
  [略]
四、成功セル出発時刻  二三〇〇~二四〇〇
五、成功セル帰還時刻  〇四〇〇~〇五〇〇
  [略]
八、潜伏ノ最良場所  墓場ノ中
  [略]
十、第一線ヲ突破セバ爾後ノ行動極メテ容易ナリ
十一、服装  便衣ヲ可トス
   注意 敵モ亦一部便衣ヲ著[ママ]用シアリ主トシテ我斬込ニ対スル警戒兵ナルモノノ如シ

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 斬込みの際の服装は軍服ではなく便衣、すなわち普段着、日常着を可としているところに注目していただきたい。兵士が夜陰に乗じ、一般住民の服装をして武器を持ち敵陣を襲うことを可としているのである。後に西原で米軍が押収した日本軍資料にも「服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要である」と一般住民に変装して行動することが記されているとともに、元将校も兵士が一般住民に変装し攻撃していたと証言している。こうした第32軍の戦法により、米軍は兵士と住民の見分けがつけられなくなり、住民をも攻撃の対象としていかざるをえなくなったのである。
 また陣中日誌にはこの日付けの第24師団の情報紙「撃滅」第7号が掲載されているが、そこには次のような一節がある。

 撃滅 [第七号 四月十一日]
  [略]
  戦訓(戦備)
一、敵ノ諜報ニ対スル対策
 敵ハ飛行機・艦船・戦車等ニヨル直接威力偵察ノ外凡ユル諜報機関ノ総力ヲ挙ゲテ我ガ情報ノ偵知ニ狂奔シアリ 戦訓ニ依レバ敵ハ諜者トシテ占領地邦人第二世及□[ママ]島占領地区地方民ヲ大々的ニ利用シ更ニ執拗悪溂ナル変装擬騙ヲ以テ我カ監視線ノ突破ヲ画策シアルハ防諜上更ニ一段ノ厳戒ヲ要スル所ナリ 某部隊ニ於テ捕獲セル諜者ハ陸軍一等兵ノ制服ヲ着用セル敵占領地青年ナリシ例アリ(但シ当人ハ帯剣ハ着装シアラザリキ)叙上ノ事例ニ鑑ミテ警戒ノ任務ニ服スル者ハ勿論全員警戒心ヲ旺盛ニシ仮令軍人ト雖モ軽々ニ見逃スコトナク克ク其言動ニ細心ノ注意ヲ払ヒ合言葉ヲ使用シ万不覚ヲトラザル如ク著意スルコト緊要ナリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 ここでいう「敵占領地」が沖縄の米軍占領地帯をいうのか、米軍が占領した日本が支配していた海外の地をいうのか判然としないところもあるが、いずれにせよ「邦人」「地方民」といった言葉から大きく沖縄県民も含めて日本人が軍に対し「スパイ」活動をしているからよくよく警戒するようにという注意喚起を読み取れる。軍は沖縄住民を「スパイ」視するとともに、それをさらに超えるすべての住民を「スパイ」視していたということがいえる。

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占領した名護の役所の金庫から総額5000円の日本の紙幣を取り出す軍政府職員 1945年4月11日撮影:沖縄県公文書館【写真番号87-32-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
・NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」(2015年6月14日初回放送)

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沖縄北部名護方面へ進撃するブリーズデール大佐率いる第29海兵連隊 キャプション原文には許田かと記されている:沖縄県公文書館【写真番号96-19-2】