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【沖縄戦:1945年6月29日】久米島の海軍鹿山隊、住民9人を銃剣で刺殺し家ごと焼き払う 放火を「火葬」と強弁する虐殺者の論理

鹿山隊による住民虐殺つづく

 27日の安里正二郎氏殺害につづき、久米島の海軍鹿山隊はこの日夜11時ごろ、同島の北原(現在の久米島空港付近)の住民9名を殺害し家ごと焼き払った。
 この虐殺には、6月13日の米軍偵察隊の上陸と住民の拉致が大きく関係している。13日、米軍偵察隊は久米島に上陸した上で3人の北原住民を拉致し、そのうち抵抗する住民1人を射殺した。
 この事態に恐怖した鹿山隊は14日、「部落附近海岸並ニ部落内ヲ厳重ナル監視ヲナスコト」と命じ、また拉致された住民が久米島に戻った場合、「一般民衆ニ面会サセズ軍ニ引渡スコト勿論家族トノ面会モサセナイコト」、米軍が「宣伝ビラ等撒布ノ場合」は「之ヲ収拾取纏メ軍ニ送付ノコト」、これらに違反した場合は「銃殺並ニ厳罰ニ処セラルコトアルベシ」といった内容の「達」を発した。15日にも同様の「達」を久米島の具志川村と仲里村両村長および警防団長に伝えた。
 こうして鹿山隊は米軍や住民の動向を厳重に警戒しているなか、米軍に拉致された住民2人がじつは北原集落に戻っていたのである。北原の住民たちはそれぞれ壕などに避難しているので、2人が集落に戻っていたことを知る者は少なく、また2人が集落に戻っていたことを知っていたとしても、米軍上陸で気が動転しており、鹿山隊に通報しなかった。
 鹿山隊は2人が集落に戻ったことをどこからか聞きつけ、「達」に違反した集落の住民と米軍に拉致された住民を「スパイ」として「処刑」することにしたわけである。鹿山隊にとってこの「処刑」とは、鹿山隊による指示に違反した住民への制裁であり、また他の住民への見せしめでもあり、米軍と通謀する「スパイ」の処分であった。

久米島の戦争と鹿山隊の凶行についての証言:NHK戦争証言アーカイブス

 この日夜11時ごろ、地元農民に変装した鹿山隊の数名の兵士が北原集落を訪れ、宮城英明氏の家に宮城氏一家3人、比嘉亀氏一家4人、北原区長の小橋川恭晃氏、北原警防分団長の糸数盛保氏らを連行し、柱に針金で縛りつけた上で銃剣で次々に刺殺し、家に火を放った。比嘉氏らが米軍に拉致された人物として「処刑」され、区長や警防分団長は鹿山隊の「達」に反したとして「処刑」されたと考えられる。
 この日の久米島の警防団の日誌にも事件について次のように記されている(日付など若干の異同が見られる)。

 六月廿九日 晴
敵兵右往左往スルニ依 村主脳部トノ連絡出来ズ 十時頃一分団ヨリ連絡ニ来ル 昨日北原、宮城英明宅 比嘉亀井宅焼却セリト(山部隊ヨリ)
先日拉チ者比嘉、宮城二名山ニテ取調ベヲナスト

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 殺害された糸数盛保さんの実兄である新垣盛孝さんらは戦後、週刊誌のインタビューに応じ、当時の状況を回想している。

「顔も身体も焼けつくされて、バンドの金具でやっと弟であることがわかったですよ。胸に銃剣で刺されたらしい穴が三つほどあいていたです。まじmで一徹な弟だったですよ。万一のときは友軍と行動を共にすると、戦時訓練も真っ先にやっていた子で……スパイ容疑で日本軍に殺されたと知ってから、くやしいやら、情けないやら、泣くに泣けなかったですよ」──糸数盛保さんの実兄、新垣盛孝さん(五七)は、こう語ってくちびるをかんだ。
「それから、私たちは敵の米軍より味方の日本軍のほうが恐ろしくなったですよ。こわくて焼け跡から遺骨も拾うこともできない。仕方なく死体は一ヵ月も放置したまま。海岸ぞいの米軍と山の中の日本軍にはさまれて私たちは二ヵ月以上も、自然の鍾乳洞を利用した避難壕の奥深く隠れていました。食糧も不足して、壕の中で餓死したり、病死した老人もいたんです」と現在の北原区長、仲間良成さん(五八)は、悪夢のようなホラ穴生活を思い起こす。

(サンデー毎日1972年4月2日)

 また鹿山は、同じ週刊誌の取材に対し、刺殺後の放火について「火葬」と強弁している。

──[この日の9人の虐殺、放火と安里正二郎氏殺害について]間違いはありませんか?
「その通りです。これはその、スパイ行為ということでね。前者は、私直接には行きませんでしたが、軍隊を派遣してやらせたわけです。処刑は銃剣でやるよう命令しました。突くようにね。」
──突殺して、放火した?
「ええ、火葬にしました。家と一緒にね。それから、あと片づけをするように、村長に命令しました。ええーと、ワシの見解はね。当時、スパイ行為に対して厳然たる措置をとらねば、島民にやられてしまうということだったんだ[略]」

(同上)

 放火を「火葬」などと強弁しているが、どこまでいっても虐殺、放火である。そしてこれら虐殺行為について今どのように思っているのかと記者に問われた鹿山は、

「少しも弁明はしません。私は日本軍人として、最高指揮官として、当時の処置に間違いがあったとは、ぜんぜん思っていないからです。それが現在になって、法的に、人道的に悪いといわれても、それは時代の流れとして仕方がない。
 いまは戦争を罪悪視する平和な時代だから、あれも犯罪とおもわれるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていないから、良心の呵責もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ」

(同上)

と答えている。放火を火葬と強弁し、虐殺について「誇りを持っています」と答える虐殺者鹿山正。なぜ鹿山はそのように開き直れるのだろうか。また「良心の呵責もない」とまで言い切ることができるのだろうか。彼自身の人間性の問題もあろうが、やはりそこには冒頭述べた通り根深い沖縄蔑視に裏づけられた住民「スパイ」視があり、そうした彼自身の論理と心理が虐殺を正当化する根拠となっているのだろう。
 鹿山による住民はこれ以降も続いていく。

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戦後の鹿山正 郷里徳島県で農協の幹部を務めていた:TBS報道特集「沖縄戦 スパイ扱いされた住民の悲劇」 2013年12月7日放映

当時の新聞報道より

 この日の大阪朝日新聞は沖縄について次のように報じている。

“半兵”で敢闘、沖縄の敢闘
 語る伊場同県内政部長

福岡県学徒隊の発足に当り全国に魁けすでに一昨秋結成以来軍に協力し沖縄の護りに純忠の限りを捧げて来た沖縄県学徒隊の敢闘を沖縄県内政部長伊場信三氏に聴く

三月末敵来寇以来三ヶ月の長期間にわたり猫額大の沖縄島で驚異の戦果を挙げて来たのについては巷間ではあまり知られていないが、私はその陰に沖縄県学徒隊の涙ぐましい敢闘が非常に役立っていると思ふ、沖縄においては軍官の期待は特に学徒隊に寄せられていた、沖縄の学徒隊は一昨年の秋誕生以来屡次の空襲を受けるやうになるやこの一月からは家庭から離れて学校附近に合宿し全く兵営生活と同様な生活をした、半兵半学徒の姿であった
工場がないので学徒隊の活動分野は専ら陣地構築と防空に向けられていた、沖縄は他府県と異って交通機関が乏しい、トラック、バスは○○方面の重要工事に向けていたので学徒隊では廻して貰っても自発的に辞退していた、近いところでも三里、遠いところは五、六里の道を陣地構築の作業現場まで徒歩で通った、作業開始は午前六時乃至七時だったので学徒達は皆午前三時には起床して現場へ駆け附け帰って来るのは漸く八時ごろといふ頑張りだった

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

 内政部長は警察部長などと並んで知事に次ぐ役職であるが、伊場信三氏は当時にあって沖縄県の内政部長であった。
 伊場氏のいう「一昨年秋結成」すなわち43年の秋に結成された「沖縄県学徒隊」が具体的に何を指すのか不明だが、たしかに43年6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定されており、学徒の戦争動員は現実のものとなっていった。「この一月」というのは米軍上陸が迫った45年1月のことであろうが、すでにこのころには男子学徒には通信訓練、女子学徒には看護訓練がはじまり、2月以降「鉄血勤皇隊」が結成されていく。
 注目したいのは、記事冒頭にあるように、こうした「学徒隊」が福岡県でも発足したということである。記事上の福岡県学徒隊の詳細は不明だが、本土決戦に向けた準備の一環であることは容易に推測される。そして実際に本土決戦がおこなわれていれば、沖縄戦と同様、彼ら学徒隊に多大な犠牲を強いることになっただろう。
 なお伊場内政部長は、泉守紀前沖縄県知事同様、米軍上陸直前、沖縄を離れたといわれており、そのためこの時期に新聞のインタビューに応じることができたのだろう。政府は、7月中旬には「沖縄県関係行政事務内務省措置要領」を決定し、福岡県に沖縄県の「臨時県庁」を設置して当面の事態の対処に当たらせる方針をとったが、この際、県内政部長が県知事を代理することになった。確認はできないが、あるいは伊場内政部長が県知事代理となったのだろうか。

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7月1日の作戦までの完成を目指して建設工事が進む泡瀬飛行場 45年6月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号14-42-2】

 本 note 投稿後、伊場内政部長と九州での沖縄県庁の展開について、ご丁寧な指摘と資料の紹介をいただいたので、以下、わかる限りを記したい。
 45年6月10日付の伊場内政部長から大分県知事に宛てた「沖縄県九州事務所設置に関する件」(大分県公文書館所蔵、内閣府沖縄戦関係資料閲覧室公開)によると、県外出張中など沖縄を離れていた県職員によって九州地方統監府内に臨時沖縄県九州事務所を設置するとある。この日は勅令により地方統監府官制が公布され、軍管区に応じた事実上の道州制が導入された日であり、これにあわせて臨時沖縄県九州事務所が設置されたのであろう。
 また伊場内政部長の肩書に「沖縄県九州事務所」と添えられているところから、当時の状況も含めて考えれば、おそらく同事務所は伊場内政部長が代表したと思われる。なお、この資料では伊場内政部長の名は「伊場信三」ではなく「伊場信一」となっている。おそらく大阪朝日の記事の方が誤植であろう。
 また大城将保氏「戦時下の沖縄県政─昭和十八年知事事務引継書の周辺─」(『沖縄史料編集所紀要』第2号、1977年)には、

沖縄現地との連絡が杜絶した昭和二十年(一九四五)七月十五日、「沖縄県関係行政事務内務省措置要領」が発令され、「沖縄県事務所」が設置された。さらに九月二十日の改編で正式に沖縄県庁の代行機関として九州地方総監府にくみこまれ、総監府副参事官が沖縄県内政部長兼任となった。福岡事務所はすでに消滅した沖縄県庁に代って、外地引揚者、本土疎開者の援護および帰還事務にあたったが、昭和二一年九月三十日付をもって廃止された。

とある。
 さらにウェブサイト琉文21の「10/16: 1965年10月 浦崎純『消えた沖縄県』沖縄遺族連合会青年部/沖縄時事出版社/沖縄グラフ東京支社」の記事には、浦崎純『消えた沖縄県』(沖縄グラフ東京支社、1965年)の

日本政府は内務次官通牒にもとづいて、九州地方総監府副参事官北栄造に、沖縄県内政部長兼任を発令して沖縄県知事代理官の職務を行わせたが、兼任といっても実際は沖縄県の仕事に専従させていた。北内政部長は、沖縄県事務所規程を設け、総監府内に臨時に沖縄県事務所をおくとともに、東京、大阪、熊本、宮崎、鹿児島にそれぞれ出先機関を設けた。ところで沖縄県事務所は、戦時中の沖縄からの引き揚げ者をはじめ、終戦後の内外地からの復員者、引き揚げ者など、戦争との関連で本土に居住しなければならなくなった県人のための臨時の行政機関であったから、沖縄の現地に対しては、なんらの権限も及ぶものではなかった。

との一文が引用されている。
 これらを総合すると、6月10日前後、沖縄県九州事務所が暫定的に設置され、伊場内政部長がそれを代表した(あるいは6月10日に沖縄県九州事務所の設置を内々に各方面へ通報した)。そして7月15日に「沖縄県関係行政事務内務省措置要領」が決定され、正式に九州に沖縄県事務所が設置された。この際、沖縄県知事の職務は内政部長が代理することになった。確認はできないが、恐らくここでの内政部長は伊場信一であったのだろう。
 そして9月20日に改編がおこなわれ、沖縄県事務所が正式に沖縄県庁の代行機関として九州地方総監府に組み込まれた。そこでは総監府副参事官が沖縄県内政部長を兼任するとされたが、その際の総監府副参事官は北栄造であり、これ以降は北副参事官が内政部長として、沖縄県知事の職務を代理したと考えられる。

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平良で交通整理をする地元警察官 45年6月29日撮影:沖縄県公文書館【写真番号06-24-1】

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・「沖縄戦新聞」第12号(琉球新報2005年7月3日)

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米軍に投降する鹿山隊 左側で捧げ刀のような姿勢をとっている人物が鹿山正と思われる:沖縄タイムス2013年10月12日