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【沖縄戦:1945年7月5日】「退山する者は殺害すべし」─住民を“人間の楯”とした久米島の海軍鹿山隊と、島の少女を連れまわし逃亡を続けた鹿山正

鹿山による住民の脅迫

 米軍が上陸した久米島では、住民は山の避難壕に避難していたが、そこは久米島に配備されていた海軍通信部隊(海軍鹿山隊)の拠点でもあった。『沖縄県史』各論編6の沖縄戦詳細年表によると、同隊の隊長である海軍兵曹長の鹿山正はこの日、住民に対し「退山する者は、米軍に通ずる者として殺害すべし」と脅迫した(ただし沖縄県史は『久米島の戦争』を典拠としてこの日に鹿山が住民を脅迫したと記すが、その『久米島の戦争』を見ると7月6日に鹿山が脅迫したとある。また以下に掲載する吉浜氏の戦時日記にも鹿山による脅迫は6日の出来事とある。このあたりは沖縄県史の間違いとも思われるが、差し当たり沖縄県史の記述に従い鹿山による脅迫は5日のこととして話をすすめる)。
 なぜ鹿山は住民を脅迫し下山を禁じたのだろうか。久米島の具志川村の農業会々長を務めた吉浜智改氏の戦時日記には次のようにある。

 七月六日
  
鹿山兵曹長民衆を脅迫す
民衆が山から出て住家に帰れば山に残る者は軍人だけと云うことになり、米軍の掃討には便利である。それで女をつれてにげまわッている鹿山は山中人無くては都合がわるい。其為め民衆の退山を不喜若し退山する者は米軍に通ずる者として殺害すべしと云う宣伝セし為下山する者ナシ。

※句読点は引用者が適宜付した。

(『久米島町史』資料編1 久米島の戦争記録)

 吉浜氏によれば、鹿山が住民を脅迫して下山を禁じた理由は、山中に拠点を設けている鹿山隊にとって、住民が山から下りると米軍の掃討を招きやすく、これを防ぐためであったそうだ。
 山中に拠点を構えて住民から「山の部隊」とも呼称された鹿山隊だが、住民を守るためではなく、自身と自隊を守るため住民を山に引き留め「人間の楯」としたのである。また住民が山から下りると米軍に鹿山隊の陣地や兵力などの情報を提供する可能性もあり、住民の下山を禁じたのだろう。

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取材にこたえる鹿山正:BS-TBS 週刊報道LIFE「終わりなき沖縄戦」(2015年8月23日放映)

「憶病隊長」

 このような鹿山の卑劣で卑怯な性格を住民は見抜いており、鹿山のことを影で「憶病隊長」などと呼んでいたそうである。憶病隊長──憶病だからこそ住民を暴力で統制したのであり、それが鹿山隊による住民20人殺しにつながっていったのだろう。
 吉浜氏のこの日の戦時日記には次のようにある

 七月五日
 
日本軍の切込み
 鹿山兵曹長己は某の娘手ごめにし山奥を転々とにげまわり安逸をむさぼりながら切り込みと称し部下には五、六名を一組に一、二挺の銃器を与え残りは竹槍にて米軍の通過する道路及適当の場所を見計り狙撃させていた。
 この日午前九時頃冨祖久山下譜久里専務の山庵を通過して行った内田兵曹の一隊五名が小港坂の下にて米兵の戦車に向って狙撃をなした処早くも所在発覚され機銃にて掃射され内田兵曹及鳥島青年一名戦死二名重傷にて敗滅せりとの報に接し譜久里専務の山庵へ行って見たら二名の海兵が傷の手当をなしていた。
 米軍の前には全く児戯みたような鹿山の措置は感心出来ない。
 昨夜紅葉散る夢は内田兵曹の死のことか。

(沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】久米島)

 鹿山隊は兵員30人前後で満足な武器もなかった。米軍に本気で攻撃されればひとたまりもないが、鹿山は隊員5~6人一組に1~2丁の銃器を与え、残りは竹槍を持たせ、米軍に決死攻撃である斬り込みを敢行させた。日記の記述のとおり「全く児戯」であり、何の効果もなく、逆に隊員が死傷した結果となったが、鹿山はこうして部下を使いながら自身は山中を逃げつづけたといわれる。まさしく鹿山は「憶病隊長」であり、そのため部下の命でも住民の命でも何でも利用する卑劣で卑怯で残虐な人物であった。

少女を連れまわした鹿山

 吉浜氏の戦時日記には、鹿山が「某の娘手ごめにし」と島の住民の娘に性的関係を強制し、その女性を連れまわして山中を逃げつづけたということが記されている(久米島町史に収録されている吉浜氏の日記を見ると、この部分を削除して掲載されている。なぜであろうか)。
 沖縄復帰前後、鹿山による久米島の住民虐殺が週刊誌で報じられ、本土でもかなり話題となったが、その流れのなかでおそらくここでいう手ごめにした女性と思われる鹿山が連れまわした女性の所在がわかり、週刊誌がインタビューをおこない、記事にしている。
 記事によると女性は沖縄戦時16歳の少女であったが、「指揮官付で働いてもらうから山に上がれ」と鹿山の部下に命令され、山で洗濯など鹿山の身の回りの世話をさせられたそうだ。米軍が上陸するまで鹿山と女性の関係はその程度であったようだが、米軍上陸後、鹿山は女性に性的関係を強制したという。そして山中を逃亡する鹿山に女性は連れまわされ、子どもを妊娠するまでに至ったという。
 鹿山は9月に米軍に投降し島を引き揚げ、戦後は故郷でそれなりに安定した生活を送ったようだが、女性の戦後は非常に過酷だったという。鹿山とのあいだにできた子どもを出産した女性は、若くして一人で子育てをしなければならなかった。また当時の状況では女性に対する周囲の視線も厳しく、人目を避けて生活していたという。
 女性は結局、久米島を出て那覇に移住したものの、生活は苦しかったようだ。また家族関係も鹿山のことが引きずって、あまりうまくいかなかったようだ。戦後、週刊誌の報道で鹿山のことが話題になると、女性は鹿山に慰謝料を求めたが、鹿山からは何の返事もなかったという。その上で鹿山が「両親の呵責はない。軍人として誇りを持っている」などと開き直ったことに非常にショックをうけたそうだ。
 記事によるとインタビューの最後、女性は「日本人も日本政府も、ウソがうまいと思うさあ。そんなところへ沖縄がなんで復帰するのかねと考えるさ」と話している。沖縄復帰前後のこのころ、女性にとって本土復帰はまるで鹿山のもとへ「復帰」するかのような嫌悪感があったのだろう。
 「軍隊は住民を守らない」という沖縄の教訓は、こうした住民一人一人の心と体の傷に根差すものであり、後世に生きる私たちも重く受け止めなければならない。

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鹿山に連れまわされた島の女性を取材した記事:サンデー毎日1972年6月4日号

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・サンデー毎日1972年4月2日号
・サンデー毎日1972年6月4日号

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戦中の鹿山正:TBS報道特集(2013年12月7日放送)