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【沖縄戦:1945年4月18日】乳飲み子を背負った女性も米軍陣地への「斬込み」を強いられた伊江島という戦場 米従軍記者アーニー・パイルの戦死

伊江島で激戦つづく

 米軍はこの日7時30分ごろから攻撃を開始した。攻撃の主方向は伊江島守備隊の戦闘指揮所がおかれた城山(タッチュー)南の学校高地に向けられた。

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4月16日~20日の伊江島における作戦経過概要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

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米軍上陸前の伊江島の部隊配備要図:上掲「戦史叢書」

 城山西側の米軍は南に移動し集落西方第2中隊正面を攻撃し、戦車約10両を伴う部隊が城山北方に迂回するのが確認された。
 学校高地は第3中隊(平良眞太郎中隊長)が守備しており、同中隊は米軍の猛攻にさらされ死傷者を続出させたが、米軍戦車への肉迫攻撃をおこなうなどし、陣地を守り抜いた。守備隊長の井川少佐は第50飛行場大隊の残存者からなる田村大隊を学校高地方面に増援し、陣地の確保に努めた。
 南海岸を東に移動した米軍は、女山、墓地方面など城山東を攻撃してきたが、城山東を守備する第1中隊第2小隊(高野喜則小隊長)は三十数名の小兵力ながら戦車を伴う有力な米軍部隊を撃退し陣地を確保した。
 城山北では前田為徳中尉の指揮する前田小隊が米軍戦車隊約10輌を攻撃するも、包囲され前田中尉以下ほぼ全員が戦死した。
 伊江集落西部の第2中隊正面では市街戦が繰り広げられたが、善戦して米軍の進出を阻止した。
 伊江島守備隊井川守備隊長はこの日夜、斬込隊を編成し米軍陣地に向けて派遣したが、警戒が厳重で接近が困難であった。
 この日、伊江島守備隊と軍司令部の無線連絡がとれた。
 第32軍はこの日、伊江島の戦況について次の通り情報電を発した。

 球情報(十八日)
 十五日[十七日の誤りか]〇七一〇敵ハ伊江島東南岸ニ上陸十八日一二〇〇迄ニ上陸セル兵力戦車約八〇、兵員約一、〇〇〇、守備隊は伊江城山陣地ニテ敢闘中 現在迄ニ判明セル戦果戦車擱坐炎上九、兵員殺傷一〇〇

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

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伊江島にある公益質屋跡 米軍が侵攻してきた南西に面した壁が砲爆撃でひどく損傷している:筆者撮影

 米軍側戦史では、18日および19日の日本軍の抵抗を「いままで経験したことのない頑強な抵抗」「伊江島の損害の大部はこの両日で受けた」旨が記述されている。
 また米軍によると、伊江島の戦いにおいて、夜間斬込みをはじめとする戦闘に民間人も参加させられており、なかでも乳飲み子を背負った女性なども武器を持たされ米軍陣地に突撃する斬込隊に参加させられたという。

 伊江島では慶良間の場合とちがって、日本軍は多数の民間人を戦闘員として使っていた。なかには乳呑み児を背負った婦人もいて、こういう人たちが斬り込み隊に加わり、みずから死ぬと知りながら米軍陣地に突撃し、日本軍の塹壕や洞窟陣地の防衛に一役買って出たものもいた。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 伊江島守備隊の最後の総攻撃においても、伊江島女子救護班など女性が武器を持たされ敵陣への突撃を敢行している。例えば『伊江村史』にも住民の回想として、

 日本軍は夜襲を企図し残る兵員に少年義勇軍と婦女子を加え急造爆雷、手榴弾、小銃等貧弱な兵器で挺身奇襲を敢行し敵に多大の損害を与えたるも、化学兵器と衆寡敵し難き兵員に対し、日本軍は只敗れるのみであった。だが日本軍は僅かに残る兵員と傷つきし者も集合し互に鼓舞しあって数日に及ぶ夜襲を続行したが挽回できず玉砕した。

(大城竹吉「戦闘実記」〔『伊江村史』下巻〕)

などとあるが、詳しくは伊江島の戦いの終焉を扱う際に取り上げたい。

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伊江島の空中写真 日本軍守備隊のたこつぼ陣地が確認できる 45年4月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号114-28-2】

アーニー・パイルの戦死

 この日、米軍従軍記者アーニー・パイルが伊江島で戦死した。アーニー・パイルは北アフリカやヨーロッパ戦線に従軍し、泥まみれの兵士の視線で取材をつづけ、1943年にはピューリツアー賞を受賞した。45年4月1日の米軍上陸とともに沖縄に上陸し、沖縄戦の報道をつづけていた。彼の死についてはトルーマン大統領も弔意を寄せている。

 四月の十八日と十九日、城の南側と西側で行なわれた戦闘では、第七七しだんは、いまだかつて経験したことのない猛烈な抵抗にあった。師団の伊江島での損害の大部分はここでこうむった。米軍前線の彼方にかくれていた日本軍のため、第七七師団の多くの兵隊が殺されたが、従軍記者アーニー・パイルもまたここで悲劇的な最期をとげたのである。
 パイルは、四月十八日、連隊の指揮官と二人でジープに乗り、前線へいくところだった。ちょうど町はずれにさしかかったとき、道路わきの丘のうえにかくれていた日本軍の一機関銃が撃ってきた。二人は、かたわらのみぞに飛びこんでかくれた。二、三分後、パイルが頭をあげた拍子に日本軍の一弾は被っていた鉄かぶとの縁の下から、ちょうどこめかみに命中し、彼を一瞬にして即死させた。
 この日本軍陣地も、わずか三時間後には壊滅されたのだった。
 パイルは伊江島の第七七師団墓地に埋められ、生木の墓標がたてられた。この墓標はのちになって石碑にかえられた。碑には、「この地点で、第七七歩兵師団は、戦友アーニー・パイルを一九四五年四月十八日失う」と刻まれた。

(上掲『日米最後の戦闘』)

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(左から)クラスプ衛生兵、ベンゼル大尉、アーニー・パイル、ウレニー伍長 沖縄にて 45年4月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号105-13-4】

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アーニー・パイル戦死の地に建立された追悼碑:筆者撮影

その他の戦況

第一防衛線 第一防衛線では13日以降17日まで局地的な戦闘は発生したものの、戦況は全体として停滞しており、米軍は次期攻勢の準備中と看取された。これをうけて第32軍も米軍の次期攻勢に備えて防備の強化を続けた。
 この日、知念半島方面において、米軍の掃海作業が見られ、同方面に対する米軍の上陸企図を思わせるものがあった。
 第32軍はこの日の戦況を次のように報じた。

 球情報(十八日)
一 来襲状況 〇七〇〇~一八一〇ノ間延五八〇機、一二機、一六機ノ編隊最モ多ク敵ハ規則的ニ来襲 在空時間長シ
二 地上戦線 戦線変化ナシ 南方ニ於テ知念半島ニ対スル策動ノ兆増加

(上掲「戦史叢書」)

沖縄北部 国頭支隊は八重岳からタニヨ岳に向けて敗走を続けていたが、この日支隊本部の佐藤中尉が5~6名を率いてタニヨ岳の第3遊撃隊(第1護郷隊)本部に到着した。これにより第3遊撃隊村上隊長ははじめて国頭支隊がタニヨ岳に向けて撤退をしたことを知った。村上隊長は、佐藤中尉から食糧受領後さらに国頭北部に移動する予定であることを聞いたが、支隊長到着までタニヨ岳に留まるよう指示した。
 なお米軍は八重岳を中心に本部半島一帯の掃討作戦を展開したが、この際、真部山の陣地から多くの軍の書類を押収し、捕虜や住民からの聴取と合わせ、国頭支隊の動静を把握したといわれる。

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国頭支隊の平山隊(独立重砲兵第100大隊)の陣地から重要書類を押収する米軍 奥の兵士が持っている書類に「平山隊」と記されているように見える:沖縄県公文書館【写真番号87-32-2】

 その他、第3遊撃隊は引き続き米軍と遊撃戦を繰り広げており、この日も川上開墾付近に位置する第1中隊が米軍の偵察隊を襲撃したという記録もあるが、先日の真喜屋、稲嶺、源河方面への遊撃戦もそうだが、村上隊長は護郷隊員の遊撃戦闘について、護郷隊の戦史の刊行にあたり

 わが少年護郷隊の沖縄戦に於ける勇戦奮闘の挙は、かの幕末会津の白虎隊が飯森山上に郷土の灰燼を眺めつゝ血涙のうちに自刃した精神と相通じ、その神出鬼没年少気配の戦士の奇襲攻撃や秘密遊撃戦は敵の心胆を寒からしめ、戦史に稀有の貴重な一ページをつくったものである。

(護郷隊編纂委員会編『護郷隊』)

と述べ、称賛している。もちろん護郷隊の戦史でわざわざ否定的な感慨を述べることもないのだろうが、実際に護郷隊の戦果は「敵の心胆を寒からしめ、戦史に稀有の貴重な一ページをつくった」ようなものだったのだろうか。『名護市史』は米軍側の記録を振り返り、護郷隊の遊撃戦が米軍にとってそこまで意識されていなかったことなどを明らかにしている。
 護郷隊の少年たちが悲惨な戦場で精いっぱいの働きをしたことは間違いないが、「護郷隊は勇敢だった」というような「護郷隊史観」あるいは「村上隊長史観」の見直しも提起されている。護郷隊史観の見直しは、同時に国頭支隊や同支隊宇土武彦支隊長が卑怯で憶病であったという評価の見直しにもつながるが、このあたりについてはまたあらためて論じたい。
 また恩納岳の第4遊撃隊(第2護郷隊)は、引き続き第一次恩納岳の戦闘を展開していたが、この日石川岳から移動してきた要塞建築勤務第6中隊の二個小隊が恩納岳に到着し、岩波隊長の指揮下に入ったが、4月末には恩納岳を去り5月初頭には石川岳に移動した。

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攻略した丘から谷へと進軍する第4海兵連隊 45年4月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号89-30-2】

宮崎作戦部長の日記より

 大本営陸軍部作戦部長宮崎周一中将のこの日(とみられる)の日記には、戦況上奏にあたっての昭和天皇の言葉が記されている。

○一、上奏 御下問
 1、国崎支隊カヨク奮斗ヨロシイ
 (一応調査ノ事、尚取纏メテ伝達スルコト)
 2、沖縄方面上陸最中ニ攻撃撃破シ得サルヤ
 (大ニ勉メタルモ各種ノ事情ニ依リ成果意ノ如クナラス)
 更ニ遠イ処ヨリ行フテハドウカ
 (状況可ナレバ不可能ナラザルモ)

(軍事史学会編『大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌』錦正社)

 「国崎支隊」とはあるいは国頭支隊のことか。また「沖縄方面上陸最中ニ攻撃撃破」とはどのような状況をいうのか。地上部隊が水際で攻撃することをいうのか、あるいは航空特攻を行えということなのか。いずれによせ昭和天皇の積極的な軍事指導が窺える。なお()内は昭和天皇の御下問に対する軍側の奉答である。
 また第5航空艦隊宇垣司令長官のこの日の日記には、昨17日の戦況上奏にあたり昭和天皇が侍従武官に「海軍は沖縄方面の敵に対し非常によくやっている。しかし敵は物量を以て粘り強くやって居るからこちらも断乎やらなくてはならぬ」との御言葉をかけたとある。

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沖縄の少年とその弟 45年4月18日撮影:沖縄県公文書館【写真番号77-02-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『伊江村史』下巻
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第8号(琉球新報2005年4月21日)

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空襲をうけ炎上する伊江島の集落 中央の岩山が城山:沖縄県公文書館【写真番号110-24-3】(siggraph2016_colorizationでカラー化)