見出し画像

【沖縄戦:1945年4月23日】第一防衛線の崩壊と第二防衛線の構築─「ありったけの地獄を一つにまとめた」前田高地の戦いへ

23日の戦況

第一防衛線 
 首里攻略を目指す米軍の南進部隊は、引き続き第32軍の第一防衛線である主陣地帯全線で攻勢に出た。
 西海岸の守備隊は、城間北側陣地および安波茶陣地を確保し、米軍の突破を阻止した。付近の伊祖城跡および伊祖東側高地で孤軍奮闘していた独立臼砲第1連隊、独立歩兵第15大隊、独立歩兵第21大隊の各一部は、この日夜逆襲をおこなったのち、安波茶地区に撤退した。
 嘉数陣地はこの日、米軍の攻撃はうけなかった。
 西原および棚原の高地帯では激戦がつづき、独立歩兵第12、第14大隊を基幹とする守備隊は戦力を極度に低下させたが、辛うじて陣地を保持した。
 東海岸の独立歩兵第11大隊正面はこの日、米軍の攻撃は活発ではなかった。
 なお、この日20時ごろ、浦田国夫少尉率いる浦田挺進隊(桜挺進隊)が北部連絡のため軍司令部を出撃し、23時ごろ与那原に到着した。挺進隊は与那原から海上挺進第26戦隊の特攻艇に乗船し海路国頭に向かうことになっていた。なお浦田挺進隊が与那原に向かう途中、護衛の師範学校生20名を指揮した林三夫少尉が艦砲射撃により戦死した。

沖縄北部
 沖縄北部タニヨ岳に拠点を構える第3遊撃隊(第1護郷隊)の第2中隊主力はこの日未明、名護北東4キロの川上付近の米軍を攻撃し、若干の戦果をあげた。
 一方米軍は、この日正午ごろからタニヨ岳周辺に猛烈な集中砲火をくわえた。タニヨ岳には護郷隊のみならず八重岳から撤退した国頭支隊も拠点を構えていたが、支隊本部での検討の結果、名護付近の米軍の砲兵破壊のため強力な挺進斬込隊を派遣することに決し、護郷隊村上隊長が指揮をすることになった。
 村上隊長は護郷隊の第2中隊菅江敬三中隊長に拠点のタニヨ岳死守を命じ、隊本部および海軍部隊の一部を含めて指揮し、この日15時名護攻撃のためタニヨ岳を出撃した。そしてこの日20時ごろタニヨ岳南方の第一次集結地に潜伏した。そして翌24日に偵察をおこない、25日に攻撃を開始することになる。
 なお、この際、タニヨ岳に残った護郷隊の少年兵に屋比久松雄という少年がいた。後に彼は「スパイ」容疑で上官の分隊長の命令で殺害されることになるが、これについてもあらためて触れることになる。

津堅島
 4月6日に偵察部隊が上陸し、10日11日と本格的な米軍部隊の上陸と戦闘がおこなわれた勝連半島沖の津堅島ではこの日、米軍が再び上陸した。米軍は10日11日の戦闘で津堅島の危険は除去したと考えていたが、あらためて日本軍が津堅島を利用することのないよう再度上陸、制圧することにしたようだ。
 米軍はこの日未明、島の北海岸から上陸し、部隊が拠点とした36高地を襲った。米軍は洞窟陣地の入口をふさぎ、爆薬や手榴弾で攻撃し、火炎攻撃もしたという。
 米軍は10日および11日の上陸と戦闘後、島を早々に撤退したが、これにともない同島守備隊の亭島隊長らは勝連半島を経由して与那原付近に撤退した。その際、西脇中尉の一隊は米軍に追跡されたため島に戻っていた。亭島守備隊長は島の負傷者を収容するため、クリ舟2隻を島に派遣し、西脇中尉は負傷者などをまとめ、あらためて22日に島を出発しようとしたが、乗船完了が23日の未明となったため、出発をあきらめた。そうしたタイミングで米軍が上陸し、36高地の洞窟陣地などを攻撃し、西脇中尉らは戦死したのであった。
 米軍は住民の収容をすすめた上で島から一時撤退し、27日28日と再度上陸し、島の掃討と住民の収容をおこなった。この際収容された住民は南風原に移動させられたという。
 このように津堅島では、米軍が上陸、戦闘、撤退が数度にわたって繰り返された。それにより津堅島の戦いは、亭島守備隊長率いる守備隊が米軍を何度も撃退したと「伝説」のように語られることがあるが、米軍はあくまで偵察、戦闘、制圧、住民の収容と作戦目的にそって上陸と戦闘、撤退を繰り返したのであり、守備隊が米軍を撃退したという伝説がありえないことはいうまでもない。

軍の戦況報告 
 第32軍はこの日の戦況を次のように報告している。

一 西原以東地区ノ攻撃活溌ニシテ特ニ一五七、一四二、棚原北側、西原及同東側熾烈ヲ極メアルモ我ハ敢闘中 西原以西地区ノ敵ハ活発ナラサルモ兵員資材ヲ前送伊祖附近ニ陣地構築ヲ実施シツツアリ
二 我戦力 西原以東第六十三旅団(四大[四個大隊という意味])約一、〇〇〇名、西原以西六十四旅団(三大[同])約二、〇〇〇名
三 本夜ヲ期シ戦線ヲ我謝、幸地、仲間各北端、宮城南端、勢理客ノ線ニ整理シ第二十四師団ヲ幸地以東地区ニ進出セシメ戦略的持久ヲ策シ好機ヲ求メテ敵ノ陣前撃滅ヲ期ス
四 来襲機数 本島延二二六機 砲撃二、〇〇〇発
  [略]

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

画像2

戦車上での血漿輸血 45年4月23日撮影:沖縄県公文書館【写真番号97-22-4】

第一防衛線の崩壊

 第32軍牛島司令官はこの日、これまで沖縄南部に配備されていた兵団を北方転回し、第24師団(雨宮巽師団長)を幸地以東の地区の防衛を、第62師団に前田高地以西の地区の防衛を命じた。これにより第62師団藤岡師団長は嘉数、西原、棚原、157高地を守備していた隷下の各隊を仲間、前田地区に撤退させた。また第24師団雨宮師団長は運玉森、小波津、翁長、幸地の陣地占領を命じ、24日朝までに配置についた。
 これにより第32軍の第一防衛線は崩壊し、「いまいましい丘」と米軍が呼んだ嘉数高地の戦いが終わりを告げ、前田高地(浦添丘陵、ハクソーリッジ)を主陣地として構築された第二防衛線での激戦がはじまることになる。特に前田高地の戦いは、米軍が「ありったけの地獄を一つにまとめた」と苦々しくいうほどの戦いとなる。

画像1

第一防衛線(図中の第1線陣地と記された線)と第二防衛線(同じく5月4日の防御戦と記された線):『沖縄県史』各論編6 沖縄戦より

浦添市クチグァーガマ 前田高地の戦いによりガマに避難した住民が戦争に巻き込まれていった:NHK戦争証言アーカイブス

比嘉恒吉さん「手榴弾飛び交う前田高地」:NHK戦争証言アーカイブス

 なお第二防衛線の主陣地の一つとされた幸地の集落の住民は、日本軍の各部隊が撤退し陣地を築くため、日本兵に「お前たちは戦闘のじゃまになるから、その壕から出て南部へ行け。出て行かないなら、手榴弾を投げ込むぞ」などと脅され、避難していた亀甲墓や壕から追い出された。そのため幸地集落の住民の死者のほとんどは、幸地を出た南部で命を落としている。
 また米軍はこのころより前線の兵士が血で血を洗う激戦によって精神的に追い詰められ、異常行動をとるなどの戦争神経症を発症させていったといわれているが、これについてはあらためて確認していきたい。

画像3

本部半島を前進する第4連隊第2大隊の車両部隊 45年4月23日撮影:沖縄県公文書館【写真番号85-25-3】

新聞報道より

 読売報知はこの日、沖縄戦の戦況について次のように記している。

沖縄戦況、牧港、嘉数に敵目標
波状来攻を撃退す
荒鷲猛襲 両飛行場に火炎

 沖縄本島では去る十二日以来の我総反撃によって一旦敵の攻勢を破砕し、爾後約一週間に亙って小競り合ひの中に、敵は第一線に新鋭部隊を交替進出せしめ攻撃準備を急いでいたが、二十日に至って再び活発な新攻勢を起した。
 敵は東海岸の津覇南方から我如古北方を経て嘉数北方に至る東西約六キロの戦線に一万の兵力を繰り出し、戦車数十輌を先頭に二十日朝以来我陣地前面に猛烈な攻撃を加へてきた。その攻撃の重点は西海岸の牧港、嘉数方面に向けられ、その一部は我第一線陣地の一部に浸透してきたが、我部隊は夜襲によって殆んど大部分を奪回した。
 二十一日朝に至って敵は猛烈な砲爆撃掩護下に各正面とも戦車を伴ふ有力な部隊を以て波状的に来襲し、我第一線部隊は依然陣地を確保して来攻の敵に激しい反撃を加へ、その都度これを撃退している。敵の艦砲射撃と爆撃は日を逐って愈々烈しく、戦線付近の各部落は殆ど灰燼に帰し樹木を以て蔽はれた高地帯も殆ど清野と化しつつある。
 海上の敵艦船並に北、中飛行場に対しては引続き我航空部隊の果敢な攻撃が続行されている。二十日夜北、中両飛行場に対しわが航空部隊は数次に亙って波状攻撃を加へたが、一部隊の攻撃によって両飛行場十四箇所に火炎を起さしめ六箇所を爆発せしめたが、その他の部隊の戦果についてはまだ確認されていない。
 なほ二十日夜から二十一日払暁にかけての付近海面に於ける戦果の中、次のものが陸上から追加確認された。慶良間列島周辺に於て二十日午後九時三十五分火柱二本、嘉手納沖で二十一日午前一時火柱七本が上るのが認められ、慶良間と本島の湊川沖で敵艦船から盛に対空砲火が打ち上げられるのが陸上から望見され、我特攻隊の熾烈な攻撃を物語っている。

(『宜野湾市史』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

画像4

地元の女性たちの監督のもとジャガイモを掘るカルーソ一等兵 うまく掘る事ができず、女性たちにすぐかわられたそうだ 45年4月23日撮影:沖縄県公文書館【写真番号77-09-1】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

トップ画像

ハクソーリッジで戦死した戦友をはこぶ米兵:沖縄県公文書館【写真番号05-30-4】