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【沖縄戦:1945年4月7日】「我連続空襲ヲ受ケツツアリ」─戦艦大和、米軍機延べ約300機の猛攻をうけ沈没 米軍、名護に突入─やんばるの沖縄戦

米軍が第32軍の第1防衛線に進出

 米軍は、第96師団を中心に艦砲射撃の支援の下、戦車を伴う優勢な兵力で大謝名ー我如古ー上原ー和宇慶の第32軍の主陣地帯全線に猛攻をくわえてきた。

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4月7日8日の第1線戦況図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』より

 主陣地帯左翼の独立歩兵第13大隊は、既に昨日85高地が占領され、同大隊第4中隊の守備する大謝名東方高地が米軍の猛攻をうけ、この日夕方ごろには死傷4分の3となり壊滅状態となった。大隊長は、同中隊を嘉数の主陣地に後退させた。
 主陣地帯右翼の独立歩兵第14大隊は、左第4中隊の主陣地内に米軍が侵入し混戦状態となり、陣地が分断された。それでも我如古北東側陣地や棚原北東2キロ120メートル閉鎖曲線高地(現在の琉球大学北のイシグスクあたりか)を拠点に奮闘した。右第5中隊の北上原の陣地では、戦車約15両を伴う米軍の攻撃に対し、戦車3両を破壊して米軍を撤退させたが、最終的には陣地を占領された。
 これらの大隊を指揮する歩兵第63旅団中島徳太郎旅団長は、独立歩兵第14大隊正面の戦況が急を告げたため、幸地付近の独立歩兵第12大隊の第4中隊を独立歩兵第14大隊の指揮下とし、155高地付近(現在の中城存立津覇小学校裏の山か)の陣地を強化させた。
 独立歩兵第12大隊といえば、米軍上陸日からおよそ5日まで米軍南進部隊を引きつけつつ後退し、一定の損害を与え幸地高地の第62師団工兵隊の洞窟に撤退した賀谷支隊のことであるが、賀谷支隊そのものも大打撃をうけていた。そうしたなかで第4中隊を派遣し、さらにこの日、米軍の砲爆撃により第3中隊および機関銃中隊、歩兵砲中隊、大隊医務室の洞窟が破壊され、また工兵隊の爆薬が誘爆し、多くの者が戦死するなど、独立歩兵第12大隊の戦力は大きく低下した。
 東海岸では、南上原の陣地が健在であり、和宇慶周辺の守備隊も前線し、米軍の南進を阻止した。

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負傷兵を担架で運ぶ海兵隊員 1945年4月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号98-04-3】

米軍、名護に突入

 沖縄に上陸した米軍のうち、陸軍を主力とする部隊は南進し、海兵隊を主力とする部隊は北進したということは既に何度か述べた。
 そのうち北進部隊については6日、名護の南の許田に米軍戦車揚陸艦2隻が揚陸作業を開始したが、第3遊撃隊(第1護郷隊)村上隊長はタニヨ岳の一角からこれを望見するとともに、この日未明、八重岳の国頭支隊(宇土武彦支隊長)本部から「許田に上陸せる敵戦車を本日黎明攻撃すべし」との電話命令をうけたことは既に触れた。

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沖縄北部への米軍の進出要図:米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』(光人社NF文庫)

 これをうけ村上隊長はみずから1個小隊を率いて名護岳に向かった。そして朝9時ごろ名護岳に到着し、そこから米軍が名護の西海岸に上陸中であることを確認した上で、名護岳の第1中隊の拠点に到着した。第1中隊も攻撃命令をうけ出撃していたが、戦車が所在しないため拠点に戻っていた。村上隊長は第1中隊長に対し、更に敵情偵察を行い適宜攻撃することを命じ、夕刻にはタニヨ岳に帰還した。
 名護はこの日、米軍の艦砲射撃をうけ、名護湾には上陸用舟艇も数隻確認された。国頭支隊宇土支隊長は、第2大隊に対し、名護方面の敵情偵察と戦車への攻撃を命令したが、午後には米軍が名護から屋部に前進との情報がもたらされ、対戦車戦闘を準備した。
 また、この日、名護方面は米軍の艦砲射撃をうけ、名護湾には上陸舟艇も数隻見られた。
 国頭支隊宇土支隊長はこの日朝、第2大隊に対し名護方面の敵情偵察と戦車攻撃を命令、第2大隊長は爆薬を携行した2組の斥候を派遣した。この日午後、米軍が名護から名護西北西4キロの屋部に前進との情報があり、支隊は警戒を厳にするとともに対戦車戦闘を準備した。

 海兵第二九連隊は、四月六日、許田に着き、そこから島を横切って道路沿いに戦線を敷いた。
 この辺りで、日本軍は橋を破壊したが、全く馬鹿げたやり方だった。橋のほんの一部だけが壊されたり、落ちたり、ヒビが入ったりしていたのである。これを工兵隊の方で、こわれたところだけを修理して車輌用に間に合わせの橋を急造した。しかしながら、第四海兵連隊は、橋をこわされたため進撃がおそくなった。東海岸のこのあたりでは破壊はもっと徹底し、場所によっては工兵隊は三十五メートルの橋もかけざるを得なかったのだ。
 海兵第二九連隊は偵察隊や偵察戦車隊の後から、四月七日、名護に入った。名護は沖縄島から西方に突き出ている本部半島の深く曲がったところに具合よく位置をしめた中ぐらいの大きさの町だ。部隊の先鋒は本部をまっすぐ縦に切ってそのまま平良へ北上、ほかの部隊は名護から海岸沿いの道路を西方へ安波の方向に出発した。ここで、はじめて米軍は日本軍の残兵ではなく前哨らしい組織された防衛陣地に出合った。というのは、海兵隊はここで二、三回小規模ながら銃火を交え、敵の組織的な機関銃火にぶつかったのである。
 海兵隊は、やがて本部半島に着いた。これこそ第三上陸部隊が手に入れんものと長らく狙っていたところだ。
  [略]
 偵察中隊は、四月七日、本部の南部から迂回して西部海岸の道路を伝わって行ったが、橋が破壊されていたため部隊は戦車を降り、徒歩で進撃しなければならなかった。海岸からわずかに離れた海上では五隻のLCIが中隊の進撃に歩調を合わせるように徐行して、陸上の海兵隊に先がけて丘陵地や断崖に砲弾を撃ち込んだ。偵察中隊は、本部の南西部の隅を巡り、ついに静かな瀬底島がぐっと近づいたところまで来た。ここで、放棄された塩川村落を偵察したのち引き返したが一発の弾丸も飛んで来なかった。後で捕虜が語ったところでは、彼等は絶えず米軍の行動を監視はしていたのだが、そのまま素通りさせ、もっと大きな獲物が来るのを待っていたという。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)
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現在の名護市仲尾次の集落を進撃する水陸両用戦車:沖縄県公文書館【写真番号83-22-2】

 ちなみに、近年、過去に撮影された白黒の写真(画像データ)をAIでカラー化する技術が進んでいるが、その一つとして上掲のツイートを見かけた。場所としてはおそらく名護の東江周辺だと思われるが、米軍の名護突入は1945年4月7日(早くても6日)であり、「1945年4月5日、アメリカ軍に占領された名護の街」というツイートは不正確である。この画像をツイートした渡邊氏は、あくまで画像のもともとのキャプションをそのままツイートしたとのことだが、今後「(キャプションママ)」などの注記をしていただければ親切かと思う。

第32軍牛島司令官、総攻撃を撤回

 第32軍牛島司令官はこの日、8日夜からの総攻撃について次のように訓示した。

  軍司令官訓示
 皇国ノ安危ハ懸リテ第三十二軍総突撃ノ成否ニ在リ挙軍宜シク大死一番シテ滅敵ノコトニ当ルヘシ
 我カ将兵ニハ進死アルノミ 断シテ退生アルヘカラス 戦友ノ死傷ヲ省ミルノ暇アラハ寧ロ十殺ノコトニ努メヨ 僚友斃レ一人トナルモ敢為奮進シテ醜敵ヲ滅殺スヘシ
 御稜威頭上ニ在リ切ニ敢闘ヲ祈ル
   第三十二軍司令官 牛島満

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 ところがこの日午後、浦添、那覇西方海上に戦艦3、巡洋艦4、駆逐艦2、輸送船90があらわれたこと、また艦砲射撃が激烈であったことから、軍は浦添方面に米軍上陸の可能性が高いと判断し、総攻撃の計画を撤回し、「一部をもって当面の敵を撃砕しつつ、主力を主陣地の前に進出させ敵主力を撃滅する」という陣前出撃に変更した。
 牛島司令官はこの日夜、8日夜に第62師団の一部をもって主陣地の奪回攻撃を行うことを決定するとともに、長参謀長は8日夜の陣前出撃後の軍の方策について、4月12日ごろから第62師団と第24師団を並列して大規模な夜間攻撃による殺傷攻勢を実施することを提案した。

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避難場所へ移動させるため負傷した仲間を支える2人の海兵隊員 1945年4月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号97-35-2】

「我連続空襲ヲ受ケツツアリ」

 昨6日、徳山錨地を出撃し沖縄方面へ航行中の伊藤整一司令長官ひきいる戦艦大和以下海上特攻部隊(第1遊撃部隊、第2艦隊)であるが、米軍は海上特攻部隊の動向を早くから偵察しており、すでに海上特攻部隊が大隅海峡を抜けたころより迎撃態勢を準備していた。

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戦艦大和以下第1遊撃部隊の航跡:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

 この日朝、戦艦大和以下海上特攻部隊は米軍機の偵察行動を確認したが、12時29分、米艦載機約20機を発見、同32分から米艦載機約150機を発見し、大和は砲撃をはじめる。12時40分ごろから米艦載機約200機が来襲、大和に猛攻をくわえた。13時30分ごろから米艦載機約150機が来襲し、再び大和に猛攻をくわえた。大和以下各艦艇には次々に魚雷や爆弾が命中し、延べ約300機以上もの米軍機の猛攻により、大和は14時23分に爆発、沈没した。
 海軍中央には、大和以下が米軍と会敵したこの日午後以降より「我艦上機一〇〇以上ト交戦中」、「我連続空襲ヲ受ケツツアリ」と悲壮な通信が入電し続け、最終的に「大和更ニ雷撃ヲ受ケ誘爆 瞬時ニシテ沈没セリ」と入電した。

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戦艦大和の戦闘経過:アジア歴史資料センター「戦艦大和 ~最後の戦い~」

 沈没を免れた海上特攻部隊の駆逐艦冬月、雪風、初霜などの艦艇は生存者の救出を行うとともに、連合艦隊は沖縄方面海上特攻作戦の中止を命令した。

GF電令作第六一六号(七日一六三七発令)
一 第一遊撃部隊ノ突入作戦ヲ中止ス
二 第一遊撃部隊指揮官ハ乗員ヲ救助シ佐世保ニ帰投スベシ

(戦史叢書『大本営海軍部・連合艦隊』〈7〉)

 第5航空艦隊宇垣司令長官は、大和沈没について次のように記している。

 四月七日 土曜日 〔曇〕
  [略]
 水上特攻隊たる遊撃部隊は昨夜大隅海峡を通過西航せるが、この間敵潜の発見するところとなり特別緊急信を以て敵軍に報道せられたり。
  [略]
 しかるに前記新出現の敵空母より進発せりと考えらるる戦爆機多数は喜界島付近を通過、大和隊に向かい一二〇〇頃より連続約二時間二ー三〇〇機を以て攻撃を加える。
 1YB指揮官発として初霜より大和多数被弾、矢矧魚雷二命中その他駆逐艦の損害を報告せるが、次電は初霜より大和さらに敵魚雷を受け誘爆瞬時にして沈没すると伝える。
 残るは駆逐艦二隻と航行不能の駆逐艦二隻となり二水戦司令官駆逐艦に移乗これを指揮し、GFは生存者を救出し佐世保に回航せよと命ず。
 水上特攻隊は目的地に達することなく、ここに悲惨なる全滅となれり。
 かつては山本元帥の連合艦隊旗艦となり参謀長たる余は丸一年乗艦したる後、十九年五月より余の第一戦隊司令官旗艦となりビアク作戦に、マリアナ海戦に、さてはフィリピン沖海戦に参加奮戦し、なお十一月下旬余の内地帰還まで乗艦したる懐しの軍艦大和はついに西海の藻屑となり終わりぬ。
 伊藤整一長官、森下信衛参謀長、有賀幸作艦長以下余のかつての部下たりし多数精錬の乗員と共に。嗚呼!
 余は同隊の進撃については最初より賛意を表せず、GFに対しては抑へ役に回りありたるが今次の発令はまったく急突にして如何とも為し難く、わずかに直衛戦闘機を以て協力し敵空母群の攻撃を以てこれに策応するほか道なかりしなり。
 全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き、痛憤復讐の念を抱かしむるほか何ら得るところなき無謀の挙と言わずして何ぞや。
  [略]

(宇垣纒『戦藻録』下、PHP研究所)

 米軍側の報告によると、米軍機の被害は爆撃機4、雷撃機3、戦闘機3が撃墜、パイロット4人と搭乗員8人が犠牲となった。日本側の被害としては、大和を含め海上特攻部隊全体では4044人が犠牲となった(諸説あり)。

[特集]巨大戦艦大和~乗組員たちが見つめた生と死~:NHK戦争証言アーカイブス

渡嘉敷島の状況

 赤松戦隊長以下海上挺進第3戦隊は慶良間諸島渡嘉敷島北部の複郭陣地にこもっていたが、米軍が一時的に撤退したこともあり、軍命をもってソテツのデンプンの採取や雑炊食の実行を命じるなど、糧食の確保をはかった。その他、慶良間諸島の座間味島の海上挺進戦隊第1戦隊、阿嘉島および慶留間島の第2戦隊も、このころは米軍の攻撃や行動が活発でなくなっており、持久戦の態勢に入っていた。

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慶留間島で星条旗を掲揚する米陸軍 この日撮影というが、全体の状況から見て3月下旬の上陸最初期に撮影したものとも思われる このように米軍撮影写真のキャプシンなどには注意が必要である 45年4月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号09-01-2】

漂着した特攻隊員の遺体

 この日の久米島の警防日誌には次のようにある。

 四月七日 晴  当直 内間
  [略]
一、大原西海岸フウスニー岬ニ死体漂着屋宣巡査立会ノ上同地附近ニ仮埋葬ヲナス
  陸軍航空兵伍長土屋孝雄
   北海道川西市御影村字上芽突[ママ]
    遺留品 シヤシン三枚 ガマ口一個 現金一二一、二二銭
    奉公会山里書記ニ送付方依頼引継

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍資料 沖縄戦6)

 また沖縄北部の大宜見にもこの日、特攻隊の寺内中尉の遺体が漂着したそうだ。前日6日が第一次航空総攻撃であったため、その際に戦死した特攻隊員であろうか。この特攻隊員の命とは何だったのだろうか。哀れでならない。

「スパイ」について

 米軍情報部は日本軍の通信などを傍受解析し、これをサマリーとして各方面に情報を配信していた。この情報を「マジック」というが、8日の米軍「マジック」には、傍受したこの日の海軍沖縄方面根拠地隊の通信を次のように記している。

2.沖縄ー日本 米軍スパイ活動報告
4月7日、沖縄海軍根拠地隊(海軍)は、以下の報告を送信した。
「4月7日4時、小禄地区にて銃砲で奇襲を受けた。それが止んだ後、多数のスパイが那覇地区にある留置場に勾留された。スパイは全員、日本人の身なりをしており、ある者は綿シャツを身につけ、他の者は軍に仕える民間人のように変装していた。潜入は頻繁に行われていることに鑑み、自今、スパイ潜入に対し警戒を厳とすべし」。

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 第32軍の沖縄における「スパイ」への警戒や脅えについては、これまでも取り上げてきたが、ここでは海軍沖方根における「スパイ」への言及ということで注目すべきものがある。
 まず大前提として、米軍内部に沖縄出身者を米軍上陸部隊に帯同させ、地理案内などをさせる計画はあったが、沖縄出身者の安全を保障できないことと、外国籍の者を軍に帯同させる場合、米軍上層部の許可が必要であり、この計画は現実化していないといわれる。
 上陸した米軍が着々と南進し、連日の激しい空襲や艦砲射撃のなかで軍は相当に緊張しており、沖縄蔑視と住民「スパイ」視が絡み合うなかで、現実に何でもない住民が実際に逮捕され、勾留されたものと思われる。勾留された住民は最後どうなったか。想像するだけでおそろしい。

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平良川の司令部にいる部隊長たち 「高江洲歯科医院」との看板がみえる 1945年4月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号96-39-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・同『沖縄方面海軍作戦』
・『大本営海軍部・聯合艦隊』〈7〉
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・佐藤宏治「『男たちの大和』をめぐって」(『季刊戦争責任研究』第56号)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)

トップ画像

戦艦大和の左舷に魚雷が命中し水柱があがる瞬間:Wikipedia「大和 (戦艦)」