見出し画像

【沖縄戦:1944年7月24日】サイパン陥落と捷号作戦─沖縄が決戦場として想定される 「三光作戦」を展開した部隊からなる第62師団の沖縄上陸

サイパン陥落から捷号作戦へ

 米軍のサイパン上陸とサイパン陥落により、大本営は今後の作戦指導の大転換に迫られていた。陸海軍の統帥部は44年7月18日から3日間にわたり合同研究を実施し、この日「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」が決定された。これにより大本営陸軍部は大陸命第1081号および大陸指第2089号を発し、作戦準備に着手した。
 大陸命第1081号には次のようにある。

大陸命第千八十一号(十九年七月二十四日)
一 大本営ノ企図ハ本年後期米軍主力ノ進攻ニ対シ決戦ヲ指導シ其企図ヲ撃摧スルニ在リ
 国軍決戦ノ方面ヲ本土、連絡圏域及比島方面ト予定シ決戦実施ノ要域及之カ活動ハ大本営之ヲ決定ス
  [略]

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 サイパン陥落以降の作戦は「捷号作戦」と総称され、捷一号作戦がフィリピン方面、捷二号作戦が連絡圏域、捷三号が本土方面、捷四号が北海道・千島列島方面とされた。捷二号作戦の「連絡圏域」とは、具体的には南西諸島(沖縄・奄美)・台湾・東シナ海のことである。すなわち米軍の次期攻撃先として、フィリピン、南西諸島および台湾、本土、北海道および千島列島が想定されたのであった。
 もっとも可能性の高い作戦としては、捷一号作戦すなわちフィリピン方面と考えられていたが、沖縄も明確に決戦場として位置づけられていったのである。事実、そのための部隊配備がすすめられていたことはすでに触れた通りだ。
 ただし捷二号作戦は他の捷号作戦と戦法が異なった。つまりフィリピンや本土などは部隊を機動的に運用できる地積があるが、沖縄島を中心に南西諸島にはそうした地積がないため、地上部隊が米軍の上陸を水際で食い止め、あるいは上陸した米軍の前進を遅滞させ、その間に九州・台湾・沖縄から出撃した航空戦力による集中攻撃で米艦隊に大打撃を与えるという戦法が考えられた。これはガダルカナルの戦いで大本営が構想した作戦と同様であり、沖縄を「航空要塞」とする作戦であった。
 このため沖縄には大兵力が配備されたが、あくまで主任務は飛行場建設であった。また大本営が捷一号作戦に熱中するなかで、フィリピンまでの前進基地としてやはり沖縄での飛行場建設が重視された。
 一部では「沖縄戦は日本軍が事前に企図した捨て石作戦ではない、アメリカが沖縄を選んで攻めてきたものを防衛したのだ」という見解もあるようだが、サイパン方面の戦況が悪化していくなかで何よりも軍が沖縄を決戦場の一つとして位置づけ、米軍を釘付けにし航空兵力で米艦隊を叩くという戦法を構想していた。確かにこの時点では「捨て石」ではなく「決戦場」と位置づけられていたものの、すでにこのころには軍が沖縄を戦場と考えていたことは明白であり、アメリカが勝手に攻めてきたといったような見解は通じない。

ジャック・コルビーさん「崖から身を投げた日本人一家」:NHK戦争証言アーカイブス

第62師団の沖縄上陸

 この日、第62師団(師団長:本郷義夫中将)、独立混成第59旅団(旅団長:多賀哲四郎少将)、同第60旅団(旅団長:安藤忠一郎少将)、および独立臼砲第1連隊、独立機関銃第14大隊、独立速射砲第26大隊など砲兵隊を中心とする各隊が沖縄に上陸する。そのうち第62師団は沖縄島に、独立混成第59旅団および同第60旅団は宮古島に配備される。
 軍は沖縄にこれまでの島嶼戦のうちもっとも大量の重砲や野砲などの火器を配備したが、全般的には第2次世界大戦以前の装備であり、最新鋭の米軍の装備に劣るものであった。
 なお第62師団は43年に中国の山西省太原で独立混成第4旅団と独立混成第6旅団の一部により編成された治安師団であり、44年の大陸打通過作戦の第一段階である京漢作戦など中国大陸での数々の実戦経験を有する部隊であった。
 第62師団として編成される前の独立混成第4旅団は、中国側に「三光作戦」と呼ばれる残虐な戦闘を中国大陸で経験している。こうした戦闘を経験した部隊は、沖縄においてあたかも占領地のように振る舞ったといわれ、自身の大陸での残虐な経験から「捕虜になるな、なったら殺される」と沖縄の人々に吹聴した。こうして植え付けられた強迫観念がいわゆる「集団自決」を招いたり、投降を拒否し米軍に攻撃される原因となっていった。

[証言記録 兵士たちの戦争]中国華北 占領地の治安戦~独立混成第4旅団~:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

トップ画像

第62師団も参加した大陸打通作戦で進撃する日本軍の戦車部隊:wikipedia「大陸打通作戦」より