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【沖縄戦:1945年6月10日】「ジャップハンティング」─沖縄南部で米軍の一方的な殺戮戦はじまる ビールを片手に住民の隠れる壕を攻撃する米兵たち

10日の戦況

 摩文仁司令部右翼では早朝より具志頭、玻名城、安里付近が戦車を伴う米軍部隊の攻撃をうけた。米軍は艦砲、砲兵、迫撃砲、戦車砲により守備隊の陣地を徹底的に破壊した後に歩兵を前進させるという着実かつ強力な戦法を採り、さらに火炎戦車による火炎攻撃は洞窟陣地に致命的な打撃を与えた。
 第32軍は艦砲射撃を緩和するため、航空部隊に対して湊川(港川)沖の米艦を航空特攻で攻撃するよう要望した。
 そして米軍は具志頭を制圧し、玻名城東側の91高地前方に進出した。具志頭の陣地を守備する独立混成第15連隊(美田連隊)1大隊は分断孤立し、安里北方台地にも米軍が進出し、安里正面も危険な状態となった。
 八重瀬岳北側も攻撃をうけ、そのほとんどは撃退したものの、八重瀬岳北側の断崖下の台地は占領された。
 摩文仁司令部左翼でも米軍の動きは活発化し、糸満、照屋、大城森などの前進陣地が猛攻をうけ、米軍はこの日夕には国吉北側、大里北側、与座西側、世名城まで進出し、主陣地での戦闘がはじまった。

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10日の島尻地区の戦況図 赤線が米軍の進出ライン:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』<10>より

 摩文仁司令部左翼を守備する第24師団長は、隷下の歩兵第22連隊第3大隊(緒方大隊)および野戦病院の一部を歩兵第32連隊長に配属し、師団防衛地区左翼の強化をはかった。歩兵第32連隊長は緒方大隊を連隊予備とし、野戦病院の要員を歩兵第32連隊第2大隊に編入した。
 軍砲兵隊はこのころ15糎榴弾砲15門が健在であった。
 軍はこの日の戦況を次のように報じている。

 具志頭ー富盛正面ニ於テ目視シ得タル敵第一線兵力ハ戦車二十数輌及歩兵兵力二、五〇〇ニシテ其ノ攻撃ハ猛烈ナル艦砲、迫撃砲及戦車砲ノ陣地破摧射撃御歩兵ヲ推進セシムル常套本格的攻撃ニ移転シツツアリテ其ノ重圧ハ特ニ具志頭及安里方面ニ在リ 安里北側台地ノ主陣地ノ一部ハ遂ニ敵ニ奪取セラル 守兵ハ飲料水、食糧及弾薬ノ欠乏ニ苦シミツツ岩石地帯ノ不完全ナル急造蛸壺ニ拠リ熾烈ナル砲爆撃下善戦敢闘ヲ続ケアリテ富盛以西ニ於テ国場ー東風平道及小禄ー賀数道ヲ南下セル敵ハ東風平村、志多伯、賀数附近ヨリ逐次世名城、高良、与座、大城森、兼城、糸満等防衛ノ我カ前進部隊ヲ攻撃連日逐次兵力ヲ増強中ニシテ其ノ第一線兵力戦車三〇歩兵二千~三千ト推定セラレ同方面ノ我主陣地ニ対スル本格的攻撃開始ノ時機数日中ニ在リト判断セラル
 軍ハ砲兵ノ巧ナル統一使用ニ依リ少数ノ弾薬ヲ活用シ適時適所ニ敵ノ攻撃準備竝ニ攻撃特ニ戦車ノ進出ヲ撃破スルト共ニ急造爆雷、急造爆薬投擲機、急造手榴弾等ヲ活用スル靭軟戦法ヲ第一線ノ有ユル戦闘ニ巧ニ利用シテ主陣地線ノ確保持久ヲ企図シアリ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 先ほど述べた通り比較的健在であった軍砲兵隊の榴弾砲と急造爆雷などによる斬込みをほとんど唯一の戦法で戦っていたという状況が記されている。このころの急造爆雷を中心とする軍の戦法について八原高級参謀の回想に次のようにある。

 陸海空三位一体で猛攻する敵に対し、旅団は頑強によく戦っている。陣地の右翼方面は珊瑚岸地帯なのでほとんど工事はできず、タコ壺も意の如く掘れず、しかも海空に暴露した地形であり、損害は刻々増加する。
  [略]
 急造爆雷は、十余トンの爆薬がまだ残っているから、どんどんいくらでも製造できると、軍兵器部長平岡大佐が請け負った。敵戦車群は、我々のあらゆる努力にかかわらず、わが陣内を暴れ回るのを止めない。幸い、日没ごろになると、その攻撃基地まで後退するのを例としたので、我々は夜間、陣容をなにがし程度建て直して戦闘を続けることができた。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

 なお、この日、米第10軍バックナー司令官は牛島司令官に「降伏勧告」の文書を送った。どのような内容か不明ながら、米軍は翌11日に糸満の高地上で日本軍の軍使を待ったという。ただし軍司令部に「降伏勧告」が伝わったのは11日以降だったという。

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シュガーローフ・ヒルの頂上からの眺め 画像の左奥が米軍が最初に進攻してきた安謝川方面といわれるが、こう見るとシュガーローフ・ヒルがいかに戦略的に重要な地点であったかわかる 45年6月10日撮影:沖縄県公文書館【写真番号92-12-3】

重爆機の強行着陸による兵器補給

 大本営陸軍部は5月下旬ごろより兵器の空中投下を企図し、第6航空軍に実施を指示した。これをうけて第6航空軍は5月28日に重爆機4機を出撃させたが、天候不良のため引き返した。6月3日は6機出撃し1機が投下に成功、7日は4機が出撃したが天候不良のため不成功となった。
 第6航空軍菅原司令官はこの日、第32軍への補給を空中投下のみならず強行着陸で実施することを決意し、重爆3機の強行着陸と5機の空中投下を計画した。しかし、この日午後の天候は不良であり、実施部隊からも着陸に自信がないとの報告もあって、実施を取りやめた。
 なお12日に重爆4機による空中投下に成功している。

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亀甲墓に突き刺さった米軍のロケット弾の不発弾 亀甲墓には住民が避難していることが多く、万一住民が中にいて、かつロケット弾が爆発していたら大きな被害が出ていたことだろう 45年6月10日撮影:沖縄県公文書館【写真番号74-07-4】

ジャップハンティング

 先ほど述べた通り、このころの米軍の攻撃戦法は、まず艦砲射撃や砲兵部隊、迫撃砲、戦車砲によって日本軍陣地を徹底的に破壊したのち、歩兵を前進させるという着実かつ強力な進軍のスタイルをとっていた。また兵士による火炎放射や火炎戦車による火炎放射での壕やガマへの攻撃は、内部にいる者に致命的な打撃を与えた。
 こうした米軍の「チームプレー」のような攻撃、進軍のスタイルが効果的であることは、米軍側もよく認識していたようだ。

 戦車隊は六月十日の朝六時、ほそい道路上を砂塵をたてて前線に邁進した。第七師団の支援部隊として完全な一個大隊が掌中にあり、またその朝、八重瀬岳攻撃に向かった第九六師団には、二個中隊が別に配属されていた。
 沖縄戦の様相は一変した。そして、戦闘の終了まで、戦車は自由奔放に充分に活躍した。天候にも恵まれ、地形も良かったので米軍火炎砲戦車は、日本軍の壕陣地をつぎつぎと壊滅し、そのたびに砲火の量は、しだいに減っていった。
 この戦闘でもっとも重要なことは、戦闘を通じて歩兵も戦車隊も経験を積み、ほとんど完璧に近い戦車─歩兵のチームプレーができたことである。
 沖縄南端の戦闘は、オレンジ色の火の玉と、銃砲弾、爆弾、ロケットなどの入り乱れた百雷のような大音響の連続であった。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 米兵が戦闘に慣れ、練度があがったことによってチームプレーができたことはもちろんそうなのだろうが、第32軍が堅牢に構築してきた主陣地を突破され、ほぼ兵力もない状態で南部にこもったこと、つまりあまりに日本軍が貧弱な態勢であることから、米軍も思うようなチームプレーの戦闘ができたのであろう。
 チームプレーという呼び方は何かスポーツのようなさわやかさのある呼び方であるが、実態はそのようなものではない。米側はこのころの戦闘を「ジャップハンティング」と呼んでいる。まさしく米軍による一方的な殺戮戦であり、狩猟のように日本兵を追い込み、その命をもてあそんでいったのが「チームプレー」の内実であった。日本兵の死体は無数にそして多くの住民が米軍の「ジャップハンティング」に巻き込まれ、殺害されていった。
 南部へ避難した伊智萬理子さんは、米軍の馬乗り攻撃について次のように証言する。

片手でビールを飲みながら馬乗り攻撃をする米兵の姿を語る伊智さん:NHK戦争証言アーカイブス

 猛烈な米軍の攻撃を語る伊智さんだが、ビールを片手に人々を攻撃する米兵もおり、なかには寝てる米兵も目撃したという。この出来事がどこでの出来事か伊智さんの証言からははっきりしないが、話の流れから南部の壕での出来事かと思われる。いずれにせよ米軍と日本軍の圧倒的な戦力の差があるからこそ、米兵も片手で酒を飲みながら戦闘ができるのであろう。まさしく一方的な殺戮戦を象徴する証言である。
 同時に、いくらなんでも酒を飲みながら戦場に立ったり、そのまま酩酊したのか寝てしまう米兵も正気を失っているようにも思える。あるいは激戦により米兵の精神が蝕まれ、酒を飲みながらでないと戦場に立てないような精神状態を象徴しているのかもしれない。

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南部の八重瀬岳(ビックアップル・リッジ)に進軍する第96師団第381歩兵部隊の偵察隊 45年6月10日撮影:沖縄県公文書館【写真番号05-23-2】

海軍部隊の戦闘

 小禄、豊見城地区で死闘を展開している海軍沖縄方面根拠地隊だが、少しずつ米軍に包囲され、追いつめられていった。海軍司令部壕のある豊見城西側の74高地も米軍の攻撃をうけた。海軍沖方根各隊は各所で果敢に抵抗を挑むが、次第に司令部周辺に撤退せざるをえなくなった。
 海軍沖方根大田司令官はこの日の戦況を次のように報じた。

 一一一二一八番電
 沖縄連合陸戦隊戦闘概報

一 平良、宇江田、伊良波方面及高安、宜保、地覇方面敵兵力次第ニ増加七四高地ニ近接午後ヨリ銃砲撃戦展開セリ
二 饒波川東岸敵陣地ニハ著変ヲ認メラレズ□□□長堂□道路往復ノ「トラック」ヲ銃撃相当ノ損害ヲ与ヘツツアリ
三 小禄部落ヨリ一四〇〇戦車二、敵約五〇名豊見城道ヲ南下シ来レルモ戦車一擱坐一破壊之ヲ撃退セリ
四 金城、赤嶺、宇栄原ノ線ニ於テハ我敢闘逐次圧縮全兵力ノ一部陣地収縮ヲ実施スルノ止ムナキニ至ル
五 確認セル戦果 人員殺傷二五〇戦車擱坐炎上四
六 被害 戦死傷一一〇

(上掲『戦史叢書』)

 この日、牛島司令官は大田司令官に真情を吐露する電報を打電した。打電内容は不明だが、とにかく南部へ撤退し共に戦うことを求めた文章と思われる。
 これに対し大田司令官は次のように返電した。

 小禄地区ニ敵ヲ邀ヘ一周日ニ際シ御懇電ニ接シ感激ニ堪ヘズ 海軍部隊ガ陸軍部隊ト合流スル能ハザリシハ真ニ已ムヲ得ザルニ出デタルモノニテ固ヨリ小官ノ本意ニ非ズ 従ツテ南北相分ルルト雖モ陸海軍協力一体ノ実情ニ於テハ聊カノ微動アルモノニ非ズ
 今後ハ貴電ニ従ツテ益々柔軟ナル持久戦ヲ以テ敵ニ大出血ヲ強要セントス 尚戦果ニ就イテハ努メテ正確ヲ期シ確認セルモノノミヲ御報告ス

(同上)

 また佐世保鎮守府司令長官より、牛島司令官にこれまでの感謝と「万事ノ措置ハ現地指揮官ニ一任致度 御諒承ヲ得度 切ニ貴軍ノ御健闘ヲ祈ル」との一文を添えた電報があった。「万事ノ措置ハ現地指揮官ニ一任致度」は、牛島司令官に全てを任せますという意味なのか、あるいは佐世保鎮守府という海軍司令部から牛島司令官に「万事ノ措置ハ現地指揮官ニ一任致度」ということから、海軍沖方根の命運は大田司令官に全て託し、大田司令官の思うようにやらせて欲しいという意味なのだろうか。

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小禄の日本軍海軍部隊へ砲撃する指示を待つミリガン海兵隊砲兵伍長 45年6月10日撮影:沖縄県公文書館【写真番号84-06-3】

久米島の動向

 久米島警防日誌によるとこの日、沖縄島よりクリ舟に乗り9人の兵士が島に辿り着いたとある。

 六月十日 曇 日 日直 日直 上江洲智允 我那覇保系
  [略]
一、本日午前六時頃大田ニ本島ヨリクリ舟ニテ兵九名来島(海兵二陸兵四、外三人)午後山隊ヘ全員出頭サス 九時頃鳥島人ノ話ニ依リ団長ハ早速仲村渠局長ト共ニ大田迄出頭調査セリ 特別使命ナシ逃避ノウタガヒ有山海軍隊ニテ調査ス 右ハ大田ノ伝令案内山ノ兵舎合宿スルコトニセリ一行荷物ハ大田警防団ガ山迄揚ゲルコトニス
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 元陸軍二等兵の渡辺憲央という人物の証言として、沖縄戦下の45年6月20日ごろ、陸軍4名の海軍2名、その他民間の少年1名でクリ舟に乗って沖縄南部を脱出し、久米島に辿り着いたというものがあり、沖縄県史に収録されている(渡辺氏は戦後、沖縄戦の体験記を出版するなどしているようだ)。渡辺氏の証言と警防日誌に記された兵士の来島の日付や人員などに若干異同があるが、前後の状況からおそらくこの警防日誌における兵士の来島は、渡辺氏らの来島のことを指しているのではないだろうか。
 渡辺氏の証言によると、来島後、渡辺氏ら陸軍は島にいた陸軍グループと合流し生活を始めたということであり、海軍兵らは鹿山隊に合流したということである。久米島における海軍鹿山隊の暴虐はよく知られているが、じつはこの久米島にいた陸軍グループもやっかいな連中で、住民から物資略奪まがいのことをするなどしていた。
 こうした島の状況をうけ、久米島に配備されていた海軍鹿山隊はこの日、次のような通達を出している。

 久米島部隊指揮官
具志川仲里村警防団長殿
  通達
敵国「スパイ」ノ何時潜入スルヤ知レザル現状ニ在リ乍ラ海岸監視充分ナラザル傾向アリ一層緊張シ勤務ノコトニ督励アリ度味方部隊ト雖島外ヨリノ来島者ハ近寄ラザルバ確認出来得ザルニ部落ニ上陸シテヨリ届出ズル等ハ不可ニシテ舟ノ見エタル時ニ報告スベキモノニシテ味方ナリト確認上陸後ハ如何ナル情況ノ下ニ在リト雖警防団員ヲシテ早急ニ報告セシムルト共ニ部落ニ休憩セシムルコトナク当隊ニ向ケ直ニ出発セシムル様取計ラハレ度
敵「スパイ」ノ潜入ハ味方ノ如ク公然ト来ラザルハ当然ナリト雖如何ナル方法ニ依リ何時潜入スルヤモ知レズ特ニ雨天霧等ニテ視野悪シキ時ニ対スル海岸監視ニ留意サレ度敵「スパイ」ハ飛行艇ニ依リ浮船利用シ潜入シタル例多シ瞬時モ海岸監視ノ日ヲ怠ルベカラズ
団員並ニ一般部落民ニ至急通知ノコトニ取計ハレ度 (終)

(同上)

 渡辺氏の証言によると、沖縄島から久米島までの海路は大波で大変であったが、島には警戒されるわけでもなくすんなりと上陸でき、島の住民に事情を説明すると親切に雑炊をもてなされ、海水でべたべたになった体を洗うこともでき、朝方の来島であったが夕方まで寝ることもできたという。
 こうしたことから鹿山隊長は島への敵の上陸、特に「スパイ」の上陸は易しとして、警防団に警戒を厳とするよう通達を出したのであろう。敵や「スパ」上陸への恐怖と住民の警戒心のなさや軍の命令の不徹底への怒り、見せしめの必要性、敵と住民が通じることへの疑心暗鬼、住民「スパイ」視、沖縄蔑視、そういったものが混ざり合うなかで海軍鹿山隊の住民虐殺は発生していくが、この鹿山隊の通達にも住民虐殺一歩手前の鹿山の恐怖や憎悪、疑心暗鬼、怒りといった心理が渦巻いているように思える。

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グアムで捕虜だった日本人の軍医と衛生兵が輸送艦で沖縄に移送される前に船着場で待っているところ 沖縄では民間人捕虜を治療する予定 45年6月10日:沖縄県公文書館【写真番号111-34-3】

中央政界の状況

 この頃の中央政界では、9日より帝国議会の臨時議会が開会された。会期は当初2日間の予定であったが、最終的に4日間に延長された。審議された法案は戦時緊急措置法や義勇兵役法など6本であった。
 戦時緊急措置法は23日から施行されることになるが、そこでは帝国議会の権限停止や内閣に独裁権限を与えることになっており、当初全権委任法として期待されていたものである。翼賛体制・総力戦体制で全ては戦争のために動員され民主主義も何もなかった状況とはいえ、議会停止、内閣の独裁などが法的に認められる法律が通ったなどとは、本当に日本の終わりが近づいていたといえる。
 義勇兵役法は簡単にいうと15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子を必要に応じ正規の軍人ではない兵士として国民義勇戦闘隊に編入し、戦闘に参加させるものである。沖縄で何の法的根拠もなくおこなわれていた「根こそぎ動員」を日本全国でおこなうというものである。
 また、この日、勅令により地方統監府官制が公布施行された。北海道、東北、関東甲信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州の八統監府を設置し、47都道府県をその下に配置し、統監府に多大な権限を与えるものであり、実質的な道州制の導入であった。

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フェルト帽をかぶり、戦争の後片付けをする年配の沖縄住民 45年6月10日撮影:沖縄県公文書館【写真番号78-22-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・戦史叢書『大本営陸軍部』<10>
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・「沖縄戦新聞」第11号(琉球新報2005年6月23日)
・内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】久米島

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壕を火炎放射器で攻撃する海兵隊員:沖縄県公文書館【写真番号83-04-4】