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【沖縄戦:1945年3月25日】「いざとなったらこれで死になさい」─慶良間諸島で軍が「自決」用手榴弾を配る

米軍の空襲、艦砲射撃つづく

 昨日、一昨日に引き続き、米軍の空襲や艦砲射撃が沖縄全域を襲う。沖縄島だけで米軍機延べ515機が来襲、4群44隻の米艦艇が集結し、200発もの艦砲射撃をおこなった。
 こうした状況下、第32軍牛島司令官は、甲号戦備を下令する。これをうけ第32軍各隊は、陣地の補備補強、諸資材の整備、飲料水の陣内貯蔵、監視網の強化など、米軍上陸に向けて臨戦態勢をとった。
 軍司令部のなかには、あるいは米軍は一時沖縄を離れるのではという希望的観測もあったが、米軍の空襲や艦砲射撃の勢いは衰えるどころか激しさを増し、終日にわたって攻撃が続いた他、那覇、糸満西方海域では掃海作業が看取された。
 また那覇南東75カイリに空母3の1群、那覇南南東270カイリに空母2の1群の計2群の米機動部隊が発見されるとともに、米輸送船19隻がパラオを出港したとの情報ももたらされ、沖縄に向けて続々と米軍の大兵力が集結しつつあることが確かとなった。

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沖縄攻略作戦に備えて軍艦に乗りこむ第2海兵師団の兵士ら 1945年3月25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号100-16-3】

 このころの艦砲射撃の状況について、米軍側は次のように記している。

 沖縄に対する艦砲射撃は、上陸支援部隊が、三月二十五日、南東部海岸を攻撃したときからはじまった。しかし、この艦砲射撃は、その前日までは、まだ機雷掃海が沖縄沿岸でさかんに行われていたため、遠距離からしか砲撃できなかった。しかし、二十六日以後、機雷掃海隊が急速に沖縄沿岸近くの海面を掃海するにおよんで、艦隊はしだいに陸に近づき、より激しい、また、より正確な艦砲射撃を加えることができるようになった。日本軍は、渡具知海岸への水路一帯に、強力な機雷を敷設してあった。したがって、米軍はその掃海作戦が完了するまでは、うかつに海岸近くには寄れなかったのだ。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 日本側戦史によると、24日の時点で米艦船による湊川を中心とする沖縄南部具志頭・玉城方面への艦砲射撃が開始されており、若干の日付の異同が見られるが、おおむね状況は一致している。
 軍司令部は、慶良間諸島の現地部隊から「慶良間諸島の渡嘉敷、阿嘉、座間味の各島に米軍上陸」との報告をうけ、慶良間諸島に配備されている特攻艇部隊である海上挺進戦隊に攻撃命令を発し、状況によっては那覇に転進すべきことを命じた(後に米軍上陸の報は誤報であることがわかった)。
 このころ湊川方面の配備についていた第24師団歩兵第89連隊第5中隊の陣中日誌には次のようにある。

一、中隊ハ山七六深作命第四号ニ基キ担任地区内ノ道路及諸施設ヲ破壊阻絶セントス

(歩兵第89連隊第5中隊「陣中日誌」:JACAR Ref.C11110050900)

(歩兵第89連隊第5中隊「陣中日誌」:JACAR Ref.C11110050900)

 米軍上陸に備え、道路や様々な施設を破壊するとある。そうした行動は、軍事作戦としては常道なのだろうが、さらに陣中日誌を見ていくと、それらは「道路及諸施設破壊阻絶要領」として道路や施設の破壊に留まらず、「井水ノ汚毒」を実施するとある。要するに井戸に毒物を入れるなどして汚染させ、飲めなくするというのだ。水源を断って敵の補給を苦しめるという点では有効な方法かもしれないが、その周囲に生きている住民のことは何も考えていない「軍隊の論理」が垣間見れる。

笹森兼太郎さん(歩兵第89連隊)の証言 米軍上陸直前の沖縄南部の状況についても証言している:NHK戦争証言アーカイブス

沖縄への独立混成連隊派遣の中止

 第10方面軍は、独立混成第32連隊を沖縄へ派遣し、沖縄現地の兵力増強をはかる予定であったが、大本営陸軍部はこの日、沖縄の状況をふまえて連隊派遣の中止を指示し、第10方面軍は翌26日、派遣中止を命令した。これにより北飛行場(読谷)周辺は、後方支援部隊によって臨時で構成された特設第1連隊(青柳時香連隊長)が防衛することになった。特設第1連隊はけして強兵といえる部隊ではなく、急造の歩兵部隊であり、飛行場防衛は事実上放棄されたといったいい。

海軍沖縄方面根拠地隊の動向

 海軍沖縄方面根拠地隊大田実司令官はこの日、米軍の上陸地点は沖縄島南部の糸満方面もしくは北飛行場方面と判断し、運天港に配置していた第二蛟龍隊に攻撃を下令した。

二五一一五三番電
一 敵ノ本島上陸地点ハ糸満又ハ北飛行場海岸附近ノ算大
二 今朝来慶伊瀬島ノ北及「ルカン」礁ノ左岸海面掃蕩中ニシテ附近戦艦六、巡洋艦八、駆逐艦二〇近接シアリ
三 蛟龍隊ノ二分ノ一兵力ハ本日日没後慶伊瀬南方ニ散開待機シ攻撃ヲ決行セヨ
四 残兵力ハ現地ニ於テ待機

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 なお蛟龍とは乗員5名、全長26m、幅2mほどの小型潜水艦であり、沖縄には鶴田傳大尉の指揮する一隊11隻が運天港に所在した。

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第2海兵師団の兵員を載せ沖縄に向けて航海を続ける米艦船 1945年3月25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号90-10-3】

その他の動向

 沖縄県の島田知事は、緊急の部課長会議を開催し、米軍上陸と今後の軍との連絡を考え、県庁の首里移転を決定し、この日夕方には移転した。県庁内政部および経済部は首里南面の繁田川付近に、土木課、人口課、教学課は首里高等女学校の地下洞窟に、島田知事は那覇警察署の壕に位置した。
 名護町は、住民に避難を命令する。大宜味村で疎開者対策に対応した塩屋警察署が設置される。伊平屋の国民学校で天皇の写真である御真影を羽地に奉還する。以降、戦局が激化、悪化するなかで、御真影の奉護が学校教員にとって重要な課題となってくる。

座間味村の25日

 慶良間諸島では、早朝から艦砲射撃に見舞われた。座間味島、阿嘉島、慶留間島からなる座間味村の住民は、島を包囲するように浮かんでいる多数の米艦艇の威容と、そこから発射される艦砲射撃のすさまじさ、そしてこれまで配備されていた特攻艇がまったく出撃しない様子に絶望感が募っていった。
 座間味村には「マルレ」といわれる陸軍の特攻艇部隊である海上挺進第1戦隊(梅澤裕戦隊長)が座間味島に、同第2戦隊(野田義彦戦隊長)が阿嘉島、慶留間島に配備されるとともに、それぞれ基地隊やいわゆる「朝鮮人軍夫」からなる特設水上勤務隊や船舶工兵隊などが配備されていたが、特攻艇部隊は一向に出撃しなかった。
 この日夕方、村役場の職員が住民に非常米の配給があるので産業組合(農業組合)の壕へ受け取りにくるよう告げてまわった。これまでソテツや芋を食べてしのいでいた住民にとって、非常用の米の配給は「最後」の時が訪れたのだと理解した。

座間味村住民、「自決」を覚悟しはじめる

 この日、住民の一部は、軍の壕へ避難を試みている。軍は住民の避難を受け入れず追い返したが、その際兵士から「いざとなったらこれで死になさい」といわれ手榴弾を渡された住民がいた。また小隊長から「万が一のことがあったら自決しなさい」と手榴弾を渡され、使い方を教えてもらった者もいた。その他にも武器こそ渡されなかったが、「捕まったら強姦される。潔く自決しなさい」と兵士にいわれた女性もいた。
 同じころ、役場の助役や国民学校の校長など村の有力者が梅澤戦隊長を訪ね、「忠魂碑の前で玉砕するので弾薬を欲しい」と告げた。梅澤戦隊長はこれを断るが、助役はその帰り、忠魂碑の前に集まるよう住民に伝えた。住民は米軍に包囲された状況で忠魂碑前へ集合することの意味を「玉砕」と受け止め、最後の食事をし、身支度を整えて忠魂碑の前に向かった。

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『座間味村史』上巻
・服部あさこ「『集団自決』訴訟における軍命否定証言の背景」(『専修人間科学論集』社会学篇 第7巻第2号)
・大城将保「座間味島集団自決事件に関する隊長手記」(『沖縄資料編集所紀要』第11号)
・吉浜忍「米軍上陸前後の日本軍─第二十四師団山第八十九連隊陣中日誌にみる日本軍の対応」(沖縄県教育委員会『史料編集室紀要』第27号)

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慶良間諸島の座間味島で米軍に捕らえられた住民たち:沖縄戦新聞第6号(琉球新報2005年3月26日)