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【沖縄戦:1944年11月4日】第9師団の台湾移転─台北会議によりレイテ決戦のため沖縄から兵団抽出 戦力削減と本格化する住民の「根こそぎ動員」

レイテ決戦と各兵団の用兵

 このころの沖縄の第32軍は、十・十空襲での米軍の猛攻撃により多大な損害を出したものの、全体としてはおおむね所望どおりの兵力を得て、南西諸島一帯への部隊配備も進み、沖縄島で米軍と一大決戦に臨むとの決戦主義の方針を固めていた。
 他方、大本営は、フィリピンでの米軍との決戦(捷1号作戦)を志向し、10月下旬にはフィリピン・レイテで地上戦が始まる(レイテ決戦)。大本営は付近のルソン島や台湾の兵力をレイテに投入し、その穴埋めとして部隊を満州などから補充するなど、兵団のやりくり(用兵)に苦慮していた。さらに支那派遣軍総司令部が大本営に対し、仏印派遣兵団の穴埋めとして2個師団増加の要請をしたため、大本営は11月1日に内地総予備ともいうべき弘前の第47師団を漢口の第6方面軍に派遣するなど、用兵問題は焦眉の課題であった。
 沖縄もそうした全体状況に巻き込まれ、沖縄からの兵団抽出とフィリピン方面への投入が検討され始めることになる。

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第9師団抽出直前の沖縄島の兵団配備要図 Dは師団、MBsは独立混成旅団をあらわす記号 首里周辺は「9D」すなわち第9師団が配備されている:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

服部作戦課長の電報と牛島司令官の意見書

 レイテ決戦に関連しフィリピンに派遣されていた大本営陸軍部第2課長(作戦課長)の服部卓四郎大佐はこの日、沖縄の第32軍高級参謀八原博通大佐あてに「第32軍より1兵団を抽出し台湾方面に転用する案に関し協議したく台北に参集せられたき」旨を電報した。
 電報を受け取った八原高級参謀は、ただちに兵団抽出に関して第32軍牛島満司令官の意見書を起案し(意見書の3項まで)、長勇参謀長に提出した。長参謀長は意見書に第4項を書き加えた上で決裁し、「軍司令官の決意はこの意見書で十分である。余分なことを話すな」と八原高級参謀に注意した。
 八原高級参謀が起案し、長参謀長が書き加えて決裁したといわれる軍司令官(牛島司令官)の意見書は以下のとおり。

第三十二軍ヨリ一兵団ヲ抽出シ台湾方面ニ転用スル案ニ対スル軍司令官ノ意見
一 沖縄本島及宮古島ヲ共ニ確実ニ保持セントスル方針ナラハ軍ヨリ一兵団ヲ抽出スルハ不可ナリ
二 軍ヨリ一兵団ヲ台湾方面ニ転用シ更ニ他ノ一兵団ヲ軍ニ充当スル案ナラハ後者ヲ台湾方面ニ転用スルヲ可トスルヘシ
三 軍ヨリ若シ一兵団ヲ抽出スルトセハ宮古島若クハ沖縄本島ノ何レカヲ放棄スルヲ要ス
四 大局上ヨリ観察シ比島方面ノ戦況楽観ヲ許サストセハ将来ニ於ケル南西諸島ノ価値ニ鑑ミ第三十二軍ノ主力ヲ真ニ重要ト判断セラルル方面ニ転用スルヲ可トスヘシ

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 すなわち軍司令官としては、第32軍より1兵団を抽出するのならば、沖縄島および宮古島の両者を確実に防衛することは不可能であり、本当にフィリピン方面の情勢が緊迫しているのならば、むしろ沖縄の第32軍そのものをフィリピンに投入せよというのである。
 八原高級参謀はこの日夕方、軍司令官の意見書を持って台北に到着し、第10方面軍司令部において会議が開催された。この会議は台北会議といわれる。

証言記録 兵士たちの戦争 フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 ~陸軍第23師団~|NHK戦争証言アーカイブス

八原高級参謀の回想との相違

 以上の台北会議にいたるまでの経緯は、戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』の記述に沿ったものだが、八原高級参謀の戦後の回想によると、服部作戦課長からの電報は11月3日以前(2日ごろか)の夕方に沖縄に届き、八原高級参謀はその日のうちに意見書を作成した上で、11月3日早朝に第10方面軍差回機で台湾に向けて出発、夕方に台北の方面軍司令部に到着、台北会議が開催されたそうである。
 確かに4日に服部作戦課長の電報が沖縄に届き、これをうけてただちに八原高級参謀が軍司令官の意見書を作成して台湾に飛び、その日のうちに台北で会議が開催されるというのは、現実的には不可能だろう。
 電報の到着や起案書作成、沖縄発・台湾着が何日であったかという問題はそこまで重要ではないが、八原高級参謀はそれ以外に、服部作戦課長から沖縄に発せられた電報について、戦後の史書(おそらく戦史叢書のことか)は「兵団を台湾方面に転用」とあったと記すが、実際は「比島方面」と記されていた、服部作戦課長からの電報が「台湾方面へ転用」との内容であれば、軍司令官の意見書はもっと違う内容となっていた、という。また軍司令官の意見書の第4項も長参謀長が書き加えたのではなく、自身が記したものだという。
 軍司令官の意見書の第4項を誰か書いたかはともかくとしても、確かに服部作戦課長の電報に「台湾方面に転用」と記され、フィリピンについて何ら触れていないとするならば、軍司令官の意見書の第4項「比島方面ノ戦況」云々はいささか唐突な文言といえる。服部作戦課長の電報に何と記されていたのか、ひいては服部作戦課長そして大本営が沖縄から抽出した兵団をどこに転用・投入するつもりであったかということは非常に重要な問題である。
 戦史叢書によると第10方面軍は沖縄から一兵団を抽出し、台湾に投入したいと考えていたようだが、服部作戦課長は抽出した兵団をどこに転用・投入するかは明確に決めておらず、とりあえず沖縄から一兵団を抽出し、一時的に台湾に置くという考えであったそうだ。
 この服部作戦課長の構想は、全体の動きと関連させれば当然、沖縄から抽出した兵団をレイテへ転用・投入することについての含みがあるものと考えられる。実際、こののちに陸軍参謀本部作戦部長に就任し、レイテ決戦に向けた大陸・フィリピン・台湾・沖縄の用兵問題を担当する宮崎周一中将は、この年の12月の日誌で沖縄から抽出した兵団(第9師団)のレイテ転用・投入について検討をしている。そうすると服部作戦課長そして大本営全体として、沖縄からの兵団抽出は、一時的に抽出した兵団を台湾へ配置するとしても、基本的にはレイテへの転用・投入を視野に入れた措置だと考えていいだろう。
 こうしたことを考えると、服部作戦課長から八原高級参謀にもたらされた電報には、おそらく沖縄からの抽出兵団をレイテへ転用・投入する趣旨の文言が記されていたのではないだろうか。そうでなくとも、そうした服部作戦課長の意向が八原高級参謀に何らかのかたちで伝達されていたのではないだろうか。だからこそ軍司令官の意見書に「比島方面ノ戦況」云々の一節が記されたものと考えられる。

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服部卓四郎:Wikipedia「服部卓四郎」

台北会議

 台北会議の参加者は八原高級参謀はじめ、服部作戦課長、第10方面軍参謀長の諫山春樹中将、同参謀副長の北川潔水少将、同高級参謀の木佐木久大佐、同作戦主任参謀の市川治平大佐などであった。
 八原高級参謀は会議の冒頭、軍司令官の意見書を読み上げ、これを諌山参謀長に手交し、後は長参謀長の指示どおり多くを語らず押し黙ったという。諌山参謀長もこれといって意見をいわず、方面軍からは市川主任参謀だけが沖縄から一兵団を抽出し、これを台湾防衛に充当すると力説したそうだ。
 服部作戦課長も兵団抽出について積極的に語ろうとしなかった。また八原高級参謀の態度が心外だったようで、沖縄からの兵団抽出についての腹案であった「抽出兵団の代替は後に考慮する(兵団抽出後、沖縄に兵力を補充する)」といういわゆるバーターについての事項も述べなかった。
 こうして台北会議は要領を得ないままに終わるが、結局11月13日ごろ、大本営は第32軍の第9師団または第24師団のいずれかを抽出することに決し、その選定をせよと第32軍に内報した。第32軍は砲兵力を考慮し、やむをえず第24師団を残留させ、第9師団を抽出兵団とすると決定した。また、それ以外にも14日には中迫撃第5、第6大隊(十五糎迫撃砲計24門)のフィリピンへの抽出の大命が発せられ、両大隊は11月21日に那覇を出港した。
 第9師団の抽出により第32軍の兵力の3分の1が削られることになり、さらに中迫撃2個大隊の抽出により、軍砲兵隊の射撃力も大いに減少し、米軍を上陸時に叩くという軍の方針にも大きな影響を与えた。以降、第32軍は決戦主義から戦略持久に作戦方針を転換し、兵団・部隊の配置も大幅に変更、また大本営が至上課題とした飛行場の防衛も事実上放棄した。さらに民間人を大々的に召集する「根こそぎ動員」を開始し、戦力を補充していくことになる。住民が戦闘に巻き込まれるという沖縄戦の悲劇の下地は、こうしてつくられていった。

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第9師団抽出後の沖縄島の兵団配備要図 沖縄中南部に兵団配備が集中し、沖縄北部の防衛は第2歩兵隊および第3・第4遊撃隊(護郷隊)に全面的に任されたかたちとなる 沖縄北部は「見捨てられた島」の沖縄のなかでもさらに見捨てられた地となった:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・「沖縄戦新聞」第4号(琉球新報2004年12月14日)
・八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』(中公文庫)
・軍事史学会編『大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌』(錦正社)

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レイテ島で日本軍と戦火を交える米軍:レイテ島の戦いから71年 マッカーサー大将が上陸した日「私は帰ってきた」(画像集) The Huffington Post