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ミスタージャイアンツ

 1975年、昭和50年、僕が住んでいた広島に空前のプロ野球ブームが訪れた。それまで漫画やアニメでしか知らなかったプロ野球の世界を僕も興味を持って見るようになる。
 1974年、昭和49年、日本プロ野球を支えてきたヒーローが現役を引退する。長嶋茂雄である。彼の現役時代は僕はアニメや漫画でしかしらない。すごいヒーローであることは、それらメディアを通しても伝わってきたが、生のすごい長嶋茂雄は記憶にない。
 翌年から長嶋はそれまで現役選手として活躍していた読売巨人軍の新監督となる。前年、9年連続優勝をしてきたのをドラゴンズに阻止されて、王座を取り戻す大事な年であった。
 なにしろ当時は野球は巨人、ガムはロッテと、平気で当時のロッテの監督だった金田正一がCMで言い放つくらいの巨人絶対時代であった。TV中継も巨人中心であった。広島に住んでいるのに、カープの試合よりも巨人の試合がTV局にとっては大事であった。
 ともかくプロ野球ファンは2種類しかなかった。巨人ファンか、アンチ巨人ファンかで、ある。
 そんなジャイアンツを任された38歳の長嶋青年監督であったが、意外や、初年度の1975年は最下位に終わった。期待の新外国人選手のジョンソンは期待外れに終わり、王貞治も昨年の三冠王であったが不振に終わった。3番柴田、4番王、5番末次でSOS打線と揶揄された。
 とにかく当時のジャイアンツは弱かった。投打ともに人材不足であった。丁度新旧交代の時期でもあったのだろう。
 そんな1975年は広島カープが優勝し、広島の街だけ、空前のプロ野球ブームとなった。あまのじゃくの僕は前年の優勝チーム中日ドラゴンズを応援していた。街中が赤い色のCAPを被っている中、独り青い帽子を被っていた。
 長嶋茂雄は伝統ある巨人軍を初の最下位に落とし込んでもひるまなかった。日ハムから張本を高橋一二三とトレードで獲得し、高田を三塁手にコンバートして打線の強化を図り、投手陣は若手の新浦を鍛え上げ、底上げを図り、見事最下位の翌年には優勝をするに至るのである。
 多くの当時のヒーローたちが鬼籍に入る中、長嶋は重病を患いながらも元気である。どうぞいつまでも日本プロ野球を見守り続けていてほしい。

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