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唐人町界隈

 福岡市福浜に住んでいた頃、近くの正光寺というお寺の前に石碑が立っている。幕末維新の志士である中村円太の墓所らしい。従四位。
 偶然にもその名はしっていたので、最初見つけた時はびっくりした。一般的には無名であろう。だがWikipediaで検索すれば出てくるくらいだから、それなりには知られている人物である。
 筑前勤王党のメンバーで、何度か投獄され脱獄して長州に渡り、九州連合設立に動いた一人である。最後は維新を見ぬまま仲間に暗殺される。
 高杉晋作や中岡慎太郎と縁があったので、しっていた程度である。
 そういえば唐人町にあったこども病院あたりに幕末、枡木屋獄といわれる牢屋があった。月形洗蔵他14名の筑前勤王党メンバーが捕縛されていた。僕が住んでいたところは海か砂浜であったろう。その砂浜で月形らは斬首された。加藤司書ら身分の高い者は切腹であった。
 ほとんどが維新を見る前に死んでいった。
 生き残った志士がいる。早川勇。維新後、名を早川養敬とし、元老院大書記官等勤める。薩長同盟を最初に説いた男である。今の歴史は坂本龍馬がまるで一人で薩長同盟を結ばせたかのように書いているが、龍馬は最後の一番おいしいところを持って行っただけである。史実はいささか違うようである。月形洗蔵や中岡慎太郎、高杉晋作がいて、はじめて形になっていったのである。
 戊辰戦争がはじまると、黒田藩は筑前勤王党を弾圧したツケがまわってきた。大きく出遅れ、薩長土肥からは馬鹿にされた。
 その後、檀琢磨や金子堅太郎等輩出するが、それまでは肩身が狭かったことであろう。
 頭山満らが結成した玄洋社の活動も忘れてはならない。元福岡藩士が中心になって設立した右翼団体だが、そこから中野正剛、広田弘毅等輩出している。鳥飼八幡宮に中野正剛の銅像がある。
 
 歴史の風を感じられるところに住んでいたなあと思う。古いお寺なんかまだ残っている。亀井南冥や貝原益軒の墓もある。歴史好きにはたまらない場所である。
 
 

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