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仏教徒とは

池上彰さんの著書、『池上彰と考える、仏教ってなんですか』を読み、仏教徒とは何をもって仏教徒というのだろうか?ということを考えさせられました。

日本は仏教国と言われますが、「私は無宗教です」と言う方も多いでしょうし、宗教を日常的に意識するという人は少ないのだろうと思います。

私は僧侶ですので、熱心な方に会う機会もありますし、人が多く集まる宗教の場があるということも一般の方よりは多く耳にします。

しかし僧侶ということを意識していないとき、友人といるときなどにどれほど仏教を意識しているだろうかと考えると、あまり意識していないのではないかと思いました。「宗教は何ですか」と聞かれたら、「仏教です」と答えるだろうけど、お寺に生まれて、お寺で生活をしているというただそれだけが私にとっての仏教徒ということなんだろうか、それでいいんだろうかと思いました。

仏教徒とは?

日本には9000万人とも言われる仏教徒がいることになっていますが、

・お坊さんがお参りに来るから
・お葬式のときに仏式でするから

というふうに思っている人も多いのではないでしょうか。本当に1人1人に聞いたらぐんと減ってしまうのでしょう。お釈迦様の教えに従っているということが仏教徒であれば、私も仏教徒ではなくなってしまうのではないかと感じています。戒律も守れませんし、結婚もしていますし・・。

日本には神社での初詣やイエスキリストの誕生を祝うのクリスマス、仏教行事である彼岸やお盆などの宗教行事がまんべんなく浸透していますので、純粋に仏教行事だけをするのが仏教徒であれば、ほとんどいないのではないかと思います。外国では幼い時に宗教を自分で選ぶということがある国もあるそうですが、日本ではないでしょう。幼い頃に宗教を考えずに、クリスマスや初詣、お盆などを行事として参加して育ちますから、そこにどこかの宗教に属しているという自覚は芽生えにくいだろうと思います。


インドでは

池上さんは本書の中でインドでは

「頭を地面に埋めて逆立ちしている」
「左手を上げ続けている」

そういった修行をしている人たちがいることを紹介されていました。お釈迦さまも出家され修行をされた後に悟りに至りました。その中には戒律を守るということもあるでしょう。「出家」「修行」「戒律」を行っているということが仏教徒の自覚を芽生えさせるのではないでしょうか。


簡単に出家といっても、家や家族、財など全てを捨てなければいけません。日本ではもう難しいでしょう。悟りというものがそこまでして求めなければいけないものなのかというところから考えなければいけません。


ダライ・ラマ14世

また池上さんは本書の中でチベット仏教の最高責任者であるダライ・ラマ法王と対談をしておられます。

その中でダライ・ラマ法王が、観音菩薩の生まれ変わりとしてお釈迦様の言葉を直接説いてくれる存在として敬われているのだということを知りました。

生まれ変わりだと確かめるために、先代の法王が使っていたものを見分けられるかといったテストがあり、ダライ・ラマ14世も先代である13世の数珠や杖を正確に見分けたそうです。日本人も輪廻転生という言葉は皆知っていますが、信じているかといえば、どうでしょうか。

チベット人の多くは仏教徒で、そしてこの輪廻転生を信じているからこそ、ダライ・ラマ法王のお言葉をお釈迦様の教えの言葉として聞くことが出来る。

「人の役に立ちましょう」
「人の役に立てなくても害を与えないようにしましょう」
「非暴力の姿勢を貫きましょう」

こうした姿勢が心に平穏をもたらすんだと、法王が自ら実践しながら言ってくれる。また、

「物やお金のことを100%考えるのではなく、物とお金は60%に留めて、40%は内なる価値を高め、心によい変容をもたらすことを考えていただきたいと思います」

と、現代でも意識することが出来る言葉にして伝えてくれる法王の存在はとても大きいのではないでしょうか。

私もお経や経典の言葉を通じて、お釈迦様の言葉を聞くことは出来ます。書店には様々な仏教本があります。しかし生まれ変わりとして目の前におられる方の言葉を聞くのとでは大きな差があるでしょう。そこにも大きな仏教徒としての自覚。私はお釈迦様の言葉を聞いているという感動があるのではないでしょうか。

私にとっての仏教

仏教を信じ、実践されている本書に出てくる方々に比べれば、私のどこが仏教徒なのかと思ってしまいます。

私は浄土真宗の僧侶です。浄土真宗の宗祖である親鸞聖人自身は「出家」や「修行」をされました。しかしそれでは「出家」や「修行」をすることが出来ない民衆は救われない、お釈迦様はすべての人が救われる教えを説いたはずだと、誰もが申すことが出来る「念仏」の教えを選び取られました。

しかしこの念仏の教えは「出家」や「修行」のような特別なことではなく、親鸞聖人のように私たちが選び取ったものでもなく、いつのまにか「念仏」は私たちの前にありました。そこに私は仏教徒だという自覚は生まれにくいものと思います。

その感覚はお寺に生まれたとしても一般の方とそう変わりません。お寺に生まれたから僧侶をしていて、念仏をしている。念仏の救いを心から信仰しているのかと聞かれると自信がありません。

そもそも私はなぜ救われなければいけないのか。お釈迦さまは「生老病死」、生きるうえでの苦しみから出発しています。

現代社会は出来るだけその苦しみが少なくなるように、様々なものが発展し、その恩恵を受けています。そのおかげで「生」をおびやかされるような苦しみを感じることが少なくなったように感じます。もちろん災害やコロナなどはあるのですが、そこで苦しむ人の心に仏教がどう役に立てるのかを考えていかなければいけません。

2500年間伝わり続けてきた、誰かを救い続けてきたのが仏教であると思います。先祖供養だけに奔走せず、生き方としての仏教徒ということを考えていきたいと感じました。

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