してあげることについて

Aと改めて付き合い出してからは穏やかな時間が過ぎていった。春には2人できちんと花見した。aikoの桜の時みたいだなあなんて思いながら、Aと手を繋いで散歩した。夏は、空調の効いたAの部屋に入り浸っていた。幼馴染なので、お互いの親にもすぐ知れ渡ることになった。向こうのお母さんが気を使って買い物に出掛けたりすると、私たちは少しだけ気まずくなった。

Aは、私にそういうことを強要しなかった。でも、始終そわそわして、時折欲望がギラリと光る目を覗かせて、すぐにそれを逸らす、を繰り返した。私は何度かそれに気付かないフリをして、何度かには恥ずかしそうにはにかんだりする。
ぼそぼそと話しながら、普段は他人に見せない部分をお互いにだけ曝け出してゆく。Aの肩越しに見える窓からの景色は、幼い頃から見てきた近所の風景で、なんだか後ろめたさを感じてしまい、私は何回目になってもぎゅっと目を瞑ってしまった。

どうしてもそういう雰囲気になれない時や、女の子の日には、こちらからしてあげる、ということを覚えたのもこの頃だった。日が落ちて、空調を少し緩めた暑い部屋で、私はAの支配下にいた。Aの足下に跪き、汗ばみながら嗚咽混じりの呼吸を繰り返す。喉奥から鼻に抜ける独特の酸味、互いの呼吸音、微かに届く蝉の声、低く絞り出される声に、顎から汗が滴り落ちた。
毎回毎回、私は咀嚼したそれが腹に溜まると、妙な安心感を覚える。可哀想に、何億ものいのちは私の惰性により胃の中で酸に溶かされ消えるのだ。そして、目の前の男は何度も私を支配し、何億ものいのちを葬った人だ。
今でもそうだが、私は男性に支配されていると理解する瞬間が好きなのだ。適度な閉塞感というか、目の前の人が私という女ひとりを支配するために何かしているという状況が好きなのである。
私の好きな人は、私がここから逃げるはずなんてないのに、自分のものだと言う証を残したくて一生懸命なのだな、と思うとたまらなく胸が疼いて、心が満たされた。そのために私のなかへと吐露されたものも、愛おしく感じる。何も実を結ばなくても、だ。

そうして適度に距離を取りながら、秋には初めての遠出をした。その時に、寒がる私にAは自分がしてきた黒いマフラーをくれた。なんて愛されているんだろうと感動したし、暖かさに笑みが増えた。
けれど、この頃から私はAのメールや会う頻度について疑問を抱くようになっていた。

Aは高校卒業後に進学した先を辞めていたのだった。つまり、平日休日問わず時間がある人だった。そりゃあ、私からの嵐のようなメールも電話も付き合えるはずだ、と妙に冷静になってしまう。
そんなAとは対照的に、私は就活戦争へと駆り出されていった。

私の就職活動はひどく難航した。これもまた機会があればここに書くと思うのでざっくり言うと、4年生の2月に満足のいく企業から内定が出たレベルだ。それまで貰えた内定は生保レディみたいなやつで、代替品としてたくさんの新卒を抱え込むような業種の企業だけだった。
つまり、1年以上辛い日々が続き、毎晩泣きながらESと履歴書を書いていたのだった。そんな中で、最近付き合い悪いとか、会いたいとか、遊びに行きたいとか、身体を重ねたい(勿論こんな詩的な言い回しでなく直球で言われてた)とか、そんなことばかり言ってくるAに、次第にイライラが募っていったのである。

それでも私は、その年は、初めて恋人と迎えるクリスマスになるとわくわくしていたのだ。10月くらいに、会社説明会からの筆記テストを終えた足で私は赤のタータンチェックのマフラーを購入した。
Aが、秋に出掛けた時に私に黒いマフラーをくれたままだったから、使って欲しくて選んだものだった。
寝ても覚めてもお祈りメールと説明会三昧で、とてもじゃないが能天気にAと遊ぶ気になれなかった。土日は大学内の就職支援課に通って面接の練習やES、履歴書の添削。平日は残った授業か説明会、SPI対策講義への参加に夏休みにはインターンシップに複数参加したりした。毎日毎日、大学まで行かせて貰ってるのに就職できなかったらどうしようという不安が拭えなかった。Aといても明日の面接のことが気になったし、Aと話すより就職支援課の先生と話す方が有益だし魅力的に思えた。

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