辛いことへ志願をすることについて

Aから解放された私は、そのままぼんやりとクリスマスを迎えた。
初めて彼氏と過ごすクリスマスになると浮かれていた自分が虚しくて、情けなかった。今まで別にリア充しね、なんて本気で思ったことはなかったが、この時ばかりはそういう感傷に浸った。
Aが渡してきた黒いマフラーを見るのが辛くて、無理矢理に押入れの奥に押し込んだ。

正月になっても、私は内定を1つも得られてなかった。
焦りばかりが募り、私はなりたくもない生保レディの選考を受け、初めての内定を得る。長い間応援し、支えてくれた母は、とても喜び涙ぐんでくれた。
もう娘が人格否定され落ち込み、泣きながら手書きの履歴書を書く姿を見なくて良くなったからだ。
母は純粋な人だから、私の希望通りの職種じゃないことを知りながらも、今この瞬間の苦しみから娘である私が救われることを喜んでくれたのだ。

母には辛い思いばかりさせてきた。
以前もここに書いたが、小学生の時に、自らやりたいと言って習い始めたピアノがある。最初は同い年くらいの子供が6人くらいいて、みんなでわいわいピアノを弾くグループ学習だった。
しかし、だんだんと生徒が減り、最後には私だけが残った。すると、個人レッスンへと変わり、母曰く突然難易度が上がってしまったのだという。
直ぐに私はピアノを辞めたいというようになり、仕方なかったのよね、と寂しそうに母は溜息をついた。個人レッスンで怒られて落ち込む私を見てられなかった母は名残惜しそうだったが、結局はレッスンを辞めさせてくれた。3年も通ってなかったピアノの稽古の記憶だ。

高校受験の時もそうだった。
私は商学系の高校への進学を希望しており、2つの高校が候補にあった。しかし、片方は少しだけ偏差値が高かったので、安全策をとって偏差値の低い方を受験した。ところが、私は落ちたのだった。
今にして思えば、お世辞にも頭の良くない、ギャルや不良系の生徒が多い校風で、大人しく真面目だけが取り柄の化粧も知らない私を見て、わざと学校側が落としたのではないかと分析することができる。しかし、その当時は全てから見放された失望感が強かった。
私は両親に連れられ休日の中学校へ行き、特別に進路相談をしたのだが、その内容は記憶にない。
今もそうなのかわからないが、当時は前期と後期試験があり、私は後期で偏差値の高い方の高校を受け、無事合格を果たした。母は泣いて喜んだ。

母親は私をとても心配して甘やかしてくれる人で、今ここで就活が終わるならいいじゃないと涙ながらに言った。
みんながするみたいに、卒業旅行だって行けばいい。もっとゆっくり休んで欲しい。傷つかないでほしい。そうやって私を甘やかしたい想いを話してくれた。

でも、私は絶対に生保レディなんてできないと思っていた。人と話すのは苦手だし、新卒者を代替品のように大量に採ることにも違和感を感じていた。だから、内定を断った。
母はまた泣いた。もう2月なのに、内定はまた0になった。このままどうなるのだろうかと、中学の進路相談へ両親に連れられて行った時のような空虚な気持ちになり、記憶も薄い時期の一つでもあった。
なにより、大好きな母を悲しませながら、より辛い選択肢を選んだ自分にも、言い表せないもやもやした感情を抱いていた。


#日記 #受験 #就活

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