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あの日、あの街で、彼女は。〜下落合駅〜

目まぐるしい変化の狭間で。

「しもおちあい」耳馴染みのない駅だった。西武新宿線の3駅目、始発の西武新宿駅、2駅目の高田馬場駅、その次が下落合駅。山手線から西武新宿線の乗り換えが便利な高田馬場駅と、乗り換え改札口のすぐ隣のスタバも同じ頻度でお世話になった。

線路脇の狭い通路を進み、無機質な改札機にSuicaをピッとかざす。「なんか変な感じ」都会とも田舎ともどっちつかずの雰囲気に、ふーん?と鼻に抜けたような声が出る。

初めて降り立った日、引継ぎ訪問のはずがなぜか彼女はひとりだった。壁一面の白さと奥行きが際立つ会議室。たしか休眠顧客(過去の取引から期間が空いている)だったから、前任が同行しなくてもいいやと課長に判断されたのだろう。

記憶があやふやな初訪問からコロナ禍を挟んで4年弱、退職日まで担当していたお客さんだった。その間、担当者も彼女も変わらないのに、取り巻く外部環境だけは目まぐるしく変化を続けていた。コロナ禍も、競合も、彼女の社内体制も。

コロナ禍の始まり、一斉にフルリモートになり、訪問が消えた。発注もキャンセルになった。不慣れなオンライン商談中、担当者の猫ちゃんが画面に映った瞬間の和んだ空気が忘れられない。

フルリモートから出社日が少しずつ増え、訪問も解禁されたのは、何ヵ月後だっただろう。猛暑の勢いが落ち着き始めた頃、下落合駅にも久しぶりに降り立った。駅前を見渡しては、変わり映えのしない街に安心感を覚えた。コロナ禍で変化を余儀なくされた片鱗の数々を見てきたからこそだ。

予定より少しだけ早く着いてしまい、訪問先とは逆方面に向かいながら時間を潰す。「こんなとろに老人ホームあったっけ?川(橋)なんてあったっけ?」たった数10メートル歩いただけなのに、見覚えのない景色になった。橋の上を行ったり来たりしながら、コロナ禍の打撃からどう立て直そうかと長年担当する社長と電話をした情景が、やけに鮮明に残っている。

時は流れ、後に退職の決定打となる上司を連れて訪問に。オンライン商談も何度か同席させたっけ。「最近、大丈夫ですか?」ひとりで訪問したときの担当者の第一声だった。例の上司になって半年が過ぎた頃。「いっ、一応、大丈夫です」苦笑いだったかもしれないけど、なんとか取り繕えたはず。本当は、異変に気づいてくれた優しさに涙をこらえるのが必死だった。

「3月で退職することになりまして」自席を離れて、エレベーターを降り、わざわざオフィスの外に出た。担当者に電話しながら見上げた狭い青空を、この先も忘れることはない。「やっぱりあの上司のせいですか?」彼女はもう否定しなかった。

駅前のメロンパンの甘さを分けてほしい、必死に大丈夫なふりをしていた彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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