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あの日、あの街で、彼女は。〜大塚駅〜

高低差、温度差、忘れられない一日。

山手線池袋駅の一駅隣の大塚駅、都電荒川線という路面電車が通る大塚駅前駅。初上陸は仮面浪人時代のこと。受験日の前日に上京し、大塚駅のビジネスホテルにチェックインする。受験会場の下見を終え、ロータリー沿いの本屋さんに立ち寄り、ロイヤルホストでハンバーグを食べた心細い夜。

寒さに手がかじかみ、満員電車で押し潰されてパンがぺちゃんこになった日。東京での大学生活を夢に見ていた日。

あの日から何年経っただろう。「過去に執着する自分」を遠ざけて、都会の生活にすっかり染まった頃。思わぬかたちで大塚駅に再訪のときが来た。新卒の訪問に同行してほしいと、上司に頼まれたのだ。

梅雨入り直前のどんよりとした昼下がり。3歳下の彼と並んだときに、彼女のほうが歳下に見えないか心配だった。名刺に肩書きはなく、上司でもない。あくまで先輩という立場で、見下されないだろうか。大塚駅から坂道をのぼりながら、心配ごとが頭の中を駆け巡る。

心配は杞憂に終わった。落ち着いた雰囲気のおばさんが担当者だった。お局キャラの女性担当者とはいい思い出がないが、スムーズに話が進み、内心ホッとした。

「御社にお願いしていいですか?」予想もしていなかった即決受注の展開。社長ではないのに、決裁権がある人だったんだ。アポを取ったときは即決するほど温度感が高くなかったそうで、訪問してみないとわからないことが多いなと再認識させられる。

明らかにテンションの高い彼との帰り道。やったね、おめでとう!と声をかけながら、受注後の対応について説明する。その前に、課のSlackに受注報告しなきゃね。意気揚々と受注内容を入力する彼を横目に、彼女の口角も上がったままだ。

オフィスに戻り、おめでとうの言葉を浴びまくる。新卒の初受注は大事な記念日だ。急いで申込書を作成して、丁寧なお礼を添えて、一緒にアドレスを確認して送る。申込完了メールを待っている間のドキドキは、気になる人からの返信待ちと似ている。脈ありが確定している状態で待つのは清々しい。

「すみません、やっぱり申込みをキャンセルしたいです」は?え?なんで?理由は受注プランの認識に相違があったから。いや、訪問したときに説明したし、提案資料にも普通の文字サイズで書いたし。その後まだ粘ったのか、すぐに諦めたのか、記憶が途切れている。

冗談抜きで一生忘れられない一日になった。何年経っても初受注の思い出を笑った。ずっと慕ってくれた後輩で、退職時の寄せ書きにもエピソードが書かれていた。

「幻の初受注」呼ばわり、ぬか喜びの一部始終をともにした彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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