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あの日、あの街で、彼女は。〜初台駅〜

ときには、記憶の輪郭をあやふやにしておいたほうがいいのかもしれない。

ハッキリくっきり鮮明に、表情や言葉やシチュエーションを覚えている。季節も相まって、映画や写真のように"画"として思い出せるできごとがある。思い出せるというより、強制的に記憶の引き出しを引っ張られているような感覚は、いわば、フラッシュバックだ。

京王新線の初台駅。新線新宿駅から一駅隣で、新国立劇場とオペラシティが直結している。改札をくぐり、向かい風に煽られながら地上に出ると、一気に視界が開け、広場が出現する。円柱でくり抜かれたようなおしゃれな空間を見下ろすように、エスカレーターで上っていく。

オペラシティタワーのエントランスに着いた。少しだけ緊張しながら回転ドアをゆっくりと押す。彼女の5年間の営業人生で、トップ3に入るきれいなオフィスビルだった。

動悸と吐き気がするレベルの寝不足を味わったことはあるだろうか。失敗できない商談への不安感と緊張感、大嫌いな上司への嫌悪感と、何を準備しても詰められるのではという恐怖感。自己肯定感なんて言葉は彼女の脳内から欠落し、なにをしても自信がない。あぁ、またどうせ怒られる、そんな毎日の繰り返しをギリギリの状態で保っていた。

朝一の直行訪問、よりによって電車が遅延していた。スタート地点に立つ前から怒られる要素が増えた。遅刻の可能性をお客さんにメールで送り、上司にSlackでDMを送り、パソコンと4人分の営業資料でパンパンになったバッグを抱えて、とにかく走った。寝不足の動悸に加えて、空きっ腹にコーヒーを流し込んだ身体からは、鼓動の音が大きく波打つように聞こえていた。心臓のどくどくとした感覚が妙に気持ち悪かった。

息を切らしながら、先に着いていた上司に近づいて「すみません」、開口一番に謝る以外の選択肢はない。謝らない日はないくらいなので、もはやなんの謝罪かわからない。案の定、想定内、予定調和、どの言葉を当てはめてもいいけど、やっぱり今日も怒られた。

お客さんの前でも遠回しに詰められる。余計なことを口走らないようにと思えば思うほどに、頭が真っ白になっていく。まだ会って2回目のお客さんがフォローしてくれるはずもない。誰も味方がいない。整頓された無機質な会議室に殺風景さが増した。商談がいい方向に進んだのは不幸中の幸いだったが、帰り道も詰められ続けていた。

薄いグレーのセットアップスーツ。ベージュのエナメルパンプス。色落ちした茶髪のストレートヘア。極めつけは、彼女の大嫌いな甘ったるい香水の匂い。当日の上司の様だ。

匂いの記憶は強烈で、上司と同じ香水の人と街中ですれ違うたびに吐き気を催していた。

忘れたくても忘れられない記憶に、息が詰まりそうな彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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