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『蔦の細道』をたどる

『行き行きて、駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つた、かへでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。
「かかる道はいかでかいまする」といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにて、文書きてつく。
 駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にもあはぬなりけり
富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。

在原業平『伊勢物語』(上)九 から衣 より

 三十六歌仙の一人・在原業平の代表作『伊勢物語』9段に登場する「蔦の細道」に関する件りの一節です。

【在原業平】

 📖『伊勢物語』の書き出しには、「昔、男ありけり‥‥」が多くあります。光源氏をそのままに生きたかのような華麗な宮廷歌人で、有名です。
 彼は、この蔦の細道で思いがけない人の出会いと旧暦5月の末日にも関わらず、富士山の頂きが雪化粧されていたことに、驚きます。

【蔦の細道からの富士山】

  旧暦5月の末は、🗓現在の暦では7月上旬頃〜6月下旬の時期にあたり、京育ちのおっ坊ちゃん在原業平は、この地に立って驚き、印象に残ったので『伊勢物語』に、この件りと和歌まで添えたのでしょうね。
  
 この『伊勢物語』を踏まえて、鎌倉時代の女流歌人・阿仏尼が綴った旅行記『十六夜日記』にも、蔦の細道を辿る件りがあります。
 京都を出発したのが弘安2年(1279年)旧暦10月16日の🌔月が十六夜だったことから日記の表題が十六夜日記となりました。
 歌道の御子左家に後妻として嫁ぎ、和歌の世界で活躍した女性で家業を支えて来たにも関わらず、夫・冷泉為家の死後、遺産相続の訴訟で為家の本妻と本妻の子・二条為氏と阿仏尼は60歳の高齢の身で争うことになります。
 弘安2年(1279年)旧暦10月25日、菊川宿から鎌倉に下向した際に綴った『十六夜日記』にも阿仏尼が蔦の細道を辿る件りが記されています。

 『十三 宇津の山越え
 二十五日、菊川をいでて、けふは大井川といふ河をわたる。水いとあせて、聞きしにはたがひて、わづらひなし。河原、いく里とかや、いとはるかなり。水のいでたらんおもかげ、おしはからる。
 おもひいづる都のことはおほゐ川いく瀬の石の数もおよばじ
 宇津の山越ゆるほどにしても、阿闍梨の見知りたる山伏、行きあひたり。「夢にも人を」など、昔をわざとまねびたらんここちして、いとめづらかに、をかしくも、あはれにも、やさしくもおぼゆ。「いそぐ道なり」と言へば、文もあまたはえ書かず。ただ、やんごとなき所ひとつにぞ、おとづれきこゆる。
 わが心うつつともなし宇津の山夢にも遠き都恋ふとて
 蔦かへでしぐれぬひまも、宇津の山なみだに袖の色ぞこがるる
 こよひは手越といふ所にとどまる。

阿仏尼『十六夜日記』十三 宇津の山越えより


 東海道には数々の難所があります。
 箱根峠、薩埵峠、日坂の小夜の中山に加えて宇津ノ谷峠、大井川に鈴鹿峠が挙げられます。

 その中で、在原業平や阿仏尼が綴った宇津谷峠を越えてゆく「蔦の細道」を歩いてみました。

【浮世絵 歌川広重が描いた宇津ノ谷峠】


 静岡市丸子から藤枝市岡部へ東西に抜ける峠が宇津ノ谷峠です。
 岡部宿は東海道の21番目の宿場町で難所の宇津ノ谷峠が控える宿場町です。静岡市の西岸・丸子宿から二里(10.0km)、次の宿場・藤枝宿まで一里二十六町(8.7km)の中間点にあります。
 「宇津ノ谷」の「ウツ」とは、静岡の方言で「獣の道」を意味します。
 昼間でも木々が生い茂り薄暗く、文学的な香りがする道も追い剥ぎがよく出没した別名、「追い剥ぎ天国」でした。
 河竹黙阿弥が描いた歌舞伎の名作『蔦紅葉宇津谷峠』では主家の金策に奔走する堤婆の仁三が大金を持って来た按摩の文弥を宇津ノ谷峠で殺害し大金を強奪してしまう件りの場面で登場します。
 奈良時代の官道や東名高速道路は日本坂峠を東西に穿っています。

【静岡市と藤枝市・焼津市の地図🗺】
※通称〝焼津アルプス〟と呼ばれている静岡市・焼津市・藤枝市に跨がる山間部です。
【満観峰から静岡市を望む】
【旧日本坂峠】
※奈良時代まではこの険しい官道が東海道でした。
この下を東名高速道路の日本坂トンネルや東海道新幹線が東西に延びています。
【宇津ノ谷峠『蔦の細道』の案内図】
※鎌倉時代に源頼朝が整備を命じた東海道でも宇津谷峠は難所の一つでした。
【国道1号線バイパス 宇津ノ谷トンネル】
※上り下りの4車線で、トンネルは上下別々です。

  現在の国道1号線バイパスは上下二車線です。
 23歳の若さで鈴鹿サーキットに散っていった伝説のレーサー・浮谷東次郎の📙著者にも、宇津ノ谷峠が登場します。


 「静岡を出発して安倍川を通るころまでは、エンジンのことが気になって気がね気がね走っていたが、その内にただ走ることだけに気が引かれて、エンジンの怪音なぞ何のその、どんどん東海道を下りに下った。
 ぼくの走るジャリ道の右側には、小川がちょろちょろ流れていた。ぼくの完全武装には、砂ボコリを防ぐために、手ぬぐいのマスクが加わった。トラックも走っていなかったので、ほとんどホコリもあびずに走っていると、前にトンネルが見えた。‥‥
(中略) 

『がむしゃら1500キロ』 浮谷東次郎著より
【📙『がむしゃら1500キロ』 新潮文庫 刊】
※昭和56年1月25日発行 当時は定価240円でした。

 伝説のレーサー・浮谷東次郎が15歳の時に、父から旅費1万円の大金を出して貰って、東京の自宅から大阪まで、出かけた際の旅行記の一節です。

【愛車クライドラーと浮谷東次郎】
※15歳の時に単身、🏍大阪行きを決断し🇮🇹人宣教師、🍉売りの少女との出会い、進学や働くこと人間について考える旅に出かけます。

 🇩🇪製のクライドラー50ccのオートバイで、🛣高速道路が無かった昭和32年に高校進学前の夏休みに進路で悩み、旅に出発することを決意し、旅費の8500円を父にお願いします。
 大卒男子の初任給が2万円だった当時の8500円は、浮谷にしても浮谷の父にとっても大金だったでしょうが、浮谷の父は覚悟していたらしく、ポケットから💴1万円を出して、机に置き

「この旅行は、単なる遠乗りとか旅行ではない。
お前の人生見学の一部として行かせるのだ。」
 この言葉は、この旅行の間中、ぼくの頭にこびりついてはなれなかった。

『がむしゃら1500キロ』 浮谷東次郎著より

 お父様、カッコいい❗️
 彼はその後、都内でも屈指の進学校・都立両国高校に入学します。両国高校は旧制府立三中が前身の都内でも日比谷高校に並ぶ超進学校です。
 両国高校の先輩と言えば、あの芥川龍之介。 両国高校から東海大に来た🧑‍🎓同窓が自慢していましたので、よく覚えています。

 この小説は、東海大一高の夏休み課題図書の何冊かに選ばれていましたので、迷うことなく新潮文庫の単行本を読み、休み明けの登校日に読書感想文を提出しました。
 それまでの読者感想文はあとがきと解説に目を通して、受け売りな文を書いて出しただけでしたが、23歳の若さで輝かしい成績の最中、鈴鹿サーキットで命を落とした伝説のレーサーの手記は食い入るようにして、読んだものです。

【出走前の浮谷東次郎とトヨタ S800】
※トヨタ S800は通称〝ヨタハチ〟として愛しまれ軽量スポーツカーの代表車の一つでした😍
【フジミ模型から発売されていたプラモデル】
※静岡市駿河区登呂にあるフジミ模型が以前に製品化していたトヨタスポーツ800の「浮谷東次郎仕様」のモデル


 バイク通学やバイク免許の取得を禁じていた高校でしたが、よくこの本を課題図書の一冊に選んだものだと、高校の先生の懐の大きさにも驚きました😱
 
 ここで引用した一節に登場するトンネルこそが、宇津ノ谷トンネルです。昭和33年、読売巨人軍に立教大から長嶋茂雄さんが入団した年に、浮谷東次郎は両国高校に進学したのでした。
 その一年前の夏休みに浮谷が出かけた東海道・宇津ノ谷トンネルは未だ、舗装はされていなかったのですね。
 
 この宇津ノ谷峠越えを藤枝・岡部から静岡府中に東上する際に、右に逸れて木和田川沿いから迂回するルートが「蔦の細道」です。
 ここはその昔、〝追い剥ぎ天国〟とまで言われた夜盗や強盗が出没する怖いルートで、その被害者で一番有名な方が鎌倉幕府三代目の鎌倉殿・源実朝の正室、千世でした。

【📺大河ドラマ『鎌倉殿の13人』での実朝】
※ドラマでは、柿澤勇人さんが好演なさっておられました。

 二代目・頼家は、関東の有力御家人・比企氏のお嬢様を娶ったために、御家人同士の覇権争いに発展してしまった反省から、京都からやんごとなきお姫様を娶ることになり、千世が東下りすることになったのですが、実は千世は前の大納言・坊門信清のご息女で、西八条禅院信子。
 時の最高権力者・後鳥羽上皇の母方の実家で、後鳥羽上皇とは従姉妹です。

【加藤小夏さん演じる「千世」】
※雅な雰囲気が漂い続けていましたね。

 鎌倉幕府を陰で支え続けた足利家。番組では足利家と新田家は登場していませんでしたが、足利家は新田家と共に、源氏の家系で三浦氏より格は上で、武田源氏が登場したのですから、足利家は出て来ても良かったはずです。
 実朝の嫁取りは足利家の娘を娶り、御家人や関東武士団の絆を深めようとしていました。

【栃木県足利市にある足利家の菩提寺・鑁阿寺】
※鑁阿寺《ばんなじ》本堂は国宝です。


 後の室町幕府を創建する足利尊氏の祖先・足利義兼の娘を娶る話しが決まりかけていたものを実朝のゴリ押しで千世との婚姻が決まりました。
 実朝は、この頃から京都への憧れが彼全体を覆っていたのでしょうね😍
 実朝の婚姻が面白くない方向に動き始めて、苛立ちを覚え始めたのが、初代執権の座にあった北条時政です。
 頼家の婚姻の際には主導権を握れなかったので、焦りもあったことでしょう。時政の後妻・牧の方の心中も穏やかではなかったはずです。このまま看過すれば、頼朝挙兵時に💦汗を流した北条家より、様子見で静観していた比企氏に鎌倉幕府の実権が渡ってしまう‥‥。

【坂東彌十郎さん演じた北条時政。】
※ドラマでは人の良い田舎の親父でしたが、本当の時政はもっと悪辣な地元領主だったと思います。

 嫡男・頼家の乳母は頼朝の乳母子・比企の尼の先例に倣い比企氏から出し、ライバル比企氏で嫁も比企一族から出しています。次男の実朝は絶対に北条家からと思っていたはずですが、意にそぐわず都から嫁を取ると言い出した実朝。
 そこで、千世の輿入れの際に、「蔦の細道」で強盗が金品や輿入れの道具の一部を掠奪したことを黙認し、命までは奪わないがちょっとした嫌がらせをしたと私は考えています。
 なぜなら、この時の駿河守護は北条時政。今でいえば静岡県知事&静岡県警本部長の重責を担っていました。
 生前の源頼朝は、東海道の整備を関係する守護・地頭に命じていますので、東海道の通行の安全も守護の大事な役目でした。
 そのお膝元で起こった実朝許嫁への強盗事件、本来なら責任問題に発展しかねない不祥事です。
 📖『吾妻鏡』の記述には、この責任論は一考すらされていません。鎌倉時代草創期、何かと責任を取るべく有力御家人たちが粛正されていきました。

【2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』】
※伊豆韮山の大河ドラマ館にて。

 大河ドラマをご覧になった方なら、有力御家人たちの粛正されていく様を知っていただき、あれが実話だったという怖い方々を描いた🎞『仁義なき戦い』も真っ青な時代です。
 その中での宇津ノ谷峠での強盗事件ですから、他の御家人が関わっていたりとか、警固が手薄でしたら、間違いなく責任の所在を問われる大事件です。
 みなさんなら、どうお考えになられますか⁉️
 
 閑話休題

 先ずは例によって、丸善ジュンク堂書店に行き、宇津ノ谷峠付近の国土地理院発行の🗺地図を買い求めるところからです。

【国土地理院発行の1/25000縮尺地図】
※縮尺1/25000ということは、地図上の1cmが実際の長さ25㍍となります。
私が高校の頃、地図の縮尺が1/50000から細分化され、さらに二色刷りからカラーの手前4色刷りになり、一枚の地図も高価になりました。

 そんな予備知識を頭に入れて、新静岡バスターミナルの1番線、藤枝線で🚌バスに乗ります。

【新静岡セノバの1階バスターミナル】
※バスターミナルの一番左上に位置しています。
【新静岡バスターミナル案内図】
※藤枝方面に向かう際は、1番乗り場からです。
【🚌1番乗り場 藤枝線の時刻表】

🚌の停留所を降りれば、すぐ目の前に、道の駅「宇津ノ谷峠」があり、ここからスタートです💦

【道の駅「宇津ノ谷峠」】
※休憩室には宇津ノ谷地区の模型があったり、宇津ノ谷トンネルの歴史を解り易く記した🪧がありました。
【道の駅休憩室で味わった🍓サイダー】
※最初に知ったのは、島田にある⛩大井神社を
参拝した時です。🍓イチゴの他にも
山葵・🍛カレーサイダーもあります。
【休憩室に展示されている宇津ノ谷地区の模型】
※このジオラマ模型、よく作られています。


 休憩室で喉を潤し、出発です。 
 休憩室の右脇から入山口があります。

【宇津ノ谷峠・『蔦の細道』入口】
※道の駅脇に登り口があります。標高は85mほどです。

 最初の30分は山に入ったなぁと実感できる登山道を登ります。
 出発が10:07分でした。
 登山道はよく整備されていて、登り辛いということはありません。急登も僅か2〜3分で上がりつきますし、もう少しあってもいいのではないかと思うくらいです。
 登山というよりハイキングコースですね。

【静岡市側からの登山道①】

 登山道はしっかりしていて、歩き易いです。

【蔦の細道の静岡市側登山道②】
【蔦の細道の登山道③】
※崩壊現場にはこうしてちゃんと新しい登山道が築かれていました。

  日中でも陽が直接当たらず、木立ちの中を歩くのは、森林浴に癒されている感じがします。
  訪れる方も少なくのんびりマイペースで登っていけます。崩壊していたり、崩れかかった危険な箇所もありませんでした。

【蔦の細道の登山道④】

 道はしっかりと判りますので、迷うことはありません。備え有れば憂いなしで用意して来た🗺地図を出す機会はないほどです。

【蔦の細道 唯一の急登】
※ご年配の方が忙しなく上がって行かれました。ここが唯一と言っていい、急登です。

 この急登を登り切ると、「く」の字型に折れ曲がり二度曲がると突然、目の前の視界が広がります。振り返れば、晴れていると🗻富士山の頂きを拝むこともできます。私の読図が間違ってなければ標高は135mなので、約50mの高さを登ったことになります。
 夏場ならともかく、冬場なら💦汗が滲む前に展望が開ける場所に到着です。
 到着時間は10:38分、所要時間31分の山行です。

【展望が望める広場】

 ここに、平安時代の歌人・在原業平の歌碑があります。
 「駿河なる宇津の山辺にうつつにもゆめにも
人にあわぬなりけり」と、🪦歌碑にあります。
 『伊勢物語』の一節です。
 「宇津谷」の山と「うつつ」にと掛け言葉を引用したのでしょうね。

【🪦在原業平の歌碑】
※歌碑に添えてある『伊勢物語』は私が持参致しました。

 展望広場と称しておく四叉路には、岡部側に長椅子も用意されていました。岡部町から先に広がる志太平野が見渡せます。

【展望広場の分岐点】
※ここを左へ登っていくと、満観峰に向かいます。右へ下ると宇津谷峠、まっすぐ下ります。

 ここからは晴れていると、在原業平や阿仏尼も眺めたであろう富士山の頂きですが、山頂にうっすらと雲がかかっていました。

【展望広場からの🗻富士山】

 四叉路になっている道をまっすぐ下ります。急な下り坂はここだけで、ものの二、三分で平坦になり、直角に左へ曲がれば、一気に視界が広がります。

【蔦の細道 ハイキングコース】
※展望広場から岡部側に向かう場合には、この樹林帯を下っていきます。
【L字型に曲がります】
※勢い余って落下しないよう、樹木の根っこなどに足を取られないよう注意深く降ります。

 ピンボケしているので解り辛いですが、桜の木々だったはずです。

【ピンボケしていました😅】

 この桜を過ぎると農家の農道となり、人が一人通れるような農道を下って来ると、「猫石」と呼ばれる巨石があります。

【猫石】

 猫石を過ぎると石畳みの道となり、「蔦の細道」のような風情が出て来ます。

 【石畳みの道】
※石畳みが風情を醸し出します。
【石畳みの道②】
【石畳みの道③】
※浮石などに足を運んでバランスを崩さないように下っていきます。

 蔦の細道は僅かで終わりを告げます。
「蔦の細道」の石碑があり、木和田川を渡河すればコンクリートで舗装された道を木和田川沿って、ダラダラと下り、東家、🚾公衆トイレに駐車場があり
「蔦の細道」は終わりです。

【「蔦の細道」の石碑】
※石碑の先には、木和田川が流れています。

 岡部町教育委員会の看板🪧を拝読しますと、蔦の細道は標高210m、最大斜度24°、距離1500mとあります。蔦の細道の謂れも記されていました。

【岡部町教育委員会の🪧】

 木和田川を渡河すると、木和田川上流遊歩道が川沿いに続きます。砂防堤防もあり、自然環境を損ねないよう配慮された治水工事がなされています。
 看板も丁寧に見ていくと、勉強になりますね。

【砂防学習ゾーンの🪧】

 東家がある公園には、宇津谷峠・蔦の細道に関わる歌が🪧になっていました。

【藤原俊成の歌碑】
※夢路にも 馴れしやとみる うつの山邊の 蔦ふける庵
出典は1313年成立の『玉葉和歌集』
百人一首の選家・藤原定家の父。
【藤原定家の歌碑】
※都にも いまや衣を うつの山 夕霜ならう 蔦の下道
出典は1205年成立の『新古今和歌集』
『明月記』の作者でもあり、日記には数々の天体現象を記し天文学の分野でも研究されています。

 一例をあげますと、
治承4年七月十五日条


『十五日  天晴
(中略)‥‥
今夜月蝕云々、依暑気、上格子、只望明月、終夜無片雲〈蝕不見、如何〉
※月蝕不見事、‥‥。

藤原定家 著『明月記』より

 明治5年までは🌕月の周期を🗓暦の軸とした太陰太陽暦でしたから、毎月一日が新月🌑、15日が🌕満月で月蝕が起こるとしたら、15日を中心とした月中に起こりました。
 旧暦7月15日は、現在の太陽暦では1180年8月7日にあたり、国立天文台DBを参照しますと、部分月蝕が起こりましたが残念ながら京都では観測出来ない地域で起こっていました。
 国立天文台DBによると、
14:42分から🌖月は虧け初めて北海道・根室辺りから房総半島を経由して太平洋上を南下し、インドネシアへと月の軌道・白道が記されています。
 旧暦七月十五日は、盂蘭盆の仏事とも重なり、雲一つない明月だったにも関わらず、不吉な予兆の月蝕が不蝕で定家は暦の信憑性に疑問を投げかけたのです。
 定家が当時、高価だった具注暦という天文方が使う専門書をそばに置き、日記を綴っていたことが窺えます。
 他にも🌠流星☄️を記す記述もあり、天文学の分野でも『明月記』は注目されています。
 そんな藤原定家が蔦の細道にも想いを馳せていたのです😱

【鴨長明の歌碑】
※袖にしも 月かかれとは 契置かず 涙は知るや 宇津の山越へ
出典は1205年成立の『新古今和歌集』。
鎌倉時代の歌人、随筆『方丈記』の作者です。
【兼好法師の歌碑】
※ひと夜ねしかやの松屋の跡もなし
夢かうつつか宇津の山ごえ
随筆『徒然草』の作者でもある兼好法師こと、吉田兼好は、その文才から鎌倉後期、東蝦夷たちの恋文を代筆してあげて、糊口を凌ぐ生活もしました。

 兼好法師の文才は、まさに芸は身を助けるで、一番有名な恋文の代筆依頼者は、足利尊氏の執事で猟色家としても悪名を広く知れ渡る高師直です。
 高師直は、独身のご婦人や未亡人は言うに及ばず、こともあろうに京都で名を馳せた塩谷判官の現婦人を口説く際に、兼好法師に代筆を頼むという破廉恥極まりないことまで平気で出来るバサラ大名でした😱 
 頼む方も頼む方ですが、引き受ける方も引き受ける方です。

【阿仏尼の歌碑】
※我こころうつつともなし宇津の山
夢にも遠き都こうとて
【鎌倉時代の女流歌人・阿仏尼】
※鎌倉時代、徒歩で京都から鎌倉まで歩いて下向した阿仏尼の静かなる秘めた想い、感服します。
日夜の中山、大井川などの数々の難所を越えて、蔦の細道、薩埵峠に箱根路を辿り、鎌倉へ向かいました💦


 阿仏尼は60歳を過ぎてなお、訴訟のために僅かな共周りと共に、京都から鎌倉幕府の裁判を取り扱う問注所に今でいう、「遺留分」の侵害にあたる播磨国細川荘の領有権を実子、冷泉為相《れいぜい ためすけ》に継承出来るよう粘り強く争います。
 現在の60歳とは違い、平均寿命が50歳を下回る鎌倉時代に、一大決心したとはいえ、並々ならぬ悲壮な覚悟です。
 結論を先にいえば、8年以上に渡り争い、阿仏尼が
亡くなった後は為相が裁判を引き継ぎ、勝訴します。この冷泉為相が後に繋がる冷泉家の家祖です。
 阿仏尼は鎌倉では極楽寺切通の先にある地蔵堂という祠に住み着き、問注所に度々通います。

【鎌倉極楽寺界隈にある月影地蔵堂】
※江ノ電極楽寺駅から徒歩10分弱、閑静な住宅街の中にあります。

 切通の外と言えば、要は〝場末〟。江戸時代の江戸なら、大木戸の外と一緒、つまりは下界で、それは鎌倉時代も一緒です。
 極楽寺界隈は当時、切通の外で地獄谷と呼ばれていました。病人や極刑の罪人を葬る葬祭場だったからです。なので、時の執権・北条義時の三男・北条重時が地獄谷と呼ばれるこの場所に極楽寺を建立したほどです。

【鎌倉極楽寺界隈】
※江ノ電極楽寺駅から江ノ電唯一のトンネルに、江ノ電が向かうところです。

 木和田川を眺めながら、岡部に向かうと兜堰堤が見えて来ます。今の木和田川からは想像し辛いですが明治43年8月の豪雨で氾濫し、岡部町の田畑は大被害を被りました。
 そのため、🇳🇱オランダ人技師、ヨハネ・デレーケ氏を招聘し技術指導を依頼、防災・減災の砦となる「兜堰堤」が完成しました。
 日露戦争に勝った勝ったと浮かれていても、治水工事はオランダ人技師に頼まなければならなかったのが、当時の日本でした😥

【木和田川にある兜堰堤】
【兜堰堤の構造を説明する🪧】

 ヨハネ・デレーケ氏の構想した兜堰堤は今でも、崩壊することなく、防災・減災に役立っています。

【🇳🇱土木技師、ヨハネ・デレーケの像】
※ヨハネ・デレーケは明治政府のお雇い外国人技師でした。
利根運河や神田上水も手掛けた日本の河川工事の近代化にご尽力なさった方です。
【🚾公衆トイレ】

 兜堰堤を過ぎると、駐車場前に公衆トイレがありました。

【駐車場🚗】
※駐車場の左を上がって行くと、豊臣秀吉が作られせた東海道のような新道・バイパスがあります。
【延命地蔵尊】
※この左側に国道1号線宇津谷トンネルの出口があります

 宇津谷トンネルを跨ぐ歩道橋もありますが、今回は秀吉が開鑿させた旧東海道を通るために、一旦来た道を少し戻ります。

【旧東海道】
※駐車場入口から左へ上がる山道が豊臣秀吉が開削を命じた東海道です。小田原攻めに対し、入念な準備をしました。

 小田原・北条攻めの際に20万人とも言われている大軍を動員した豊臣秀吉。
 秀吉の動員を陰で支えたのが、兵站を仕切った石田三成と理財・経理を司った長束正家です。
 宇津谷峠を跨ぐこの道を拝見すると、三成や正家の手腕の一端を垣間見ることが出来ます。

【宇津谷トンネルを跨ぐ道】
※秀吉は、20万の大軍を行軍させるために、宇津谷峠の開削が急ピッチで進められます。
この道を秀吉はもちろん、家康や石田三成・大谷刑部も通ったのでしょうね。

 三成の目利きには数々のエピソードがありますが、私が一番印象に残っているのは、淀川河川敷に群生する葦の刈り取りです。
 秀吉から論功行賞で数々の大名が領地を貰い受けた中、三成だけが領地は要りません、その代わりに琵琶湖から淀川沿い河川敷の葦の刈り取る権利を欲しいと言い出します。
 武功派大名はまたまた三成のスタンドプレーが出たと蔑みます。とりわけ福島正則は三成を嘲笑いながら、退出する中、秀吉はそれだけなら、と二つ返事で安請け合いします。
 後日、三成はこの葦の刈り取り利権を専売とし、この葦で雨合羽や屋根の芦屋吹きとして、販売し多額の財をなします。
 三成はさらにその財を金に変え秀吉に全額、進呈する時に、この金は淀川沿いの葦を刈り取って得たものだといい、当時の価格で3万石に相当する額にのぼったと記されている資料があります。
 3万石と言えば、足軽1500人を動員出来るほどの財力ですが、その成した財を全額、秀吉に献上する三成の目利きと忠誠心、さながらロイヤリティーは他の武将にはありません。
 徳川家康をして、三成のような家臣が欲しかったと言わしめたのも納得出来ます。
 この東海道を歩いていると、石田三成の息吹きを感じることが出来ます。

 国道1号線宇津谷トンネルの上を跨ぎ、緩やかに登っていくと左側に小道が設けられています。恐らくこれが本来の東海道を東に向かう官道だったのでしょうね。

【旧宇津谷峠への分岐】

 小道を上がって行くと、ものの2分とかからずに、旧宇津谷峠に着きます。

【旧宇津谷峠】
※交差する四叉路がはっきりと解ります。
右に上がって行くと先ほどの蔦の細道の展望広場→満観峰→日本坂峠に続きます。

 宇津谷峠の四叉路を下るとすぐに、🪧看板があります。「地蔵堂跡」の看板です。日中でも木立ちの中、薄暗く少し不気味な感じがします。
 ここにはかつて、地蔵堂が建っていたようです。

【地蔵堂跡】
※明治の歌舞伎『蔦紅葉宇津谷峠』では、仁三が大金を持つ文弥を待ち伏せし殺害してしまう場面がココ。
【地蔵堂跡に残る石垣】
【旧東海道 宇津谷峠の階段】
【雁山の墓】
※江戸時代中期の俳人・山口雁山の墓です。
旅に出て音信不通になった彼を悼み、友人たちがここに雁山の墓を建てましたが、本人は生きていて数年後に友人たちの前に現れて人々を驚かしたといいます。
【宇津谷集落】
※天保14年(1843年)の📖古記録では、211軒があったとされています。
【宇津谷峠越えの入口】
※ここで峠越えの道は終わりを迎えます。
【旧宇津谷隧道】
※伝説のレーサー・浮谷東次郎も愛車クライドラーで駆けて行きました。
 

 彼の手記によると、50ccのバイクで通過しようとしたら、宇津谷トンネルの手前で🛞タイヤがパンクし、パンク修理をしていたら、大型トラックにはねられそうになったと、際どい話が描かれています。

【宇津谷集落】
【宇津谷集落】
※秀吉は馬上の人となって、小田原攻めの際にこの宇津谷集落を行き帰り通行しました。
【甘味処 今昔を曲がります】
【蕎麦処きしがみ】
※店内にはマントルピースもあり、冬場は見た目にも温かく迎えて下さいます。
【🦆鴨南蛮】
※🦆鴨南蛮、美味しゅうございました😋

 デザートには少し戻って『甘味処 ちょっと今昔』でひと息。

『甘味処 今昔』
【『玉手箱』】
※お品書きにあったスイーツ。バニラアイス、黒豆、抹茶寒天に餡が甘さ控えめで美味しゅうございました。

 2階は、模型工作も出来る個室があり、貸切も可能だそうです。

 秀吉の大軍は小田原に向けて、この宇津谷集落を通過して行きました。

【宇津谷集落】
【宇津谷集落】
※その昔、秀吉が陣羽織を御礼に授けていった望月家。
語りべの老女も亡くなったとのことで、今回は秀吉の陣羽織は拝見出来ませんでした。
【宇津谷集落入口】
【宇津谷高架橋】
※この高架橋を渡ると、最初のスタート時点の宇津谷の道の駅に戻って来ます。

 所要時間 02:37分
 歩行距離 3.7km
    総 歩数 7780歩
 消費カロリー647kcal
でした。詳細はYAMAPに登載しています。
               終わり

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