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考え事#32 通過儀礼と教育

新年を迎えて5日目。
昨日が冬休みの最終日ということで、一日なんの予定もなくぐだぐだ過ごした。年末にAmazon Primeで目ぼしいアニメは見切ってしまっていたので何か面白そうな動画がないか探していたところ、ジャズピアニストの巨匠オスカー・ピーターソンのドキュメンタリー映像があったので見始めて、見入ってしまった。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B8TM47G2/

大学時代にちょっとだけジャズをかじっていた時期があったので、オスカー・ピーターソンの演奏はそれなりに聞いたことがあったし、物凄い技巧で格好いい演奏が好きだった。大学生の頃は彼の社会的な功績について調べる事すらもしなかったけれど、このドキュメンタリーを見ると彼の功績は人種差別への挑戦でもあったのだなということを知った。オスカー・ピーターソンに限らず芸術は、時代に対するアンチテーゼとして過去さまざまな改革や変革を引き起こしてきた。

このドキュメンタリーをトリガーに、自分でも理屈はよくわからないのだが、ある疑問が湧いた。教育と通過儀礼の類似性と相違点とはなにか?というものだ。前置きが長くなったが、今回はこれについて考えてみる。

通過儀礼とは

通過儀礼というものはどうやら文化人類学が扱う領域に含まれるらしい。
このページは参考文献が乗っていてよくまとめられている。

この記事を書こうと思った時に思い浮かべた通過儀礼は、日本でいえば"元服"とかのことだったので、上記ページを読むと、通過儀礼の中でも特に"人生儀礼"とよばれるものの話を僕はしたかったらしい。今回は通過儀礼で統一して表記する。

通過儀礼には、以下の3つの局面が内包されているとのこと。

①現在の状態からの「分離」
②どの状態でもない「過渡」
③新しい状態に向けた「統合」

【通過儀礼とは】その意味から具体的な例までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

例として、「ヌアー社会の成人式」として執り行われる、「ガル」という儀礼についても例を挙げてくれている。

・「ガル」と呼ばれる手術を受けて、少年は大人の仲間入りをする(ガルでは小さなナイフで少年の額に、6本の切り傷をつける。傷跡は生涯残り、死体の頭蓋骨にもその跡をとどめているという)
・対象は14歳〜16歳の少年で、4人〜12人の少年がまとめガルを受ける
・ガルを受ける少年たちは、まず分離させられる
・手術が終わると、一時的隔離されて、さまざまなタブーを課せられる
・最後に、特別な儀式をへて隔離の時期を終了する

【通過儀礼とは】その意味から具体的な例までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

これこれ。こういう例を見たかった。
こういう、伝統的・民族的な通過儀礼というものを身近な集団に置き換えて、現代の人もたまに「通過儀礼」という表現を使ったりする訳だ。
それにしてもこのサイト分かりやすいなぁ。参考文献はいずれちゃんと読んでみたい。

さて、僕は上述したヌアー社会の歴史やナラティブは一切知らない。きっと、先祖代々受け継がれてきた何かしらの大事な教訓が含まれているのだろうと思うし、この文化の是非については特に述べようと思わない。
ただ、自分がたまたま生まれたのが、年齢的な通過儀礼(人生儀礼)にあまりクセのない、現代の日本で良かったな、と個人的には思う。大人になるためにナイフで切り傷を付けないといけないなんて痛いからシンプルに嫌だし、それを嫌だと言えない同調圧力的なものはおそらくこの文化に存在するのだろう。他国の事ばかりではない。日本の切腹だって、生死の境にあった通過儀礼の一つだ。

本当に、クセのある通過儀礼が残っていない現代の日本に生まれてよかったと思う。

本当に、そう言い切れるのだろうか?

教育の通過儀礼化

もう一度、通過儀礼の3つの局面を見てみよう。

①現在の状態からの「分離」
②どの状態でもない「過渡」
③新しい状態に向けた「統合」

【通過儀礼とは】その意味から具体的な例までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド (liberal-arts-guide.com)より

これは、学制そのものなのではないか?
特に、偏差値偏重になり切ってしまった現在の学制は、通過儀礼そのものになっているのではないか?(もちろん、最近の探究ムーブの流れは理解しているけれど、論点はそこではない)

人間の成長と通過儀礼

さて、ここで根本的に考えないといけないことが2つある。その一つが、人間の成長において通過儀礼は必要なのか否か、という点だ。あなたはどう思うだろうか。

僕は、社会性生物として今後も人類が生活し続けるのであれば、通過儀礼は根本的に必要なシステムなのだと考える。というか、人間に限らず生物と通過儀礼はきっと、切るに切れない存在だろう。人間以外の動物にだって例えば巣立ちとか親離れとかが存在する。いや、なんなら情報機器だって一緒かもしれない。ソフトウェアアップデートとかも、通過儀礼と捉えてもよさそうに思える。時間と共に変化していくものには、変化が起こる特異点・変曲点的なものがどうしても存在し、そこに通過儀礼というものは当てはまってしまうだろう。

通過儀礼としての教育の固定化

もう一つ考えたいのは次のことだ。
教育を通過儀礼と捉えた時に、その方法は現在のように根本的なアップデートが組み込まれていない形で本当に良いのだろうか。
大人になるためにナイフで体に傷をつける通過儀礼に対して、自分はそんな通過儀礼は嫌だ。と思う現代の日本人のように、
大人になるために学校という箱の中で勉強する通過儀礼に対して、自分はそんな通過儀礼は嫌だ。と、200年後くらいの若者が思ってくれるようなより良い代替策を持った社会に、きちんと僕らの世代は向かっていけるのだろうか。

具体的に、じゃあどんな形がいいのか?って言われると、全然わからない。ただ、少なくとも大切だと分かるのは、次に社会採用される通過儀礼は「根本的アップデート」を内包したものになることだろうと思う。

冒頭で紹介したオスカー・ピーターソンは、もしかしたら当時のアメリカの通過儀礼を幼少期に通らずに技術を磨いたからこそ、さまざまな苦労に負けずに歴史を変える力を折られずに済んだのかもしれない。ここから考えると、「根本的アップデート」を内包したシステムを作るには、もう一点重要そうなポイントがある。
通過儀礼を通ってしまった人間には、通過儀礼のメガネが残ってしまう。
ということだ。

通過儀礼は何らかの形で必要なものであるとしても、通過儀礼の必要性はあくまでも相転移のためのものだから、どこかでアンラーンするための通過儀礼も設計しないと、神話がアップデートを妨げてしまうだろう。

ここ、ちゃんと勉強した方が良さそうだな。

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