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『「河井継之助を恨んだ米百俵の小林虎三郎」勇ましさに流された長岡藩』についての指摘したい事。

先日、河井継之助で検索していた時に、長岡人として許しがたい記事を見つけたので、記事を引用しつつ細かく指摘していこうと思う。

問題の記事はNTT東日本のHPにある失敗の歴史学、経営力向上ラボにある『「河井継之助を恨んだ米百俵の小林虎三郎」勇ましさに流された長岡藩』である。


まず記事は加来氏によって河井継之助の一生を説明しているが、

「5月2日、官軍=東征軍が長岡を隔てる四里の地・小千谷(おぢや)に迫ってもなお、継之助は官軍本営に乗り込み、率直に中立を表明する。官軍からは献金や出兵の要請がなされるが、ことごとくを辞退したい、と掛け合った。しかし、それらは容(い)れられるはずもなく、翌3日、ついに長岡藩は官軍と対峙(たいじ)することとなる。」

この部分は説明不足である。
河井は和平交渉の仲立ちをするために向かったことが書かれていない。
このとき長岡藩、河井は中立を宣言し東西両軍の和平交渉の仲立ちに立つことを西軍軍監、岩村精一郎に申し出ている。
それに先立ち、長岡藩領から長岡軍旗を用い長岡藩の攻撃に偽装して西軍に攻撃していた会津藩を和平の妨げであると、長岡領から追い出し、長岡南の要衝である榎峠から兵を引き抵抗しない旨を示している。
岩村は河井の藩主名義の嘆願書を全く受け入れず、ただ金と兵の供出を求めたため、交渉は決裂に終わった。
万国公法を引用し、中立国を攻撃することは無法であると説く河井に、ともかく金と兵を差し出せと強盗のような回答をしたのは岩村である。
このためやむを得ず、長岡は奥羽列藩同盟に加盟し、越後諸藩も長岡に追従する形で奥羽越列藩同盟が結成され、血みどろの北越戦争が始まるのである。
この時、西軍、いわゆる新政府軍が河井の嘆願を聞き入れ、会津側が和平に応じなければ、長岡は逆に西軍側に立って会津と戦っていたこともあり得る。その場合は会津に長岡が攻められるのである。
実際、河井は越後で略奪を働き、長岡藩旗を偽造して西軍を攻撃した会津の佐川官兵衛を快く思っておらず、長岡領から出て行かなければまず会津を討つとしていた。
どちらについても長岡の民は戦に巻き込まれる。河井は民のためにも戦を止めようとしたのである。


次に小林虎三郎の話に移るのだが

「虎三郎は勇ましい主張、感情論に押されて旧幕府にも官軍にも付かず、中立を藩是と決した長岡藩を、心底から恨んでいた。」

そのような事実はない。少なくとも長岡でそのような話は聞いたことがない。何の資料に載っているのか?
河井と小林はお互い尊敬し合っており、小林の家が火事で燃えた時も河井は見舞いをし、小林は「火事で全てが焼け、今はお前さんに返すものは諫言ぐらいしかない」
と、自説をとうとうと説いた。河井は苦笑いして聞いていたいう話が伝わるし、戦後も小林が河井を恨んだという話は無い。
長岡の町人たちは河井を恨んだ、という話は伝わっている。それをごっちゃにしているのだろうか?

『「――人物がおりさえしたら、こんな痛ましい事は起こりはしなかったのだ。(中略)おれのやり方は、まわりくどいかもしれぬ。すぐには役にたたないかもしれぬ。しかし、藩を、長岡を、立てなおすには、これよりほかに道はないのだ」』

戯曲米百俵からの引用部分だが、その前のセリフも引用してみよう。

「一体なぜ、我々はこんなに食えなくなったのだ。貴公らにいわせたら、政治の取り方が悪いからだというかもしれぬ。いや、それもないとは申されない。
しかし、藩の取り高は、知っての通り、七万四千石から、二万四千石、三分の一へ減らされてしまっている。そのうえ、去年も、おととしも不作続きだ。これでは、どうやりくりをしたところで、充分にまかなえるわけがないではないか。
おおもとは、そんなことではない。これには、もっと深いところに根があるのだ。それはなにかと申すと、日本人同志、鉄砲の打ち合いをしたことだ。やれ、薩摩の、長州の、長岡のなどと、つまらぬいがみ合いをして、民を塗炭の苦しみにおとしいれた事だ。こんな愚かなことはさせたくないと思って、おれは病中、どれだけ説いたかわからない。しかし、藩の方では俺の意見を聞き入れなかった。・・・いや、おれは決して、過ぎた事を責めておるのではないのだぞ。どうかして、かような失策をふたたびさせたくないと思えばこそ、申しているのだ。それでは、どうしてこんな愚かなことをやったのか。つまりは、人がおらなかったからだ。」

ここで語られているのは、薩摩にも長州にも長岡にも人材がいなかったと言っている。日本人同士鉄砲の打ち合いをしたことがどれだけ愚かな事だったのかと言っているのである。
これは河井の想いと全く同じもので、河井、小林に共通する事は内戦はならんという事である。
長岡の嘆願を聞き入れず長岡の民を塗炭の苦しみに陥れたのは、薩長である。
もっとも戯曲米百俵は、山本有三が長岡で聞き取り調査をして書き上げたとはいえ、あくまで演劇の台本であり歴史的資料ではないが。

そして次は山本五十六であるが

 「五十六はときの近衛(このえ)文麿(ふみまろ)首相に、
「1年や1年半は存分に戦ってみせるが、そのあとの責任はもてない」
 と公言しつつ、開戦ヘ踏み込んだ。」

 「後年、最後の海軍大将となった井上成美(しげよし)は回想録でいう。
「あの時、山本さんが戦争しても日本は敗れます、とはっきりいっていれば、日本は開戦にはいたらなかったであろう」

山本五十六の言動は、幕末の河井継之助と何処(どこ)が違うのであろうか。」

全く違う。
同じと思う方がどうかしている。
共通点があるとしたら戦争を回避しようとした言葉であるというところだろう。
河井はすでに起きた戦を止めようとした言葉。
山本は彼我の戦力差を聞かれて戦えばどうなるかの見通しに答えた言葉。

井上の言葉は
「近衛さんは馬鹿だからはっきり無理だと言わなければわからなかったのだ」
と、近衛を馬鹿にした言葉であり、山本を責めた言葉ではない。
もし山本を責めた言葉だとするのなら
「近衛の馬鹿さレベルを量り違えた山本さんが悪い」
程度の意味でしかない。
さらに山本の言動というならば、三国同盟に一貫して反対した事、日米戦力差を把握し、対米開戦反対をずっと唱えていたこと、ゆえに右翼に脅迫され暗殺の危機すらあった事。
そして開戦反対の急先鋒だった山本を暗殺させないために米内光政が山本を連合艦隊司令長官に任じ、海に逃がす事で暗殺から救った事。
山本が連合艦隊司令長官となり、海軍省や軍令部で発言力を失ってから、海軍内の開戦の機運が高まったことなども述べるべきである。

仮にも歴史家を名乗る加来氏なのだから、以上の事は当然知っているだろう。
知っていてそれを伏せ、山本や河井は好戦的だという印象を持たせるのは、悪質な印象操作と言わざるを得ない。

「歴史を部分=「点」で捉えてはいけない。前後をもった「線」でつなぐと、見えないものがみえてくる。」

まったくその通りである。
山本の一つの言葉、「点」で山本を好戦的な軍人の様にとらえるのはあきらかにものが見えていない。

「誰しも、耳障りの言は吐きたくはないであろう。聞こえのよいことを発言した方が、格好がいい。」

全くその通りである。
だから、山本は他の軍人の様にアメリカと戦って「勝てます」などと言わなかったのだ。
耳障りな言葉、勝てても初めの1年半だけ、あとは無理だと言ったのだ。

以上のように加来氏は「点」でしか長岡の人物を論じていない。
「線」で見れば、河井、小林、山本は加来氏の言うような人間ではない事がわかるのである。
もっとも、NTTにこういう風な話をしてくれと依頼されてそれに合わせて書いたのかもしれない。
それにしても、都合よく切り貼りして人物を貶めるがごとき文を書くのは感心しない。
もし切り貼りの印象操作でなく、心底そう思っているのであれば、長岡の偉人たちの歴史知識や認識を疑わざるを得ない。

ここからは伊藤氏の言である。

「小林が設立した学校は、今風に言えば、世の流れに立ち向かい長期的な視点で判断し、「ノー」と言える人材の育成を狙ったはずです。」

まず小林の作った国漢学校だが、別に特別「ノー」と言える人材の育成を狙ったなどとは思えない。
国漢学校は、漢学だけでなく日本の歴史や国学、さらに洋学、地理や物理、医学までも、質問形式の授業で学ぶことができた。
幅の広い教育を行った学校である。
加えてそれまで藩校は武士だけが学ぶ場所だったのを、町人や農民にも開放し誰でも学ぶことができたのが特徴である。

「しかし、学校設立から70年ほどの間でその目的は風化してしまったのか、第2次世界大戦開戦につながりました。」

これは許しがたい暴言といえる。
国漢学校、そしてその継承学校たる坂之上小学校、長岡高校卒業生が第二次世界大戦を起こしたとでもいうのか。
当時の政府首脳で長岡高校出身者がどれだけ開戦に関わったのか。
そもそも山本五十六はたかだか連合艦隊司令長官である。
連合艦隊が担うのは戦術でありどこと戦うかなどの戦略ではない。
開戦の決定権を持つのは政府であり、海軍を代表して意見を述べるのは海軍大臣である。
作戦を決めるのは海軍軍令部であり、連合艦隊はその作戦を達成するための実行部隊であり、連合艦隊司令長官はその長でしかない。
会社に例えるなら政府が社長であり、軍令部が部長、司令長官は課長のようなものだろう。
課長が会社組織の決定権をもつ会社がどこにあるのか。
伊東氏は大日本帝国軍という会社の組織を全く理解していないとしか思えない。

「70年後と言えば、2~3世代後ということになります。当時の苦労話を直接知る者がいなくなり、開校時に掲げた理想や目的が薄まってしまったのではないでしょうか。」

山本五十六の事を言っていると思われるが、山本五十六は元の名を高野五十六、戊辰の役に参加した長岡藩士高野貞吉の子である。
苦労話を直接聞いている世代である。
さらに養子として継いだ山本家は長岡の名門家老の家で、河井継之助戦死後、長岡軍を率い戦死した山本帯刀の家である。
山本は戊辰の戦の悲惨さを身に染みて知っている。

総論
河井継之助や山本五十六は、個人的な感情で動く人物ではなく勇ましさに流されたなどという事は断じて無い。
両名とも天下国家国民の事を考え、それぞれの置かれた立場で最大限の活躍をした人物であり、あの記事は不当な貶めである。
山本五十六への印象操作は特に悪質というべきで、会社経営に例えれば、伊藤氏の言は社長のやらかしを課長に責任転嫁しているという事である。
もっともそのような企業は最近世間を騒がせており、ありふれた会社でもある。
経営力向上ラボというのであれば、あの記事から学べる事は

「下に責任を押し付けるような会社は破綻する」

「耳に痛い諫言をする部下を遠ざけ、イエスマンだけで囲った社長は失敗する」

そして、

「もっともらしい情報を鵜吞みにせず自分で調べる事が大切である」
この三点であろう。


戊辰戦争時、長州藩の砲撃が命中し大穴の空いた金峰神社のご神木。
今も当時の戦争の傷跡を我々に伝えてくれる生き証人である

以下は記事を書いてた方の人物感想。

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