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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(3)


 「神崎屋かんざきや」の三男坊、駒蔵が養子に入った「近江屋おうみや」の当主は、十代目、近江屋徳兵衛とくべえと言った。その名が示す通り近江国を出自とする近江商人(本宅を近江国に置きながら他国稼ぎをして、「商い場」と称する商圏を確立、出店を開設し、その地域での活動拠点とした)で、創業は元禄十三(1700)年というから、赤穂浪士の討ち入り事件の二年前のことになる。創業時の商いも、大坂に出店を出した年も不明だが、十代目の徳兵衛が扱ったのは、「竹」を原料とした日用品や工芸品であった。名高い竹の産地、大和・高山(現在の奈良県生駒市高山町)が、原料の主な仕入れ先だった。

 明治三(1870)年九月、明治政府は「平民苗字許可令」を公布する。それまで苗字があっても名乗ることのできなかった商人も、公に使用することができるようになった(五年後には、全国民に苗字を義務づける「平民苗字必称義務令ひっしょうぎむれい」も出る)。「神崎屋だす」と腰を屈めて口にしていた当主は、「わてが斎藤栄蔵にございます」と、かつての武士のように、堂々と名乗ってよくなったのだ。その公布の日からほどなくして、流行感冒から瞬く間に死の床についた、神崎屋の当主であり駒蔵の父である斎藤栄蔵は、妻の登み子を枕許に呼び、弱々しくはあったが一語一語に力を込めて言った。
「わてらあきんども、堂々と人様の前で苗字を名乗れる時代になった。そのうえにや、ええか。神崎屋の血を引く人間が二つの苗字を名乗るんやで。「斎藤」と、近江屋の苗字の「廣谷」や。新しい時代や。そう思たらどうや。駒蔵は古い家を継ぐだけやなしに、新しい時代の新しい苗字で生きて行くんや。わかってもらえへんか」

 栄蔵が、最後の力を振り絞って登み子に伝えたのにはわけがある。駒蔵の養子縁組の話は、駒蔵が生まれたときから神崎屋、近江屋双方の当主間で決まっていた。近江屋の十代目には子がおらず、このままでは家が絶えると、大番頭の佐助が神崎屋の遠縁にあたっていたことから話がまとまった。これは当時よくあった縁組のひとつに過ぎない。ただ、栄蔵は登み子に相談すらしておらず、彼女がそれを知ったのは、駒蔵が十歳を迎えた年のことだった。そのとき、いずれ分家して家を離れることになる我が子との別れが少々早まっただけだと、栄蔵は妻を納得させたつもりでいたが、表向きはこの話を受け入れた登み子が、実はかなり不本意であったことを後に知ることになった。

 登み子が特別、駒蔵を可愛がったというわけではない。男の子三人、女の子二人を、母は分け隔てなく愛したが、三男の駒蔵には、他の兄妹は持ち合わせない何かがある、といつも思ってきた。この子には商魂がある、もしかしたら長男よりも。通りで丁稚たちと無邪気に遊んでいる駒蔵を目にする瞬間にさえ、ふとそう思うことが登み子には幾度となくあった。置いておけば必ず神崎屋を助ける。そんな話を栄蔵にしてみたこともある。そして栄蔵も一笑に付すことなく、登み子の話を聞いた。
 だからこそ栄蔵は、この世を去る前に、妻に伝えたかったのであろう。駒蔵は別の苗字を背負って、新しい海に乗り出すのやと。そういう時代に、わてらは生きておるのやと。登み子は虫の息になっても伝えようとした夫の最後の言葉に、力づけられた。そして得心した。夫の遺言と受け取った。

 栄蔵が逝き、その年もゆき、明治四(1871)年の春が来る。栄蔵の喪は明けぬまま、数え十五になった駒蔵は、神崎屋の三男坊から、近江屋の十一代となるべく、船場の大店を出立した。堺筋を北上し、土佐掘川を渡って中之島へ、さらに堂島川を渡り、老松町一丁目を目指す。
 母とは、神崎屋の奥座敷で別れの挨拶を交わした。こちらの大番頭から近江屋から迎えにきた大番頭の佐助に、店の前で引き渡され、わずか十町(=約1キロ)ほどを、近江屋の家紋のついた佐助の背中を見ながら、駒蔵は歩いた。時間にすればわずかだが、駒蔵にとっては、父親に連れられて蔵屋敷あたりをそぞろ歩いた中之島が大坂の北限で、そこを越えるとまるで地の果てまでの旅にも思われた。

 当然のことながら、その十五歳の少年が、近江商人の十一代目にすぐに納まるわけではない。十代目徳兵衛が四十は超えていたが未だ健在であったし、いくら大店の生まれと言っても、敷居を初めて跨いだその家の丁稚修行から始めるのが、商人の習いであった。近江屋の家風・規律を身につけるには、一、二年という時間はどうしても必要であったのだ。
 近江屋にはそのとき、二十人余の働き手がいた。丁稚奉公から始めて大番頭にまで昇り詰めた佐助が、店の一切合切を仕切る。日々の掃除、洗濯から食事に関わるあらゆる雑事、小使い歩き等々、上から命じられることすべてを文句も言わずにこなす丁稚は、牛や馬と同等。しかし勤勉に務めあげ、番頭の覚えめでたければ、十七か八で昇進、手代となり、商品の仕入方、売方、勘定方、と雑用以外の仕事に就ける。羽織の着用、酒、煙草も許され、独立も視野に入ってくる。これまで“ぼん”として、のほほんと過ごしてきた駒蔵だが、ここでは佐助の命により、幼い頃から仕える丁稚とまるで区別をつけられることなく、あらゆる雑用が与えられた。遠縁であるが故に、逆に佐助も手を抜かなかったのであろう。
 もちろん駒蔵が次の当主となることは公然の事実なので、本来なら新米の丁稚が必ず受ける仕置きやしごきは表面的にはなかった。ただ、この家のことを何ひとつ知らぬ新米が、ある日突然、当主になるという不条理を認めたくない者たちによる抵抗がないわけではない。

 年に二度、盆前と大晦日の節季(決算期)にかけては、猫も杓子も目の回るほど忙しい毎日だが、それを乗り切れば、丁稚が死ぬほど楽しみにしている「すき焼きの日」(肉を好きなだけ食える)という一日が近江屋にはあった。その日はいつも直前に決まるので、丁稚頭が全員に伝達することになっていたが、近江屋にやって来た駒蔵にとって初めてのその日は、駒蔵だけに一日遅れで伝えられた。
(つづく・次回の掲載は11月15日の予定です)

*参考資料:「江戸時代 近江の商いと暮らし」(おうみ学術出版会刊)
*実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。


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