広谷鏡子

1960年香川県生まれ。1995年『不随の家』で第19回すばる文学賞受賞、97年『げつ…

広谷鏡子

1960年香川県生まれ。1995年『不随の家』で第19回すばる文学賞受賞、97年『げつようびのこども」が第118回芥川賞候補。文楽、サッカースペイン代表、宝塚をこよなく愛する小説家です。短歌誌『プチモンド』(松平盟子編)に連載中のファミリーヒストリーを、月2回掲載します。

最近の記事

  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(14) (*文末にお知らせがあります)  美津とは所帯を持ち、「京縫」の女将である千鶴との間にも男児のいる駒蔵だったが、だからといってお茶屋通いが収まったという訳ではない。近頃頻繁に足を伸ばすのは、心斎橋界隈で一、二をあらそうという待合茶屋で、そこで商売仲間と「会合」という名の宴を開いていたときのことだった。  厠に用を足しに行った際に、別の座敷のちょっとした騒ぎと出くわした。二人の客が一人の芸子の奪い合いをしている、と

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      ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(13)  千鶴に子ができたと告げられた時、これは面倒なことになった、などという気持ちは微塵も湧いては来ず、駒蔵は美津の時以上と言ってもいいほどの喜びに満たされた。美津は駒蔵よりも先に知っていて、「へ。おめでとうさんでござります」と、満面に笑みを浮かべて心からの祝福を表した。  美津自身も、内心ほっとしていたのである。まさか最初の子を産む順番まで譲ってくれたわけではないだろうが、千鶴は年が一つ上の美津をいつも立て、たまたま

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        ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(12)  美津と千鶴は、とても気が合った。性質がまるっきり反対なのが案外その理由だったかもしれない。美津は弟と妹の一人ずついる長女だけれども、世間知らずののんびり屋。人前に出たりするのは苦手で、家の中のことをする方が好きだった。何事もゆっくりだが手先は器用で、きれい好きで、洗濯や、掃除や裁縫といった地道な家事を好んでした。  一方の千鶴の社交性は、商売で身についたというわけではない。人懐っこさと楽天的なのは根っからだし、

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(11)  お初天神の前でばったり出くわした、駒蔵の惚れた女二人が、偶然、住まいも近く、お互いの家の屋号は知っているが下の名前までは知らない、いわば挨拶はするくらいの仲であったというのだ。もちろん驚きはしたものの、「そら、紹介する手間が省けたがな」と、なんでも都合よく考えるのが駒蔵であった。曽根崎新地方面からやってきた千鶴は、駒蔵への挨拶もそこそこに、美津と肩を並べてすでに歩き始めていた。駒蔵は自ずとその後からついて行くこ

          <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(10)  「はい、廣谷駒蔵はわたしですが。あんさんは?」  言葉を返しながら、その娘のかすかな不安に彩られた顔を見て駒蔵が思ったことは、どこかで逢うたことがあるやろか、だった。色白で、形のいい額に切れ長の涼やかな目、誰が見ても別嬪さんやなあ、と言いそうだが、一度逢っただけならすぐに忘れてしまいそうな顔。なのにそんな気がしたのだった。しかしこの美しい娘が、自分目当てに正栄社を訪れているのは明らかなのだ。駒蔵は心の底から幸福

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(9) 「もう昔の時代やない。けどな、ここに残ってわしを見張っといてくれ」  世が世ならとっくに暖簾分けをして別の屋号で店を構えているはずの近江屋大番頭、佐助は、新しい商売には今ひとつ自信がなかったものの、丁稚の時代から仕込んできた駒蔵にそう懇願されて、新会社「正栄社」の幹部として残る決断をした。こうなったらこの会社の行く末、どこまでも見届けてやろやないかい、という気になっていた。 「佐助はん、なんや思う?」  ブラジルに

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(8)  幕末から明治の始めにかけて大阪の経済は大きく落ち込んでいたのだが、それを救ったのが明治十(1877)年に勃発し、半年以上も続いた西南戦争である。大阪は政府軍の兵站基地として港も活気づき、戦争景気に湧いた。それでも外国との貿易はすぐには伸びなかった。この商売、当初は人気がなかったようだ。  大阪の発展に大きく貢献した五代友厚の良き女房役であり提言者であった実業家、加藤祐一の『交易心得草』(前編)はこう述べる。 「交

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(7) 物語を始める前に、新年のご挨拶を申し上げます。 駒蔵、今年も暴れ回ることと思います。 どうぞ温かい目で見守って下さいまし。 彼の人生になくてはならない「伴侶たち」も、いよいよ登場します。 駒蔵共々、ご愛顧願います。 読者のみなさまにとりましても、今年がいい一年となりますように。 ここは、大阪らしく二本締めで、 新年の言祝ぎと致しましょう。 打ーちまひょ  「パンパン」 もひとつせぇー 「パンパン」 祝うて三度 「

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(6)  断髪、脱刀を自由とする「断髪脱刀勝手令」が施行されたのは明治四(1871)年のことである。しかし容易には旧士族に浸透しなかった。多くの平民にとってもそれは差し迫ったことではなく、相変わらず丁髷を結っていた。翌年、大阪府の大参事が「頭髪ニ関スル諭達」なるものを公布して散髪を促す。曰く、「頭部は人の精神が集まる重要なところであるから、大切にしなければならない、頭部を日光や寒風にさらすことは病気の原因ともなる、髪を伸ば

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(5)  年初めの近江屋は、表通りに面した店舗から一番奥の米蔵まで、いたるところが正月飾りで彩られる。表には家紋の入った幕を張り、その上には“ゴンボ”と呼ばれる注連縄を飾る。別の出入り口や土蔵の入り口にも、大小さまざまな注連縄を飾って魔除けにする。年末の節季を終えたばかりの奉公人が、てんやわんやで汗したおかげだ。丁稚として四年九か月、駒蔵もそんな仕事に明け暮れたが、それも大晦日でついに最後となった。翌、明治九(1876)年

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(4)  近江屋恒例の「すき焼きの日」が行われた翌朝、大番頭の佐助はいつものように、奉公人全員を店の土間に集めた。一段高い勘定場から訓話か小言か判然としない話をしたあと、昨夜、ついに現れなかった駒蔵に目を留めて言った。 「お前、なんで昨日来んかったんや、すきやきの日やのに」  佐助は、駒蔵が来なかったのは、どうせ丁稚頭の兵六が仕組んだせいに違いないとはわかっていたが、駒蔵の表情にいつもと何の変わりもないのを訝って、尋ねたの

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(3)  「神崎屋」の三男坊、駒蔵が養子に入った「近江屋」の当主は、十代目、近江屋徳兵衛と言った。その名が示す通り近江国を出自とする近江商人(本宅を近江国に置きながら他国稼ぎをして、「商い場」と称する商圏を確立、出店を開設し、その地域での活動拠点とした)で、創業は元禄十三(1700)年というから、赤穂浪士の討ち入り事件の二年前のことになる。創業時の商いも、大坂に出店を出した年も不明だが、十代目の徳兵衛が扱ったのは、「竹」を

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(2)  廣谷駒蔵は安政四(1857)年、大坂は船場、堺筋の砂糖問屋「神崎屋」の三男として生まれた。船場は、北は土佐堀川から南は長堀川までの約二キロ、東西は東横堀川から西横堀川までの約一キロの地域を指し、かつて船着場があったことからこう呼ばれる。その船場に立ち並ぶ商家の中でも、神崎屋は店の間口が六間ある典型的な上方商家の大店であった。表と奥との二棟からなり、表側の棟は店(見世)で二階建て、二階部分は手代などの部屋か物置にな

            <連載小説> 沈み橋、流れ橋

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          ―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり― 第1章(1)  ここに古めかしい写真がある。  撮られた場所は宮崎の青島。写真の裏にそう記されていなくとも、背景の椰子のような木(ビロウ樹)から、南国の暖かい場所だと推測できる。それらがにょきにょきと生えている砂地の向こうには、海が広がっているのだろう。  正装ではないが、みんなめかし込んでいる様子だ。大阪に住んでいるはずの彼らがこんな海岸にいるのは、九州まで旅に出ているからだ。このほかにもっと大勢で写った集合写真も存在する。一

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