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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(1)


 ここに古めかしい写真がある。
 撮られた場所は宮崎の青島。写真の裏にそう記されていなくとも、背景の椰子のような木(ビロウ樹)から、南国の暖かい場所だと推測できる。それらがにょきにょきと生えている砂地の向こうには、海が広がっているのだろう。
 正装ではないが、みんなめかし込んでいる様子だ。大阪に住んでいるはずの彼らがこんな海岸にいるのは、九州まで旅に出ているからだ。このほかにもっと大勢で写った集合写真も存在する。一族郎党を引き連れ、都会を離れはるばるここまでやってきた男が、この写真の右端に写っている。
 着流しに膝まで丈のある羽織姿、頭には中折れ帽を乗せ、鼻の下にはうっすらと髭を生やしている。少々コミカルに見えるのは、籐製の中身が広く膨らんだバッグを学童みたいにはすがけし、右手に杖をついて、六人の中で一番所在なげに立っているせいか。そして縁無し眼鏡の奥の小さな二つの瞳は、カメラのレンズから少しずれて、正面を見ていない。老人と呼ぶには違和感があるものの、すでに人生の最盛期は過ぎたこの男が、これから始まる物語の第一の主人公、
 廣谷ひろたに駒蔵こまぞうである。
 写真上で、彼と三角形を形作る位置に、二人の女がいる。駒蔵の斜め前の女は、砂地に置かれた椅子に腰掛けている。目はしっかりとカメラを見つめ、本来はモノクロのため色はわからないが(注・当時の様子に近づけるため、AIで色付けしてある)、小紋の着物に派手な大柄模様の帯、やはり丈長の羽織、膝の上で両手の指先をきちんと揃えている。なかなかの美人である。そして彼女の背後には、やや内向きの角度で立つ女がいる。顔は正面を向き、暗めの無地の着物に同じく長羽織という出で立ちだ。微笑ましいような駒蔵の様子に比べて、毅然とした佇まいのこの二人こそが、主人公を支える女たちだ。
 写真が撮られたのは大正五(1916)年。駒蔵はこのとき、翌年隠居することを決めたばかりの五十九歳。立っている方が、彼より十四歳年下の美津みつ。座っている方が千鶴ちづで、美津より随分若く見えるが、年は一つ違いである。二人は駒蔵の子供を計十八人、かわるがわるに産んだ。
 どちらかが正妻で、どちらかが二号、もしくは妾と呼ばれる存在なのではない。駒蔵はどこへ行くにも、美津と千鶴を伴った。二人の女は仲が良かった。どちらとも駒蔵は正式な婚姻をしていなかったが、先に美津の方に子供ができたので、廣谷の籍に入った。千鶴が、
「子供ができたんやから、あんた、はいんなはれ」
 と美津に進言して、駒蔵にとっての最初の子供、信太郎のぶたろう誕生を機に、美津が駒蔵の戸籍上の妻となったのである。

 さて、自己紹介が遅れた。
 私は、駒蔵から数えて三代目にあたる、少なくとも五十人以上はいる曽孫ひまごの一人だ。幸か不幸か、偶然か必然か、現在、小説家の端くれである私は、曽祖父の存在を知って以来、会ったこともないこの人のことがずっと気になっていた。「わしは廣谷家の司馬遷しばせんじゃ」と豪語し、折に触れ、駒蔵およびその周辺の人々についての逸話を面白おかしく語ってくれた父が他界したいま、情報収集は困難にはなったが、駒蔵から始まる我が家の歴史を紐解いてやろうじゃないかと思った。それこそは我が役目と心得、この試みに乗り出した一番の理由は、駒蔵の生まれ年に気づいたことである。
 嘉永六(1853)年、浦賀に黒船が来航し、翌年、日米和親条約が結ばれる。同じ年、大坂(当時は「坂」だった)にもディアナ号というロシア国籍の船が来航している。大砲を六十挺も積んだ「おろしや国」の艦船に、大坂の人々は周章狼狽したと歴史書にはある。そのわずか三年後の安政四(1857)年、駒蔵は大坂・船場に生まれている。さらに翌年、日本は米国をはじめ五か国と修好通商条約を結ぶことになる。つまり、二百年以上世界に門戸を閉ざしていた日本が、永い眠りから覚めようとしていたその渦中に、我が曽祖父は産声を上げたのだった。
 黒船来航に始まった明治維新を「日本の夜明け」と一九六〇年生まれの私は学校で習ったように思うが、維新がもたらした近代の価値によって人々が解放されたという歴史観は、今はもう古いとされているらしい。とはいえ、「たった四杯(隻)で夜も眠れず」と江戸の狂歌に詠われた米国の蒸気船の出現は、人々にとってまさに驚天動地の出来事だったであろうし、これまでとは全く別の海の荒波の中に、曽祖父が産み落とされたことは間違いない。そしてその六十年後、彼は清々しい目を持った二人の女を連れ、南国の海岸に飄々ひょうひょうと佇んでいた。
 自らが辿った軌跡を、およそ百年後に生まれた曽孫が書き記そうと筆を執ったと知れば、彼は何と言うだろう。喜んでくれると信じて書き始めることにする。なお廣谷家に関する調査の大部分は、千鶴の三男、七郎の末の息子である、廣谷昭彦氏によるものである。(つづく・次回の掲載は10月15日の予定です)

*実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。
 タイトルの「沈み橋(流れ橋、沈下橋などとも呼ばれる)」とは、増水時に川に沈んでしまうように設計された欄干のない橋のこと(高知県・四万十市ホームページhttps://www.city.shimanto.lg.jp/soshiki/13/1454.htmlより)。流木などは橋の上を流れていきやすく、土砂が橋桁に引っかかって橋が壊れたり、川に水が堰き止められて起こる洪水を防ぐ。高知で、この橋がいくつもかかる四万十川の美しい風景を初めて見たとき、その雄大さと共に、増水の多いこの地域の住民の知恵に感じ入った。人は、自然をはじめ人知ではかなわぬものとの関わりなしには、生きていけないのだ。



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