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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(11)


 お初天神の前でばったり出くわした、駒蔵の惚れた女二人が、偶然、住まいも近く、お互いの家の屋号は知っているが下の名前までは知らない、いわば挨拶はするくらいの仲であったというのだ。もちろん驚きはしたものの、「そら、紹介する手間が省けたがな」と、なんでも都合よく考えるのが駒蔵であった。曽根崎新地方面からやってきた千鶴は、駒蔵への挨拶もそこそこに、美津と肩を並べてすでに歩き始めていた。駒蔵は自ずとその後からついて行くことになる。
 左側を歩く、いま知り合ったばかりの美津はすらりと背が高いので、右側を行く「京縫きょうぬい」の新女将、千鶴がいつも以上に小柄に見える。生まれ年は一つだけ下の千鶴は、にこやかに美津の顔を見上げて、何やらいろいろ話しかけている。年下とはいえ、千鶴はお茶屋をひとつやりくりする女主人であり、一方の「へ」と相槌を打つばかりの美津は、履物屋のとうさんであるのだから、こうなって然るべしと、駒蔵は二人の後ろ姿を微笑ましく見守りつつ歩いた。
 美津は少し腰を折るようにして、一生懸命話に耳を傾けているが、二人の会話は後ろの駒蔵まではよく聞こえない。ただどちらの女もなんと頼もしく魅惑的であることよ、ということばかりが頭を占め、困ったことになったとは思わないのは、駒蔵が特別に楽天的だからではなく、男女の“色”や“情”と呼ばれてきたものが、明治になって西洋から輸入された“恋愛”とはまた別物であったせいもあるのだろう。
 日本に「家制度」が法的に確立したのは、明治三十一(1898)年に制定された明治民法以降のこと。旧武士階級はともかく、それ以外にとっては、「家」の継承は重要視するものではなかったから、子供の結婚に親が強く干渉することもなかったし、女子の貞操観念という意識も薄い。農村でも商業地でも、男女は仲良くなれば結ばれる。性はずっとおおらかであったのだ。

 駒蔵は、千鶴とは「京縫」の女将になったら、との約束を交わしていたので、すでに男女の仲であった。商売柄、色恋ごとには敏感な千鶴であるから、駒蔵がいそいそと妙齢の女を連れているのを見て、当然何かあると勘づいた。美津に話しかけながら背後の駒蔵に視線を送っていたのを、しかし駒蔵はただ素直に受け、暢気に笑みを返しさえする。
 正栄社の前に戻ってくるまでに千鶴は、名前から生まれ年から家族構成から、来る道で駒蔵が尋ねたよりさらにたくさんのことを美津から聞き出し、また、それと同じくらい自分のことも話すうちに、大層この娘が好きになっていた。とにかく自分はせかせかした気性だから、ときには痺れが切れるくらいおっとりとした雰囲気の客を辛気臭いと感じることもあったけれども、この娘のそれは決して千鶴を苛つかせるものではなく、むしろ気持ちを和らげてくれるのが心地よかった。いらんことは何も言わん、この嬢さんは素直で優しいお人や、と千鶴は思った。それに「お茶屋」という商いに警戒心を持つそぶりも見せず、「へ」と穏やかに応じてくれる。
 一方、美津の方も、千鶴に好印象を抱いた。それまでにも「京縫」の前を通って、水を撒いたり塵を掃いたりする千鶴を目にしたことがあるけれど、てきぱきと働く姿を気持ちよく眺めていたものだ。小さな履物屋と比べても、それはそれは出入りの多い気苦労の絶えない商売であるだろうに、一度か二度、路上で目が合っただけで、千鶴は手を止めて挨拶をしてくれた。今日初めてちゃんと話をして、そんな思いはさらに深まった。
 しかし今日はなんというおかしな日だ。会いに行った駒蔵さんという人と、この千鶴さんに、ともに身上調査みたいに同じことを聞かれた。おまけに駒蔵さんには、夫婦になるみたいな話をされたんだった。千鶴さんが自分よりも一つ年下で、女将だったことも初めて知って、感服するとともに親しみも覚えた。そしてどうやら、駒蔵さんをよく知ったお人らしかった。
 さっき、思いがけず立ち寄った天神さんで拝んだのは、「弟が早う一人前の跡取りになってくれますように」ということだったが、自身は一体どうなりますのやろ、いつ嫁に行ってもええ歳やろけど、とさまざまなことが頭の中をぐるぐる回り始め、気がついたらまた、最初に訪ねた正栄社の前まで来ていた。そういえば、と振り返ったら、夫婦になるかも知れん駒蔵さんのほころんだ顔が自分を見ていて、なぜかそのとき、心にぽっと火が灯ったような気がしたのだった。
「お千鶴さん、あんさん、ここに来るつもりでしたんか?」
 正栄社の前で、駒蔵は美津に向けたのと同じ顔で、千鶴に笑いかけた。
「あら、ほんまや。反対方向やわ。なんやお美津さんと話が弾んでしもて」
 と、千鶴も呼応するように微笑んだ。その真ん中で美津は、自分を見る千鶴の嬉しそうな視線と、駒蔵の愛おしそうな視線を一斉に浴びることになった。顔ばかりでなく全身が熱くなるのが自分でも感じられて、それが周囲に伝わっているのではと、恥ずかしくてならなかった。
「ほな、私はこれで。お美津さん、また」


 千鶴は鮮やかにさっと身を翻すと、早足で今来た道を戻っていった。駒蔵は、千鶴の背中を眩しい目で見送ると、今度はしっかりと美津の目を覗き込んで言った。「お美津さん、これで振り出しに戻りましたわ。さあどうぞ中へ。ようおいでくださりました」
 大きな暖簾をさっと開けて、駒蔵は美津を店の中へと導いた。旦那さん、どこ行ってはったんです、と大きな声が響いて男が飛んできた。つい数日前、美津に丁重な手紙を届けにきた佐助というお人だった。美津はようやく正栄社の客人となってもてなされ、客間に通された。
 その後、美津は何度か、店の中や外で駒蔵に会った。その頃には、心に灯った火の正体が美津にもわかってきていた。 
(つづく・次回の掲載は3月15日の予定です)

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。




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